あとがき~私が感じた越後上杉、長尾家の不自然さ~
実は今回の話の中で書ききれなかった部分があります。「守護代長尾家」は別名「三条府中長尾家」と言われますが、県民である私には春日山城と府中(直江津)は近く、春日山と三条はすごく遠いという事を事知っています。
そして調べている途中に「飯野長尾家」「下田(三条周辺)長尾家」「三条長尾家」という聞き覚えのない長尾氏がいました。特に三条長尾長景は、1545年黒田秀忠と共に、守護代晴景に反乱を起こしています。三条は守護代家の領地ではなかったのでしょうか?その上その長尾家全てが謙信、景勝の時代に滅亡しています。ここは掘り下げたかったのですが、圧倒的に資料がなくできませんでした。ごめんなさい。
私が越後上杉、長尾家に興味を持ったのは、別の作品である『歴史における通説と私見』にて資料を調べている時に、長尾政景の息子で『時宗?』とされた人物の名を知ったことに由来します。同時に長子が『義景』という名なのにも疑問を持ちました。『義』という字の入る名前はその当時、足利宗家(将軍家)に近いものにのみ与えられる、特殊な文字だったからです(大金を将軍家に積めば別ですが)。
その頃は、まだ資料も集まり切らず、私見として書いたのですが、その後も気になって、越後の長尾家、上杉家を調べる途中に、『上条上杉家』という一族にぶつかりました。丁度それにつて調べられている方がおられたので、記述も拝見し、(大変参考になりました)上杉と長尾の戦いの歴史が、まさに越後の、長尾為景以降の歴史に通ずるのを感じました。
まず調べて分かったことが、生年月日の不明な人物が多いことです。これは他国でも良くある事なのですが、上杉家、長尾家家臣団は、かなり有名な人、例えば直江景綱や上杉景信でさえ、生年が解らず。生没年不詳なんて人もいます。斎藤下野守朝信などであっても、最近になって生年月日が類推されてきました。
なぜでしょうか?
また同時に一族には通字、織田なら信、上杉は憲、長尾は『景』と言う字が通字です。同時に嫡流にはそれぞれ、織田は三郎、徳川は竹千代と同様に、長尾家は『六郎』がそれに相当します。しかし長尾為景以降、不思議な事があります。
晴景は六郎と同時に「弥六郎」という通名があり、上田長尾家の房長は「新六」政景は『六郎』です。ちなみに上田長尾家の政景の祖父景隆は、景勝と同じ
「喜平次」なのです。通名や「自称の〇〇守」などは、一族が世襲する場合が多くそれにより『〇〇守家の××』で通じるのです。
そして上杉謙信の幼名が「虎千代」というのが、不自然です。彼は為景の四男とされ、末子でした。立派な幼名をもらえる立場にはないはずです。出家し還俗した時の名前が「平三景虎」です。だとしたら幼名は「平三」でしょう。
長尾家は『関東八平氏』のひとつ、鎌倉家の末と称しています。『平』は平氏の平と見て考えると、『三』の意味が不明です。ただ景虎の兄二人が、取って付けられた様に同年同月同日に、為景によって引き立てられた、「胎田常陸介」の息子で、黒田家に養子として入った「黒田和泉守秀忠」によって謀殺されています。
なぜ為景が雇った家臣が、為景の子を殺害するのでしょう。もし上の三人の兄のうち一人を、為景があえて無視したなら「三」の意味も解けます。
事実、徳川三代将軍家光は、親の愛情を感じにくい状況で育ちました。その後は家康の「嫡子は長子とする」という方針で将軍に成れましたが、以下の言葉を
残しています。
「二世権現、二世将軍」
権現とは家康の事で、自分を愛してくれなかった両親はいなかったものとし、自分は家康公の二世であると書いたものです。
ですから為景が末子に平三と付けた場合、あえて一人を無視したと考えられ、同時に亡くなった、どちらかが不要とされたと考えられます。もしかすると全くいなかったのかもしれません。「別人をカモフラージュ」で入れたということです。
そのあたりの真実は「御館の乱」にて灰燼に帰した気がします。
ただ、『あの状況あの敵味方の別れ方』に、明らかに不識庵謙信公に近い人物の抹殺と、証拠の隠滅があったと思われるからです。
最後にあえて単独の章を設けなかった『直江兼続』についてですが、正直、「彼という人物が『つかみきれなかった』ことと同時に、このまま書くと、父兼豊と似た人物に書くことになり、違和感があったからです。これは私の力不足です。
ですから兼続に対する評価は、他者の項目に書いた断片的なものと『景勝の章』の最後の、『景勝による評価』にとどめました(案外、豊臣家の石田三成に近いのかも知れません)。
最後になりましたが非才であるわたくしの拙著を読まれた方に感謝し、このまとめと致します、有難うございました。
越後、上杉、長尾家は調べれば調べただけ、疑問と謎が増えていきます。私よりもっと詳しく調べ、もっとよく知られているからにとっては、笑い話にすらならないかもしれません。
ただ私の持論が「歴史は生き残った者によってつくられる」です。
同じ明智光秀を裏切った、細川家は今でも存続し、その行動を非難されることはほとんどありません。勝つ勢力を人しているのではないかなど言われることもあります。
逆に江戸時代初期に改易滅亡になった筒井家は、昔から良く書かれていない文書が多いです。わたしは『死人に口なし』というのが歴史の基本だと思っています。