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苑子と志村

作者: 日笠京太郎


「年の瀬だってのにどいつもこいつもシケた曲聴きやがって!ふざけんな!」


350mlの缶ビールを飲み干し、缶をコツンと机に置いた貴充が、声を上げる。

そうして机にうなだれるので、僕は貴充の周囲にあったお菓子をどけた。

忘年会と銘打った今回の宴会だったが、これでは結局いつもと変わらない。僕は小さいアパートの一室で貴充の背中をさすりながら、小さくため息をついた。


「まったく、呆れたもんだよね」

僕の正面に座る苑子がいつもの缶チューハイを飲みながら、それこそ呆れた様子で言う。今日の宴会は、貴充の「苑子ん家で忘年会やろうぜ!」の一声で始まったのだったが、主催者がこれでは呆れるのも無理はない。


「まあ、ある意味貴充らしいけど」

「そうだけどさ、なんて言うか」

苑子が一瞬言い淀み、そして俯く。

「私はそういう志村は好きじゃないからさ」

苑子はそこまで言ってから、僕から視線を逸らして天井を見つめた。酔いが回ってきたのか、その顔はほんのりと赤らんでいた。

「私は音楽やってる志村が好きなんであって、例えば授業サボってタバコ吸いに行く志村は嫌いっていうかさ、そういう志村は見たくないっていうか、なんて言ったらいいんだろ...」

苑子は貴充のことを、苗字の「志村」で呼ぶ。僕のことは山田からとって「山ちゃん」と呼ぶのに、貴充の「志村」呼びに関しては頑なだった。


「おい苑子、お前は結局何が言いたいんだ?」

苑子の作った「板醤ピーマン」を食べながら、僕の隣にいた敬が声を出す。万年金欠の敬は、今日も今日とて食い意地をはっていた。これもまた、いつもの宴会と変わらぬ光景だ。


敬の声を聞くなり俯き、数秒の後、苑子はぐびっと、缶チューハイを勢いよく飲み干した。その顔は先程同様赤らんでいて、やはり苑子は相当酔っているなとぼんやり思う。

「もう、何でもない。私が言ったこと、全部忘れて!」

苑子はそう言い切り、立ち上がって、自分のベッドから毛布を取って志村にかけた。その行為と唐突な発言に、僕は驚く。苑子自ら貴充を労わることなど今までなかったし、苑子はいつも理知的に話すのだ。

「いつだって志村は志村なんだから、言ったってしょうがないじゃん」


アパートのドアへ足を進めながら、苑子は呟くように言った。呟きにしては大きな声だったが、僕らに言ったにしては小さな声で、反応に困った。いつもの苑子らしくない言動だった。


「買い出し行ってくる。なんか欲しいものあったら、連絡ちょうだい」

そう言って苑子は、とぼとぼとアパートを出て行った。僕は突然のことで戸惑う。床には彼女の財布が転がっていたし、何より食べ物や飲み物は充分足りている。これは一度帰ってくるに違いないと思った。


案の定苑子は、数分後に戻って来た。その頰は依然赤らんでいて、僕は首を傾げた。



「今起きた!マジすまん!!」

という貴充からのメールを受信したのは、僕と敬がスタジオ前に来て数分が経ってからだった。

その文面を確認し、僕はため息をつく。貴充は時折、とんでもない遅刻をかますことがあるのだ。

僕は画面を敬に見せる。画面を見るなり、敬はわかりやすく表情を歪め、鬼の形相という表現がぴったり当てはまるようないかめしい顔をした。僕は心の中に、金剛力士像が去来する。

「あいつ...ぶっ殺す...すり潰す...」

敬の表情に明確な殺意が滲む。僕は慌てて、彼の肩に手を置く。ぶっ殺されてすり潰される貴充は見たくない。

「まあ、一旦落ち着いてよ」

「山田、スタジオ何時からだ?」

「14時だね」

「あいつの家からここまでどれくらいだ?」

「多分、1時間くらいだと思うけど」

「今何時だ?」

「13時55分...」

僕が時間を告げると、敬の表情に再度、明確な殺意が滲んだ。

「あいつ...ぶっ殺す...飯奢らせる...服奢らせる...然る後...すり潰す...」

「敬、殺さないで!落ち着いて!しかも、貴充も大概金欠だよ!」

僕はそんなこんなで、敬を必死に宥める。


敬がやっとこさ落ち着いたのは、「殺す」「落ち着いて」の問答を十数回繰り返した後のことだ。僕も敬もその問答で、幾分かカロリーを消費したが、セッション前のウォームアップだと割り切ることにした。数分の問答も無駄ではない、と。


「しかし、あいつの遅刻癖はいつになったら直るんだ...」

問答の後、少し息を切らした敬がそう言う。

「今年最後のセッションだーって相当張り切ってたから、今日は大丈夫だと思ったんだけど」

「あいつの遅刻癖は死ぬまで直らねえな、多分」

「直ってくれなきゃ困るんだけどね、本当に」

遅刻癖が直らなければ、何より貴充自身が一番困るだろう。

例えばデートの待ち合わせに貴充が遅れてしまえば、相手からの冷たい視線は避けられないだろう。いくら良いデートプランを組んでも、遅刻一発でおじゃんだ。

それはそうと、デートと言えば。


「そういえばさ」

デートについて考えていると、一つ思い出すことがあった。

「なんだ?」

「昨日の忘年会でさ、なんか苑子変じゃなかった?」

僕が言うと、敬は首を傾げた。「そうだったか?」

「急に買い出し行くって言って出て行ったと思ったら財布忘れてたり、普段は酔った貴充に厳しいのに昨日は毛布かけたり、色々変だと思ったんだけど」

気づけば早口になっていて、自分で少し恥ずかしくなる。

「酔ってたんじゃないのか?」

「そうなのかな?」

「顔赤くなってたし、酔ってたんだろう」

敬のゆったりとした口調を聞きながら、僕はあの時の苑子の顔を思い出す。確かに敬の言う通り、苑子の顔は赤らんでいた。

「考えすぎだろう」

「そうなのかなあ」

僕は釈然としなかったが、とりあえず頷いた。今思えば、苑子は酔ってもあまり顔に出ない印象だったし、飲酒量も特段多いようには感じなかった。本当にあれは、酔いによるものだったのだろうか。僕は一度気になり出すと延々気になってしまうたちだが、今回は一旦飲み込んだ。


「そんなことより、もう入るぞ。志村の奴を待ってたら、時間がもったいない」

「ごめん、それもそうだね」

敬に促され、僕はスタジオに入る。ギターボーカルの貴充がいない状況ではやることも限られるとは思ったが、敬の言うこともごもっともだ。

僕らはスタジオのドアを開け、中へ入る。

「お名前と時間を」

「14時から予約していた山田です」

「はい、Cスタジオで」

受付にいた顔見知りの男性とのやり取りを済ませ、僕らはスタジオに入った。

冬で寒さも厳しいだけに、空気はひんやりと冷え込んでいた。僕はふうと息を吐いて手を温め、ギターケースからベースを出し、アンプに繋ぐ。そしてぶいんと一つ鳴らし、音を調整する。


「じゃあ、ぼちぼちやるか?」

各々調整を終えると、ハイハットを踏みながら敬が言った。僕は頷き、返事の代わりにワンコード鳴らす。

「山田、何やりたい?」

「なんでも良いよ、僕は」

僕ら二人のいるCスタジオは依然、ひんやりと冷え込んでいた。今日は誰もこの部屋を使っていないのかもしれない。年の瀬にわざわざセッションをしようという奇特なバンドマンは、そういないのだろう。

胸には依然、昨日の苑子の言動が引っかかっていた。



「あいつ、しこたま食いやがって...」


電車に揺られ、財布を見ながら、貴充は恨み節を垂れる。スタジオでの演奏を終えてから行ったラーメン屋にて、敬が特盛にトッピング全部のせをし、貴充の財布を完膚無きまでに絞った後、その帰りの電車でのことだ。


「キャベツとか、あいつ残してたじゃねえか、ちきしょう」

「確かに、あれはやりすぎだったね」

「だろ?遅刻した俺も悪かったけど、本当容赦ねえよな」


財布をトートバッグにしまい、貴充は大きなため息をついた。そうして僕ら正面、反対のドアから見える窓の外を眺める。

ドアの前では大学生と思しきカップルが、笑顔で話していた。

「今年も終わりかー」

貴充が独り言のようにそう言う。

「楽しかったね」

「そうだな。一応大学にも慣れたし、お前らや苑子とも仲良くなれたしな」

「ちょっと気が早いけど、来年もよろしくね」

「本当に気が早えな。まあ、よろしくな」


そこで会話が途切れると、貴充は一瞬、ドア付近のカップルに目をやった。そして、手を繋いで楽しげに会話する彼らを数秒見て、一つ息を吐いた。それから視線を少し上げ、窓の外の風景を眺める。


「来年は、もう一人ギターを増やしたいよな」

貴充がふいにそう言う。

「どういうこと?」

「いや、俺の好きなバンドって、だいたいギター二人いるからさ。単純に、自分のバンドにももう一人欲しいなって思っただけ」

「入れるとしたら、誰になるの?」

僕がそう尋ねると、貴充は一旦視線を逸らし、反対のドアの方を見た。そこには依然、楽しげに話すカップルがいる。

「まあ」

「まあ?」

「苑子とか?」

貴充はそう言ってから、僕から視線を逸らし、下を向いてポケットに手を勢い良く突っ込んだ。「タカシや苑子には言うなよ、このこと」そう言った貴充の顔が赤くなってたいたので、僕はすぐさま、昨日の苑子の言動を想起する。合致がいった。この二人なら、あるいは、と思った。


僕は笑わないように気をつけながら、唇を噛み、「うん」とだけ空返事をした。

反対のドア、カップルの手は相も変わらず、がっちりと繋がれている。



年越し蕎麦を食べ終え、自分の部屋でベースを弾いていると、携帯電話が振動しているのに気がついた。一旦ベースを置き、画面をタッチして受信ボックスを確認すると、苑子からのメールが届いていた。文面を確認する。


「正月、初詣行かない?こっち帰ってくるの1/6だから時期的に遅いかもだけど」


苑子の実家は静岡にあると言っていたから、年末年始はそちらに帰省しているのだろう。僕はスケジュール帳を確認し、返信のメールを打つ。苑子からはないにしても、少なくとも貴充からの誘いはあるだろうとは思っていたから、念のため予定は空けておいていた。


「いいよ。僕は1/8、9、10なら行けるよ」


送信すると、僕は再度ベースを弾き始めた。しかし、苑子からの返信が思いのほか早かったので、すぐに携帯電話を手に取ることになった。


「了解。私もその3日は空いてるから、そのどこかで。タカシには私から声かけておくから、志村には山ちゃんからよろしく」


僕はそのメールを見て笑いそうになったが、息を殺して携帯電話を操作した。苑子も貴充も、お互いに気がつかないものなのだろうか。


「了解、貴充には僕から声をかけておくよ」


僕はメールを送信し、それからベースを持つ。一曲弾いてみようと思った。曲は、苑子がこの間気になっていると言っていた『SとS』だ。

ネックに指を乗せ、弾いていく。

弦に触れる人差し指の感覚が、なんだか心地良く感じられた。



駅前で待っていると、まず最初に敬がやって来た。

いつもと変わらぬ黒いダウンを着て、いつもと変わらぬ大股歩きで、改札を抜けて僕の元にやって来る。

年は変われど、敬は変わっていないように見え、僕は少し安心した。


「明けましておめでとうございます」

年明け始めて会うので、僕は一応挨拶をする。

「おう、おめでとう。やけによそよそしいな」

「親しき仲にも礼儀ありだよ」


久しぶりに会う敬は、やはり去年と変わらない印象だった。無表情だが無愛想ではなく、どこかすかした雰囲気があるのだ。

「年末年始は実家に帰ってたの?」

「元旦だけ一応な。それ以外は名古屋の親父のところにいた」

「お父さんは単身赴任なんだっけ?」

「そう。俺が小学校上がる前から、ずっとな」

敬はそこで少しだけ寂しげな表情になるので、僕は少し申し訳なくなる。しかしすぐに表情を戻したので、胸をなで下ろす。


「山田は年末年始どうしてたんだ?」

「僕は家族と親戚の家に行ってたかな。そこで何か特別なことをしたってわけじゃないけど」

親戚の接待と従兄弟との鬼ごっこで、気付けば帰宅時間になっていた。

「なるほど、そこでは何を食ったんだ?」

敬らしい質問だ、と思った。

「まあ、お寿司とか、ピザとか、フライドチキンとか、そういうのかな」

正月を思い出しながらメニューを言うと、敬がごくりと一つ、喉を鳴らした。

「なるほど、羨ましいな...」

「なんか、ごめんね」

「いや、お前が謝ることではない」

敬が表情を変えないまま言う。

「差し支えなければ、敬がお正月何を食べたのかも聞かせてよ」

僕が尋ねると、敬は少し頰を緩ませた。それにつられて、僕も笑顔になっていくのを感じる。

「親父の料理食ってたよ。チャーハンとかペペロンチーノとか、簡単なのしかなかったけど、まあうまかったな。カップ麺よりはずっと良い」

そう語る敬がイキイキとしていて、彼はお父さんが好きなのだと容易に想像できた。そして同時に、大学在学中に一度会ってみたいな、とも思った。敬にここまで好かれるお父さんに、一友人として単純に興味があるのだ。


「あれは志村か?」

敬の指差す方を見ると、改札から背の高い男性が歩いて来るのが見えた。敬の言う通り、貴充だろう。白いパーカーの上に紺のチェスターコートを羽織り、颯爽とこちらへ歩いて来る。

「ういっす、あけおめ!」

僕らの前に来ると、貴充は短く言って手を挙げた。

「今日は間に合ったな、志村」

「おかげ様でな。もう財布絞られるのは御免だ」

「やはり効いたか。一石二鳥だな」

敬の憎まれ口に、貴充はつまらなそうな顔をした。「け、面白くないぜ」


「貴充、明けましておめでとう」

「おう、あけおめ」

僕が話しかけると、貴充はにっと笑った。

「貴充は、年末年始どうだった?」

「どうもこうも、まあ親戚ん家だな。ジジババの接待して、子供と戯れて帰って来た」

貴充はやれやれといった様子でそう答える。

「親戚宅で何食ったんだ?」

「お前の食い意地は年が変わっても変わんねえな」

「食欲は人類の三大欲求の一つだからな。俺が人類である以上、食い意地を張り続けるだろう」

「いや、なんだよそれ。まあ、食ったのはおせちとかそういうのだよ」

貴充はこれまたやれやれといった様子でそう言った。

「おせちか、良いね」

僕のメニューよりはよっぽど季節感があって良い。

「おせちは良いんだけど、かまぼこは日本酒に合うんじゃー、だの、伊達巻きをつまみにビールいく輩とは縁を切る、だの、子孫繁栄のために数の子を食え、だの言われたら、うまいもんもまずくなんだよ」

貴充は荒っぽい口調でそう愚痴を言う。確かに親戚たちの接待をしながらでは、味に集中して食べられないだろう。僕もそうだったので気持ちはよくわかる。

「親戚の集まりっていうのは大変なんだな」

敬がしみじみ呑気にそう言う。

「随分他人行儀だな」

「まあ、実際そうだからな」

「け、面白くねえな」

貴充が言葉通りつまらなそうに言う。その会話を聞きながら僕は、二人とも変わらないな、と思った。

年が変わっても僕らの関係はきっと変わらない。僕はそう、再度安心することができた。


一通り会話を終え、ぼんやり辺りを見回していると、改札を出てこちらを向かって来る女性の姿を見つけた。僕はその姿を確認はしたが、知り合いではないだろうと判断し、無意識に視線を逸らした。しかし、その女性は僕らの元にやって来て「ごめん、お待たせ」と声を出したのだった。何事かと思い振り向くと、僕らは一様に驚愕してしまった。そして、しばらくの間黙りこくってしまう。


そこには、黒い着物を纏った苑子の姿があったのだ。黒地に白い花があしらわれた着物を身につけ、頭には桃色の花飾りをつけている。そんな出で立ち苑子が、僕らの前にちょこんと佇んでいるのだ。


「え、なんか言ってよ...」

口を「O」の形にしたまま動けない僕らを見兼ねた苑子が、不安げにそう言う。

「いや、いつも普通の服しか着ないのに、いきなり着物とか着て来るから...」

さすがの敬も、たじたじだった。

「すごく、似合ってると思うよ。うん、すごく似合ってる、すごく」

僕はなんとかそう言葉を紡ぐ。

実際、黒い着物は苑子に似合っていたし、何よりパーカーとカーディガン以外の苑子は新鮮で良かった。

「山ちゃん、今のお世辞?」

「いや、本心だよ」

「本当?」

「うん、本当に」

「なら、良かった」

そう言うと、苑子は少し顔を赤くする。

「それはそうと、苑子は着物も黒なんだな」

敬がそんなことを言うので、僕はどきりとする。それは言ってはいけないような気がした。

「しょうがないでしょ。実家にあった着物、これしかなかったんだから」

苑子の顔は依然赤らんでいる。

「実家から持って来たんだ?」

「お母さんに初詣に行くって言ったら、着て行きなさいってうるさかったから」

苑子は僕らと視線を合わせないまま、そう言う。彼女は普段から黒い服を着ることが多いため、敬の指摘は恥ずかしかったのだろう。

「まあ、着物着るタイミングってあんまりないからね。すごく良いと思うよ、初詣の着物」

「ありがとう、山ちゃん。やっぱり君は素晴らしい人間だよ、本当に」

そう言った苑子の目が少し潤んでいて、僕は何を言ったら良いのかわからなくなってしまう。


僕はしばらくの後、とりあえず目的地へ進むべきだと考えた。

「じゃあ、行こうか。駅にずっといてもしょうがないし」

僕が促すと、敬、次いで苑子が着いて来る。その後から貴充がやって来る。そうして、目的の神社へ歩き出した。


「おい志村、何ぼうっとしてんだ?」

歩道を歩いている途中、敬がそう言うのが聞こえた。見れば僕の後ろを歩く敬が、貴充の肩を突いていた。

「ああ、悪い。考え事してた」

「考え事?お前、そういう柄じゃねえだろ」

「うるせえな。俺だって考え事する時くらいあんだよ」

そこで貴充と敬の会話が止まると、僕の隣を歩く苑子がちらりと後ろを振り返った。すると、ちょうど前を見ていた貴充と目が合い、お互いすぐに視線を逸らす。見れば、双方の顔は赤らんでいる。さながら林檎だ。僕はその様子に笑いそうになるが、唇を噛んで堪える。あからさまだ、と思った。


コートのポケットに手を突っ込んですかした顔の貴充も、着物に身を包んですまし顔の苑子も、今は微笑ましくさえ見える。お互い、そういう感情には慣れていないのかもしれない。僕も大概慣れてはいないが、側から見ている分には面白い。

僕は二人ににやけ顔がばれないよう顔を前に向け、神社に通じる道を行く。これからの初詣も楽しみだ、と思った。


風が吹く。その拍子に貴充のチェスターコートと苑子の着物の裾がふわりと舞い、冬の路面がほんのり華やいだ。



神社には、さほど多くの人は見られなかった。1月の上旬とあってそれなりに混み合うことは覚悟していたが、そうでもなかった。参列客は少なくはないがさほど多くもなく、ある程度落ち着いて回ることができそうだ。


「とりあえず、御神籤でも買う?」

初詣自体久しぶりだったが、僕はそう提案してみる。あまり行っていなくとも、初詣といえば御神籤、というイメージくらいはあった。

「俺は任せる」

敬はぶっきらぼうに言って、苑子と貴充を見た。

二人はぼうっとしていたのか、敬の言葉にハッとして、同時に「何が」と声を出す。その様子に、また笑いそうになってしまう。

「何がって、御神籤引くか?」

「ああ、うん。良いんじゃない?」

「初詣だからなあ、一応」

ややしどろもどろになりながら、苑子と貴充が答える。

「じゃあ、引こうか」


僕らはそうこうして、御神籤の入った箱へ向かった。そして100円を払い、各々御神籤を引いていく。


「なんだ、中吉か」

まずそう言ったのは、敬だった。

「ちょっと見て良い?」

僕が頼むと、敬は長細い御神籤を見せてくれた。


中吉

願い事「叶わぬ。震えて眠れ」

待ち人「来ぬ。震えて眠れ」

学問「自己の甘えを捨て、震えて眠れ」

恋愛「感情を抑え、震えて眠れ」

商売「飽きる。震えて眠れ」


「なんか、ずっと震えて眠るように言われてるね」

「これ、本当に中吉か?完全に凶の書きぶりだ」

「とにかく、今年の敬は震えて眠るしかないみたいだね」

敬は釈然としない様子で御神籤をたたみ、結び所へ結びに行く。

中吉であの書きぶりだと、僕の方も心配になってきた。


「山田はどうだった?」

戻って来た敬に言われ、御神籤を確認する。するとそこには、「大吉」の文字があり、僕は少し安心した。

「大吉だ」

「おう、良かったな」

敬に祝われながら、僕は御神籤の内容を確認してみる。


大吉

願い事「叶う。しかし油断はするな」

待ち人「来る。しかし油断はするな」

学問「貴様はやればできる人間だ。しかし油断はするな」

恋愛「成就する。しかし油断はするな」

商売「飽きない。飽きるまで邁進せよ」


「なんか、なんとも言えない内容だね。全体的に、神様に浮かれるなよって言われてるみたいだ」

「山田は言われなくとも浮かれるような奴ではないだろうに」


僕らが一通り確認し終えると、丁度苑子と貴充が御神籤を買って戻って来るところだった。


「苑子と貴充はどうだった?」

僕が尋ねると、苑子と貴充が同時に愛想笑いをした。

「まあ、それなり」

「俺はまだ見てない」

「そうなんだ、ちょっと見せてよ」

僕が促すと、二人は御神籤を見せてくれた。それを敬と一緒に見る。


「これが苑子のだよね?」

「うん、そうだね」


大吉

願い事「己に正直にいれば、叶う」

待ち人「もう来ている」

学問「まあ、頑張れ」

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商売「好きなことで食っていくのはそう甘くない」


「大吉でも結構良い方なんじゃないか?山田なんか、神様に浮かれないように言われてるし」

「そうなの?」

「うん、しかし油断はするなってずっと書かれてる」

そう言って僕の御神籤を見せると、苑子は笑った。

「なんか、この神様面白いね」

「そうだね、随分ファンキーな神様だと思う」

そこで初めて、苑子がははっと笑い声を上げた。今日の苑子は会って以来ずっとがちがちだったから、それがちょっと嬉しかった。


「次は貴充のだね」

「おう」


願い事「叶わぬ。現実は甘くない」

待ち人「もう来ている」

学問「もう少し頑張りましょう」

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商売「好きなことで食っていくのはそう甘くない」


「凶なのに、苑子と内容似てるね」

「さっきからこの御神籤、パチモンなんじゃねえか?いくらなんでも適当すぎるだろ」

「結構自由な神様だから、文面は適当かもしれないね」

「まあ、そもそも俺は御神籤なんて信じねえから、別に良いんだけど」

貴充はそうごちって、大人しく御神籤を結びつけた。貴充は今、御神籤を信じないと言っていたが、多分、大吉が出たら御神籤を信じて上機嫌になっていたのだろうな、と思い、僕はちょっと可笑しくなる。


貴充に次いで、僕と苑子も御神籤をたたんだ。そしてそれを結びつけながら、僕は苑子と貴充の「恋愛」と「待ち人」の文面を思い出していた。


「貴様の裁量次第でいかようにもなる」「もう来ている」

御神籤には、二人揃ってそう書かれていた。僕もどちらかと言うと御神籤の内容は信頼しない方だが、案外信じてみるものだな、とも思った。


「神様正解、その通り」

僕は心の中で、そう言っていた。



御神籤を結び終えると、僕らは本殿へ向かった。長い階段をえっこらえっこら上り、ようやく上り終えると、僕らは本殿に入った。そうして各々財布を取り出し、向拝場の前に立つ。僕らの横では丁度、参列客がからからと鈴を鳴らして、二礼二拍手一礼をしているところだった。


「お前ら、いくら投げるの?」

貴充が僕らを見て声を出す。

「俺は5円だな。一番コスパが良い」

敬が言いながら、汚れた5円玉を見せてくる。

「賽銭のコスパってなんだよ」

「ご縁との洒落が効いていながら、値段は安い。賽銭のチョイスとして合理的で良い」

「そもそも、賽銭自体が合理的じゃねえよ」

貴充は笑いながら、綺麗な50円玉を見せびらかす。「俺はお前の十倍だ!恐れ入ったか!」

50円玉で意気がる貴充が面白くて、僕は吹き出してしまった。貴充も着物の苑子を見てからがちがちになっていたが、ファンキー神様のお陰で幾分かほぐれたのかもしれない。

「そもそも、小銭で神様に願いを叶えてもらおうっていうの、ムシが良すぎるよね」

10円玉を取り出した苑子が、微笑みながら貴充と敬を見る。

「願いは多分、自分で動かないと叶わないんだよ。他力本願じゃきっと、叶わない」

苑子が言いながら、僕らより一足先に、10円玉を投げた。そうしてからからと鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼をするのであった。


苑子の言葉を聞いた貴充は、俯いて唇を噛み締めていた。


「だってよ、敬」

「言われないでもわかってるわ」

僕は敬をからかってみた。すると敬はちょっと悔しそうな表情で5円玉を投げ、からからと鈴を鳴らすのであった。


敬に続いて、今度は貴充が50円玉を投げた。その表情は神妙で、苑子の言葉が胸に刺さったのだろうと僕は想像した。


「他力本願じゃきっと、叶わない」


苑子はそう言った。その時の彼女の心情ははっきりとはわからないが、彼女自身の感覚が反映された、思いの強い言葉であるように感じられた。


僕も小銭を投げる。財布を漁って最初に手についた10円玉を、ほいっと投げる。そうして鈴を鳴らし、二礼二拍手、そして一礼の合間に、「今年もずっと、皆んなといられますように」と願った。


この願いを実現させるのに僕がどうこうできるでもないが、心から出た率直な願いを言ってみた。叶うかどうかは皆んな次第ではあるが、僕は叶うと思っているし、皆んなもそんなようなことを願ってくれているのだろうと期待した。


「お前らは、何を祈ったんだ?」

長い階段を下りながら、敬がそんなことを言ったが、僕は恥ずかしくて答えられなかった。それは貴充も同様なのか、目線を逸らして下を向いている。その中で苑子が、敬の方を見て小さく微笑んでいた。

「そうね、秘密」

「なんだよ、つまんねえの」

苑子が僕と貴充の思いを代弁してくれて、一旦そこで会話は途切れた。敬はやや不満げな表情をしていたが、僕らは構わず階段を下りて行く。


苑子が一つ、息を吐く。その息が外気に冷却されて白くなり、やがて冬空へ消えていった。



参拝を終えた僕らはどういうわけか、駅前のカラオケボックスに入っていた。

神社から駅へと続く道にてなされた「中途半端な時間だな」「どっか行く?」「カラオケでも行くか」というとんとん拍子の会話で行き先が決定し、偶然見つけた駅前のカラオケボックスに入っていたのだった。


「初詣の後にカラオケって、初めてかもしれない」

苑子が言う。彼女の綺麗な黒い着物は、薄暗くタバコ臭いカラオケルームには不釣り合いにも思えた。

「普通行かねえよな」

「まあ、1回くらいはいいんじゃない?」

そんな会話をし、ぼちぼち歌い始める。


まずは、敬がマイクを握った。選んだのは彼の好きなパンクバンドの代表曲で、聴き込んでいるだけあって音程も合っていたし、リズム感もさすがといったところだった。

歌い終えると画面に得点が表示され、その点数は91点と高得点だったので、敬はしたり顔で席に着くのであった。


「タカシお前、意外にうまいんだな」

貴充が驚いた表情を見せている。

「これは、ドラムボーカルの爆誕かな?」

苑子がまくし立てる。

「今までナオキにやらせてたけど、タカシにコーラスやらせても良いかもな」

貴充が顎元に手を当てながら言う。「検討してやらんこともない」

敬もまんざらでもない様子で応じるので、僕は内心ドキッとしたが、表情には出さないように心がけた。

「僕の歌を聴いてまだそんなことが言っていられるかな?」

「お、山ちゃんはやる気だよ、タカシ」

「受けて立ってやらんこともない」

敬が鼻の穴を膨らませながら言うので、僕は気合いを入れてマイクを握った。コーラスをどうしてもやりたいというこだわりはなかったが、半年以上続けてきただけに多少の愛着はあった。


僕の選んだ曲は、敬の歌った曲と同じく、パンクロックに分類される曲だった。

パンク特有の早いBPMに遅れないよう気をつけながら、上下動の少ない音程バーを見て音程を合わせていく。パンクロックの多くは男性ボーカルで、飛び抜けた高音があるわけではなく、リズムさえ取れれば比較的歌いやすい部類に入ると僕は思っている。落ち着いて歌えば敬の点数を超えることもできるだろう。

ラスサビの中音域を歌い終え、僕はマイクを置く。喉が温まっている感覚があった。僕は少しだけ緊張しながら、画面を見る。

「93点」

画面にその点数が表示され、僕は人知れずほっとする。

「あ、やっぱ山ちゃんのがうまいんだね」

「タカシ、お前のコーラスはやっぱお預けだ」

貴充が言うと、敬がむっとした様子で僕を見た。

「山田、やはりコーラスはお前に譲る。そもそも俺はリズムにしか興味がないからな」

そう言った敬が少し悔しそうなので、僕は少し申し訳なくなって、小さく頭を下げた。

「心してコーラス重ねるよ」

「心配するな。お前のコーラスはそこそこうまい」

僕は敬から褒められたので、そこで嬉しくなって、笑顔で応じる。これからも、僕はベース兼コーラスを名乗れるだろう。


しかしそう思った矢先、僕の次に歌った苑子が女性ボーカルの難しい曲で98点を叩き出す圧巻の歌唱を披露し、僕と敬は急に小っ恥ずかしくなってしまった。井の中の蛙大海を知らず、とはまさにこのことだ。

そして僕は、貴充が苑子をギターとして迎えようとしているのを思い出した。そこで僕のコーラスへのちっぽけなプライドは、跡形もなく散っていったのであった。


もう、貴充がコーラスで良いと思う。



順番が一回りしたタイミングで敬が尿意でも催したのか、部屋を出て行った。

そして順番が回ってきて、僕は予約してあったポップスをしっぽりと歌っていた。わかりやすいコードとわかりやすいリズムが歌いやすいその曲は、大学入学後に苑子から紹介された曲だった。

僕は画面に表示された音程バーを見ながら、控えめに歌っていく。上には上がいることはついさっきわかったので、なるべく「普通の人」の歌い方を心掛け、やがて歌い切る。「上手い人風」に歌うのはちょっと気が引けた。


「なんか、山ちゃん遠慮してる?」

歌い終わった後、苑子がそう尋ねてくるので、僕はどきりとする。

「いや、別に普通だよ」

「そう?なんか、さっき私が歌った後変な感じになってたから、気使わせちゃったかなと思って」

「全然そんなことないよ。ちょっと上手すぎて、びっくりしただけだよ」

「そう?なら良いんだけど」

苑子はなお怪訝な面持ちなので、僕は少しだけ申し訳なくなった。


「ちょっと飲み物入れてくるね」

気まずさがあったわけではないが、僕はコップを持って部屋を出てみることにした。頭には、年末に貴充がした苑子加入発言や、苑子の急な着物、御神籤の内容がある。これまでの二人の言動を鑑みれば僕の推論は当たっている自信があったし、それならば、二人きりの時間を作ってやるのも、彼らのためだと思ったのだ。

僕はコップを持って立ち上がり、ドアへ向かう。


部屋を出る間際、僕は苑子と一瞬だけ目を合わせ、そっと親指を立ててみた。それに苑子は少し目を見開いていて、僕の意図が伝わっているかは定かではなかったが、苑子になら伝わるだろうという期待はあった。僕は心の中で、「がんばれ」と二人を応援してみる。


真緑のメロンソーダを入れながら、苑子と貴充に初めて会った時のことを思い出していた。


高校時代からのバンド仲間が軽音サークルをやめてしまった5月、僕は途方にくれていた。

軽音サークルのちゃらついた人たちとは馴染める気がしなかったし、僕自身人見知りをしやすい性格で、新しい交友関係を築くにも億劫になっていた。環境変化に伴うストレスもあったのかもしれない。

そんな中、部室で一言も発せずパンをかじっていた僕に話しかけてくれたのが、苑子と貴充だった。

今考えると、貴充のバンドのベーシストが脱退したのが丁度5月で、同じくベーシストの僕を代わりに加入させるという打算があったのだろうと思う。しかしその当時の僕はそんなことは知らず、貴充の軽口と苑子の人懐っこい笑みに寂しさが解けるのを感じ、思わず感涙しそうになっていたのだった。

それから数日後に聞いた「一緒にバンドやろうぜ」の一言は、今でも忘れることはできない。

二人は僕にとって紛れもなく特別な存在で、生きてきた中で初めてできた、心の底から信頼できる友人なのだ。

だからこそ、二人には幸せになって欲しかった。

少なくとも、二人が納得のいく関係にはなって欲しいとは思うのだ。


そんなことを考えているうちに、メロンソーダはコップ一杯に注がれていた。僕はそのコップを持ち、こぼれないよう気をつけながら、部屋へ戻る。胸には、二人の展開を期待している自分がいた。


そっとドアを開けて部屋に入ると、苑子が立ち上がって歌っていた。


マイクを持っていない左手はしきりに動き、時には体を揺らし、目をつぶり、熱唱という表現がぴったり当てはまるような、力強い歌唱を披露していた。

僕は苑子の邪魔をしないよう、そっと席に座る。

入ってすぐの熱唱にやや戸惑ったが、隣に座る貴充の表情が真剣そのものなので、僕も苑子の歌唱をじっくり見守ることにした。


苑子が歌っていたのは、『SとS』という曲だ。僕も知っている曲で、年末に自分でも弾いてみた。

最近苑子が注目しているという若手バンドのデビュー曲らしく、苑子は確か「曲は良いけど歌詞はなよなよしてて嫌い」と言っていたはずだ。


「私はずっと黒いS。君もきっとSで、Nにはなれなくて」


苑子はサビの高音域を張り上げて、そのフレーズを歌い切る。確かに、苑子が好みそうな歌詞ではないな、と思った。どこか表現もきざに思えるし、よく読むと大したことも言っていない。語感も正直悪い。

しかし苑子は、そんな歌詞を全力で歌っている。僕はその意図を考える。

隣に座る貴充は、相変わらず真剣な表情で、歌う苑子を見つめていた。


「私は今日も黒いS。だけどきっとNになりたくはないの」


ラスサビの高音を張り上げ、歌い上げると、苑子は右手のマイクをそっと置いた。力強い歌声だった。

高音域であるのに尖った印象はなく、むしろ甘さの残る、しかし確かな意志が乗った歌声であるように思えた。


彼女の出した声の残響は未だ部屋に漂い、僕は少し鳥肌が立っているのを感じた。お世話抜きに、苑子の歌唱は今まで聴いたどの歌声よりも、魅力的に聴こえたのだ。


「志村、あんたの番でしょ?」

「そうだな、俺の番だな」

苑子にマイクを渡されて、貴充はそれをそっと受け取り、すくっと立ち上がって画面を見つめる。


画面に表示された曲は、いつも貴充が歌っている、彼の十八番で、僕はそれを少しだけ残念に思った。


...



「そんなこともあったね」

講堂内の廊下を歩きながら、苑子は気の抜けた声を出した。4限の憲法の講義を終え、講堂を出る途中、僕が去年の年末から今年の年始にかけての一連の出来事について話した後のことだった。


「てか、山ちゃん話長すぎ。御神籤のくだりとか、敬と山ちゃんのコーラス争いとか、いらないでしょ」

「ごめんね、この時期、僕は結構思い入れがあったから」

「まあ、面白かったから良いけどさ。確かに、1年の頃の1番の思い出って言ったら、あれになるだろうしね」

苑子は言って、まだ先に続く廊下を見据えた。

僕がした去年末と今年の年始の話は苑子にとって恥ずかしい話だと思ったのだが、彼女は案外けろっとしていた。


「あれって、結局なんだったの?」

僕は思い切って聞いてみた。

あの年末年始の一連は今でもなんだったのか、僕は未だによくわからないでいた。あの後大学で会った苑子と貴充は何事もなかったようにしていたし、結局進展に関する話も聞いたことはなかった。


僕の言葉を聞くと、苑子は一瞬困ったように笑って、それから、小さく息を吐いた。

「実際好きだったよ。初詣に着物着てったのも、色目使ったっていうのはあるし」

苑子は案外すんなりとそう言うので、僕はまた意外に思った。


「カラオケではなんかあったの?」

「山ちゃんが出てった後、志村に一応、ちゃんと聴いててね、とは言ってみたけど、逆に言うとそれくらい。その後も志村がなんか言ってくることなかったし、拍子抜けしちゃったっていうのはあるかな」

苑子が淡々と語るのを聞き、またもや意外に思った。予想外のことが多い。僕はてっきり、『SとS』の前に苑子と貴充で何か話したのだと考えていたのだ。


「帰った後はなんか話したの?」

「まあ、ちょっとね」

そこまで話したところで、僕らは講堂を出た。講堂の外は少し冷え込んでいて、どことなく冬の気配が漂っていた。


「貴充とは何を話したの?」

「志村にどうするって聞いてみたら、今の関係のままでいいんじゃないって、そんな感じ。まあ、私もそれで良いと思ってたし。私、志村は好きだけど、あいつといちゃつきたいかっていうと、なんか違ったんだよね」

苑子はそこまで言うと、一旦僕の方を向いた。


「てか、山ちゃん。あの親指立てたの何?」

苑子はそこで、悪戯っぽく笑った。

「いや、あれは特に深い意味はないんだけど、まあ何となくやってみただけだよ」

僕は自分の行動を思い出し、急に恥ずかしくなる。その時は特段思うところはなかったのだが、改めて指摘されると、物凄く恥ずかしく感じられる。


「まあ、山ちゃんに親指立てられた時は告ってやろうと思ったよ。でも、私がわざわざSとS歌ったのに、志村がいつも通りアメフラ歌ってる時に冷静になって、やっぱ違うなって思ったんだよね」

苑子は言って、灰色の空を見上げた。そこには数羽の烏が飛んでいて、カーカーと喧しく鳴いていた。

「私、酒は好きだけど酔っ払いは嫌いだし、タバコも好きじゃないから。まあ、志村とは友達のままで充分楽しかったしね。多分、あれで良かったんだと思う」


大学内を歩く僕らは、やがて正門に着いた。

僕はまだ大学に用があったが、苑子はこれからアルバイトだと言うので、手を振って別れた。

「じゃあ、また」

「また明日」

そう言った苑子の顔は晴れやかで、少し安心した。僕は踵を返し、正門を離れる。苑子の姿が見えなくなり、一人になると急に寂しさが襲ってきたが、僕は堪えて大学構内を歩いた。


多くの葉を落とした銀杏を見上げながら、4人で行った神社での一幕を思い出していた。

貴充と敬が5円玉をめぐるしょうもない問答をした後、苑子がさらりと言い切った一言。その言葉は今でも僕の胸にぼんやりと灯っている。いつか忘れてしまうのかもしれないけれど、少なくとも今は、その言葉の語感が、じんわりと胸に残っていた。


「他力本願じゃきっと、叶わない」


苑子はそう言っていたはずだ。この言葉を聞いたその時は、貴充との関係を念頭に言っているのかもしれないと思いもした。しかし今考えてみると、貴充との関係に限らず、苑子が持っている感覚の単なる言語化なのだろうと思った。

それはここ最近の彼女の行動を見ていても、明白だろう。


僕は曇った空を見つめた。11月も下旬になってくると、空にもほんのり冬の気配が混じってくる。ちょうどあの時も、こんな空だったのかもしれない。

僕はそんなことを思って、一歩足を進めた。


足元でパリパリ、と音がする。見れば茶色い落ち葉が、僕のスニーカーに砕かれて、粉々になっていた。それでも僕は、構わず足を進める。一歩、また一歩と進む。


今を生きよう。僕は心の中で言って、また一歩、足を進めた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 山ちゃん目線のお話、面白かったです! 苑子と志村は分かりやすいですね。敬はめっちゃ鈍い笑 神様が面白かった笑 ちゃんと言い当てましたね。私もその神様の御籤を引きたいな! 山ちゃんは本当に…
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