ー閑話ー山内上杉家憲政
上杉家と長尾家の争いは、表面上、華を上杉が、実を長尾がとる形で終了します。しかし本当に長尾は実を取れたのでしょうか?
上杉憲政、上杉景信、柿崎、北条と不識庵謙信に近い存在が多く三郎景虎派にいました。これは何を意味するのでしょう。
山内上杉家は、代々関東管領職を世襲してきた関東の名家である。だが応仁にあった将軍家の跡継ぎ争いに、畠山の世継ぎ問題に細川と山名の権力争いが起き、世は大きく乱れた。
その影響は直接的には十年ほどで終わるのだが、守護である大名が領地を離れて長く戦っていた為、守護の代わりに現地に置いていた、守護代が権力を持つようになった。
当然のごとく我が上杉家もその争いに巻き込まれ、扇谷家と我が山内家に分かれてしまう。その後は上方から流れてきた、伊勢新九郎というものに堀越公方様の子茶々丸殿は討たれ、その後は、息子で北条を名乗った氏綱、氏康と関東を侵食されていく。
その後も扇谷では家宰の太田家と、我が山内家では家宰であった長尾景春との権力争いで、力が落ちてゆき、わらわが当主に着いたときには無位無官になっておった。
しかし実際のところは、為景を討伐しようとした上杉民部顕定殿の頃から、山内上杉家には朝廷から官位官職は下賜されておらん。同時期に存在していた扇谷上杉には官位官職は与えられておる。この差は山内上杉家の堀越、古河両公方家に対する対応なのじゃ。
顕定様は古川公方家と対立していた為、官位官職が受けられず。その死後は古川公方から養子として入った民部大輔顕実殿が後を継ぐが、同じく養子であった我が父、憲房との間で山内上杉家内の争いが起こり、顕実殿が破れる。これによって、山内上杉家は実子であるわらわに家督と譲るのだが、長期による関東足利家との争いによって、我が一族には、官位官職の上に幕府からの守護の地位も、与えられなくなってしまっておった。残ったのは世襲していた関東管領という名前だけじゃ。
北条の侵食も激しくなって来たゆえ、天文十四年(1546年)長年の扇谷上杉家との遺恨を水に流し手を組んだのじゃ。そして反北条の勢力を集め北条討伐の軍を起こすのじゃが、兵の数では勝っていたが、統制がとれておらなんだ、それゆえ北条氏康の夜襲によって大敗北を期してしもうた。
その後は翌天文十五年(1547年)甲斐の守護である武田大膳にも敗れ、あとはもう坂を転がるようなものじゃった。天文二十一年(1553年)関東最後の砦である平井城が落ち、我が子も北条に亡き者とされてしもうた。
藁をもつかむ思いで越後に落ち延び、対立していた長尾為景の息子、弾正景虎に庇護を求めると、府中(直江津)に屋敷を用意してくれた。あとは北条に一矢報いんと、と思っていると景虎殿が、関東に兵を進めることになったのじゃ。
わらわもこの軍に同道し、北条の本拠地小田原を囲むが落ちる気配もなく、帰国することになった。この時わらわは景虎殿を養子として迎え、偏諱を与える。
永禄四年(1561年)鶴岡八幡宮で関東管領の授与と景虎殿の上杉弾正政虎襲名を行のうた。
その後は政虎改め不識庵謙信殿の下、余生を送っておったのじゃが、天正六年(1578年)謙信殿が亡くなると、越後国内が大荒れとなる。
わらわが見る限り、春日山城での屋敷の位置や景虎の名をついだ、三郎景虎殿が嫡流と思っていたのだが、そうではないようじゃ。だが三郎殿を含め、喜平次景勝殿に敵対する勢力が、わらわの屋敷を中心に集まってしもうた。
これは両者の調停をせねばと、景虎殿の嫡子を連れて…あれどうし…。
天正七年 景虎派との調停に向かう途中、何者かに襲われ命を落とす。
享年57歳。
彼を書く上で私は、彼は「没落し後半生をあきらめた人物」と書くと同時に、御館の乱時の行動は、「まだ自分に出来る」と思っていた時代遅れの人物という風に書いてみました。




