長尾政景その1
上田長尾家もよく解らない部分の多い一族です。ここには大井田家という元々同盟を組んでて、その後に長尾家から婿養子を繰り返しもらい筆頭家老かつ準一門の家格の一族です。元々が新田家の傍流の一族ですが、で新田義貞の死後、越後に土着した一族です。しかしその活躍は、ほとんど歴史の闇に葬られています。なぜでしょう。
俺の名は上田長尾六郎政景。伯父貴は先守護代である弾正為景様だ。つまり俺の親父が為景様の弟で房長っていう。まあ守護代家とは親せきなんだが、うちは祖父の代まで、山内上杉家に仕えていたため、他の越後の下田や飯野の長尾家まで、うちをよく思っていないらしい。国人衆に関しては、まあわかるだろう?
俺の見る限り伯父貴為景様は『上杉が嫌い』なんだと思う。上杉が、俺の爺さんを罠にはめ、仇討ちをしたら、その兄、山内上杉家から攻められた。そりゃ嫌いにもなるってもんだわ。
だから親父を上田長尾家に入れ、上杉と対抗していたんだろう。ただ不思議なのは、いくら弟が後を継いだって言っても他の長尾家に比べて、優遇されてねえか?母上は朝倉、おれには畠山から嫁が来た。
嫁の名前は『ゆき』という、ちょっと世間ずれしてるが、よく笑ういい妻だ。長男が生まれた時に伯父上が「六郎」と名付けてくれた。正直それでいいのかわからん、六郎ってのは、伯父貴の家の代々の嫡子に付ける名前なんだろ?伯父貴の考えがわからねえ。って思ってたら、親父が笑いながら
「万が一の時のことよ」
って言ってた。
天文十四年(1543年)の年末に伯父貴が亡くなった。その前に俺は息子と伯父貴に呼ばれ、会いに行った。最後の別れってやつかと思って、ちょっとしんみりしてたら、六郎の烏帽子親になって元服させてくれた。そんだけでも驚いてんのに、将軍家から偏諱をもらったって言って、六郎に義景の名前をくれた。
俺は自分でいうのもなんだが、頭はいい方じゃないと思ってるが、「義」の字は将軍家でも一族以外に滅多にくれない文字なのは知ってた。伯父貴の底力と人脈に、この時は流石に恐縮しちまった。
伯父貴の葬儀は末弟の平三が還俗して喪主をしたらしい。なんで守護代晴景様や、その他の子供じゃねえんだ?俺も伯父貴から恩義を受けた身なんで、行きたかったんだが、親父に止められた。いくら俺でも、伯父貴の葬儀で喧嘩沙汰なんて起こさねえよ、と思ったが、葬儀の終了後、伯父貴の遺言を聞いて、理由がわかった。
「守護代はそのまま晴景とするが、長尾の宗家を上田にする」
伯父貴も最期にとんでもねえ置き土産を置いていきやがった。今までの伯父貴の恩義はそういう理由かとは解った。でもちょっと無理臭くね?
その後、守護代長尾家の平三は、元服して平三景虎と名乗った。いい名前じゃねえか。俺が欲しいぐれえだ。あいつ俺より4つも年下なんだが、戦に滅茶苦茶強ええ。そのうちに伯父貴の遺言もあるんで、あいつとは戦いたくなかったんだけど、天文十七年(1548年)に景虎と戦うことになっちまった。
俺も負けねえように本気で行ったんだが、あいつ半端ねえわ。もはや人外?猛獣並だ。速攻で負けた後、頭を下げたら許してくれた。あいつ器もでけえな。 あいつはそのまま、守護代である実兄の養子、という形で守護代を継いだ。まあその間に、うちにも次男が生まれた。胸がどきどきするわ、どきどき胸がする。そうだ時宗にしよう。次男の名前が決まった。
よく政景と綾の方が初婚であるように、歴史書に書いてありますが、最近では婚約が1552年くらいと言われ、同時両者とも二十代半ばであり、初婚であるという定説は崩れつつあります。そして一時期長尾家に謎の人物、時宗が現れます。為景は、朝倉氏、能登畠山氏だけでなく、関係細川吉兆家や、尾張畠山家、公家では日野家や徳大寺家とも交流があった人物です。