長男為景その3
為景の一生とは何だったのでしょう。対上杉の争いに巻き込まれ、最後には明らかに思考がおかしくなっています。
この前後に為景は上方から浪々として越後に来た胎田常陸介というものを召し抱える。目的は守護である定実様も監視役で怪しい人物が接触しないかを見張り、定期的に連絡を入れるように命じる。
同年に末子平三が生まれるが、40も半ばを過ぎた自分の子であるという確信がもてない。古志長尾家は上杉家との縁も深い。疑いだしたらきりが無いので考えるのはやめた。この子が当家を継ぐことはないだろう。そう思うことで不安を収めた。
為景が家督を上杉と血縁のない房景に継がせるべきであろうか、と考え始めたころ、上方で大問題が起こる。享禄四年(1531年)細川吉兆家の高国殿が戦にて討ち死にされ、その隙を突き上条上杉家が動き出す。
天文二年(1533年)から足掛け三年もかけて行った戦も、天文五年(1536年)、上条上杉方に属していた柿崎和泉の寝返りによって、我が方の勝ちとなる。しかし双方失ったものは多く、上条側は大将格の上杉憲定を失い、我が方は跡を継がせる予定であった景房を失う。わしにも上条にも、もう戦を続ける意義も気力もなくなった。
そしてわしは、末子平三を恵林寺にあずける。このままでは、わしの死後は上杉が越後を支配することになるのだろう、と思うと無性に腹が立つ。
その為、能登畠山家の修理大夫義総殿の長男義繁殿に、我が子綾を嫁がせ、代わりに上田長尾六郎政景に、能登畠山氏から嫁をもらった。これで最悪の場合でもなんとかなるだろう。
その後は天文九年(1540年)嫡男定景に、足利将軍義晴様から偏諱をいたたき、晴景と名乗らせる。それと上田長尾家の六郎に嫡男ができたので、六郎の名を継がせる。
そして天文十一年(1543年)も半ばを過ぎたころから体が言うことを聞かなくなり始める。思い出してみれば、父の死よりずっと上杉と戦っていた気がする。わしが死んだあと、上杉家に越後ででかい顔をされるのも気に入らないので、遺言でも書いておくか。そうそう胎田常陸とその子にも、わしの死後にして欲しいことを言っておかんとな。驚くじゃろうが、最期の頼みと言えば、否はあるまい。これでよいわ。
一代の英雄、戦国の梟雄と呼ばれた長尾信濃守為景が亡くなったのは、年も押し詰まった天文十一年十二月二十四日(1543年1月29日)享年五十七歳であった。
戦国時代は、好き嫌い以外に外的要因が多く影響しています。その影響をもろに受けた人物だと、私は思います。