追記
ひとまず書き終わったあと、様々な資料を見直して不思議に思いましたので、追記させていただきます。
長尾平三景虎 元服後、三条、栃尾城主と言われいますが、栃尾は古志長尾家の本領であり、
三条は守護代長尾家の領地と言われていますが、、同時期に三条城主三条長尾長景、俊景父子がおり、『1545年の黒田秀忠の行動に同調』しています。
俊景は1545年討ち死にが確認され、父長景は没年が不明であるが、同年に亡くなったのだとすれば、1545年に平三景虎の兄でなくなった、景康、景房に置き換えることは可能ではないのでしょうか?ではこの時期長尾平三景虎はどこにいたのでしょう?
下田長尾藤景(15??~1575)は府中長尾高景の子孫(庶流?)高城(三条城付近)を領し、山内上杉憲政の亡命時に同じく亡命した下田長尾興里(?-1568)を自分の姉婿としています。その後、藤景は本庄繁長、興里は本庄実乃に討たれています。守護代長尾家とはどんな一族だったのでしょう。別名『三条府中長尾家』と呼ばれていますが本当にそうだったのでしょうか?
飯野長尾景久(飯野城主の子)(没年不詳)飯野城は村上北部、大浦城は魚沼にあり、飯野長尾景直(?-1581)は飯野長尾景久の子で、下田長尾藤景の養子、越中椎名氏に養子に行き、1581年越中月岡野の戦で討ち死しています。
越後の戦国史を調べて、一つ気になることがあります。それは『長尾景虎は長尾為景の血縁だったのか?』ということです。
何を馬鹿な事をと思われるのが普通ですが、何故景虎が子供を持たなかったのか。なぜか景虎時代の重臣古志長尾家も無子とされています(実際は記述の通り存在していたようです)。長尾一族がことごとく消されて行っているのはなぜか。調べるほどに解らなくなっていきます。やはり謎は深くなっていくようです。
もう、根底が覆されるようで、謎だけが残ってしまいました。
最後に面白い話を一つ、本庄繁長の娘から九人も他家への嫁がいます。また繁長の息子「本庄顕長」は、1597年の秀吉の天下普請の時に不手際により須田 満胤、柿崎 憲家ら都合三人改易に処され、柿崎憲家のみ直江兼続、上杉景勝の死後に帰参がかなっています。
この作品はフィクションです。