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越州動乱記(笑)  作者: 鹿島三塁手
第四章 上杉謙信編 実城様はつらいYO!! たまには気分変えないとね?
30/31

あとがき~私が感じた越後上杉、長尾家の不自然さ~

 実は今回の話の中で書ききれなかった部分があります。「守護代長尾家」は別名「三条府中長尾家」と言われますが、県民である私には春日山城と府中(直江津)は近く、春日山と三条はすごく遠いという事を事知っています。

 そして調べている途中に「飯野長尾家」「下田(三条周辺)長尾家」「三条長尾家」という聞き覚えのない長尾氏がいました。特に三条長尾長景は、1545年黒田秀忠と共に、守護代晴景に反乱を起こしています。三条は守護代家の領地ではなかったのでしょうか?その上その長尾家全てが謙信、景勝の時代に滅亡しています。ここは掘り下げたかったのですが、圧倒的に資料がなくできませんでした。ごめんなさい。

 私が越後上杉、長尾家に興味(きょうみ)を持ったのは、別の作品である『歴史における通説と私見』にて資料を調べている時に、長尾政景の息子で『時宗(ときむね)?』とされた人物の名を知ったことに由来(ゆらい)します。同時に長子(ちょうし)が『義景(よしかげ)』という名なのにも疑問を持ちました。『義』という字の入る名前はその当時、足利宗家(将軍家)に近いものにのみ与えられる、()()()()()だったからです(大金を将軍家に積めば別ですが)。

 その頃は、まだ資料も集まり切らず、私見として書いたのですが、その後も気になって、越後の長尾家、上杉家を調べる途中に、『上条上杉家(かみじょううえすぎけ)』という一族にぶつかりました。丁度それにつて調べられている方がおられたので、記述も拝見し、(大変参考になりました)上杉と長尾の戦いの歴史が、まさに越後の、長尾為景以降(ながおためかげいこう)の歴史に(つう)ずるのを感じました。


 まず調べて分かったことが、生年月日(せいねんがっぴ)の不明な人物が多いことです。これは他国でも良くある事なのですが、上杉家、長尾家家臣団(かしんだん)は、かなり有名な人、例えば直江景綱(なおえかげつな)上杉景信(うえすぎかげのぶ)でさえ、生年(せいねん)が解らず。生没年不詳(せいぼつねんふしょう)なんて人もいます。斎藤下野(さいとうしもつけ)守朝信(かみとものぶ)などであっても、最近になって生年月日が()()()()()きました。

なぜでしょうか?


 また同時に一族には通字(つうじ)、織田なら信、上杉は憲、長尾は『景』と言う字が通字です。同時に嫡流(ちゃくりゅう)にはそれぞれ、織田は三郎、徳川は竹千代(たけちよ)と同様に、長尾家は『六郎(ろくろう)』がそれに相当します。しかし長尾為景以降、不思議な事があります。

 晴景は六郎と同時に「弥六郎(やろくろう)」という通名(つうめい)があり、上田長尾家(うえだながおけ)房長(ふさなが)は「新六(しんろく)」政景は『()()』です。ちなみに上田長尾家の政景の祖父景隆(かげたか)は、景勝と同じ

喜平次(きへいじ)」なのです。通名や「自称(じしょう)の〇〇守」などは、一族が世襲(せしゅう)する場合が多くそれにより『〇〇守家の××』で通じるのです。


 そして上杉謙信の幼名(ようみょう)が「虎千代(とらちよ)」というのが、不自然です。彼は為景の四男とされ、末子(まっし)でした。立派な幼名をもらえる()()()()()()()()です。出家し還俗(げんぞく)した時の名前が「平三景虎(へいぞうかげとら)」です。だとしたら幼名は「平三」でしょう。

 長尾家は『関東八平氏(ばんどうはちへいし)』のひとつ、鎌倉家(かまくらけ)(すえ)(しょう)しています。『平』は平氏(へいし)の平と見て考えると、『三』の意味が不明です。ただ景虎の兄二人が、()()()()()()()()()()同年同月(どうねんどうがつ)同日(どうにち)に、為景によって()()()()()()()、「胎田常陸介(たいだひたちのすけ)」の息子で、黒田家に養子として入った「黒田和泉守(くろだいずみのかみ)秀忠(ひでただ)」によって謀殺(ぼうさつ)されています。

 なぜ為景が雇った家臣が、為景の子を殺害するのでしょう。もし上の三人の兄のうち一人を、為景が()()()()()したなら「三」の意味も()けます。


 事実、徳川三代将軍家光は、親の愛情を感じにくい状況で育ちました。その後は家康の「嫡子は長子とする」という方針で将軍に成れましたが、以下の言葉を

残しています。

二世権現(にせいごんげん)二世将軍(にせいしょうぐん)

 権現とは家康の事で、自分を愛してくれなかった両親はいなかったものとし、自分は家康公の二世であると書いたものです。


 ですから為景が末子に平三と付けた場合、()()()()()()()()()()と考えられ、同時に亡くなった、()()()()()()()とされたと考えられます。もしかすると全くいなかったのかもしれません。「別人を()()()()()()()」で入れたということです。

 そのあたりの真実(しんじつ)は「御館の乱(おたてのらん)」にて灰燼(かいじん)()した気がします。

 ただ、『()()()()()()()()()()()()()』に、明らかに不識庵(ふしきあん)謙信公に近い人物の抹殺(まっさつ)と、証拠の隠滅(しょうこのいんめつ)があったと思われるからです。


 最後にあえて単独の章を設けなかった『()()()()』についてですが、正直、「彼という人物が『()()()()()()()()()』ことと同時に、このまま書くと、父兼豊(かねとよ)と似た人物に書くことになり、違和感(いわかん)があったからです。これは私の力不足です。

 ですから兼続に対する評価は、他者の項目(こうもく)に書いた断片的(だんぺんてき)なものと『景勝の章』の最後の、『()()()()()()()』にとどめました(案外、豊臣家の()()()()に近いのかも知れません)。


 最後になりましたが非才であるわたくしの拙著(せっちょ)を読まれた方に感謝し、このまとめと致します、有難うございました。



 越後、上杉、長尾家は調べれば調べただけ、疑問と謎が増えていきます。私よりもっと詳しく調べ、もっとよく知られているからにとっては、笑い話にすらならないかもしれません。

 ただ私の持論が「歴史は生き残った者によってつくられる」です。

 同じ明智光秀を裏切った、細川家は今でも存続し、その行動を非難されることはほとんどありません。勝つ勢力を人しているのではないかなど言われることもあります。

 逆に江戸時代初期に改易滅亡になった筒井家は、昔から良く書かれていない文書が多いです。わたしは『死人に口なし』というのが歴史の基本だと思っています。

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