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越州動乱記(笑)  作者: 鹿島三塁手
第四章 上杉謙信編 実城様はつらいYO!! たまには気分変えないとね?
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ー閑話ー樋口兼豊

 樋口兼豊、この人物を描くにおいて、不思議に思ったことがありました。子供の幼名です。長男が与六、次男が与七、三男が与八なのです。なぜなのか?那須与一は11男であったから「与一」でした。しかし兼豊兼が「宗右衛門尉」を名乗っており、その父とされる「樋口兼村(かねむら)」という人物もどこを探しても、存在が確認できないのです。

 その時に今回の設定が生まれました。上田長尾家、守護代長尾家によって「一門を失った人物」という設定です。そうすることによって、彼の行動に意味が生まれます。嫡男与六の「与」も生き残ったものという意味で考えました。

 わたくしの名前は樋口(ひぐち)惣右衛門尉(そうえもん)兼豊(かねとよ)。周りはわたくしを『うすら笑いの樋口』や中には『死神(しにがみ)』なんて言う人もいます。何でもわたくしが笑ってると、数日後に亡くなる人が多いんだとか…まあ、当(・)た(・)り(・)な(・)ん(・)で(・)す(・)けどね。


 それはわたくしの仕えた上田長尾家(うえだながおけ)が、山内上杉家(やまうちうえすぎけ)から越後守護代(えちごしゅごだい)長尾家(ながおけ)に寝返(ねがえ)ったことに原因がありました。

 わたくしの幼名(ようみょう)は五郎、五男坊(ごなんぼう)の五郎です。わたくしの一族は、代々(だいだい)山内上杉家に仕え(つかえ)、祖父の頃(ころ)にはそれなりの地位(ちい)に居ました。


 そしてわたくしが仕えた上田長尾家は、山内上杉家から越後上杉、いえ守護代長尾家より養子(ようし)をもらい、乗っ取られる形になってしまいました。


 越後守護代長尾為景(ながおためかげ)が、越後上杉房能(うえすぎふさよし)様を亡き者にし、仇討ち(かたきうち)に来た山内上杉顕定(かねさだ)様も返り討ちにあいました。


 わたくしの一門は惨殺(ざんさつ)されました。山内上杉家の家中(かちゅう)からは、わたくし達が裏切り者(うらぎりもの)に見えたようです。単なる憂さ晴らし(うさばらし)の生贄(いけにえ)だったのかもしれません。

そんなある日、わたくしは山中(さんちゅう)で不思議な男と出会いました。


 その男は大怪我(おおけが)をしていて、何の因果(いんが)か、その男を家に連れて帰り、納屋(なや)にて看病(かんびょう)しました。そしてその男が動けるようになったころ


  「俺様(おれさま)は『加藤』お前には恩(おん)がある、嫌いなものがいたらや(・)っ(・)て(・)やる。」


と言い出しました。冗談(じょうだん)だろうと思い、わたくしの一族を皆殺し(みなごろし)にした、山内上杉家のある人物の名を告げたら、十日ほど後に、わたくしの言った人物が亡くなったと噂(うわさ)を聞きました。少し怖く(こわく)なって納屋を訪れると『加藤』がいました。


   「今後も邪魔(じゃま)なやつがいたら俺様の名を呼べ」


 彼はそう言うと彼は消えていきました。わたくしはこの時、復讐(ふくしゅう)の手段を手に入れたのです。

 あとは邪魔なやつが出来ると『加藤』に、頼み(たのみ)消(・)し(・)て(・)いきました。その内に、わたくしの心は何(・)も(・)感(・)じ(・)な(・)く(・)な(・)り(・)、邪魔者を消す事だけを考えるようになりました。


 上田長尾家でひと段落付く(ひとだんらくつく)と、国主様(こくしゅさま)の姉上が、上田家に嫁(とつ)がれてきました。

その後、喜平次(きへいじ)という子が上田長尾家に生まれると、わたくしは自分の息子(じぶんのむすこ)を彼に付けました。ええ、越後の長尾を殲滅(せんめつ)する為です。その後喜平次様はめでたく、輝虎様(てるとらさま)の御養子(ごようし)になられました。


 ある時『加藤』が帰ってきませんでした。そして加藤によく似た自(・)称(・)『加藤』がやってきて、『吾輩(わがはい)が引き継ぐ(ひきつぐ)と言ってくれました。』わたくしは『加藤二号(かとうにごう)』と心の中で名づけました。


 そうして、邪魔者を消していったのですが『加藤二号』は力業(ちからわざ)が多く、変死(へんし)する人が増えました。それと同時に、わたくしを白眼視(はくがんし)する人が増えていきました。

 不識庵様(ふしきあんさま)ですか?流石(さすが)にあの方は無理です。ですから天正六年(1578年)あの方が亡(・)く(・)な(・)る(・)の(・)を(・)待(・)ち(・)、敵対するもの、与六(よろく)の邪魔になるものを、親子(おやこ)で消していきました。

そうして天正(てんしょう)十八年(1590年)わたくしにとって最後の壁(さいごのかべ)だった大井田(おおいだ)景国(かげくに)を亡き者(なきもの)にした後、『加藤二号』も姿(すがた)を現(あらわ)さなくなりました。技(わざ)に優(すぐ)れた『加藤一号』力(ちから)に優(すぐ)れた『加藤二号』でした。


 その後、関ヶ原の戦いで、上杉家の付いた西軍は負け、上杉(長尾)家は米沢(よねざわ)に減封(げんぷう)になり、徳川幕府の天下になりました。息子も徳川に媚(こび)を売り、上杉の存続(そんぞく)に必死になっています。


 さてわたくしは何をしましょう?『何もすることが無くなってしまいました。』ふと見ると『加藤』に良く似た男(よくにたおとこ)がいました。『加藤三世(かとうさんせい)』とでも言いますか。

そしてわたくしは『加藤』に最期(さいご)の願いを伝えました。


   慶長(けいちょう)七年(1602年) 樋口惣右衛門兼豊 死亡 享年不詳(きょうねんふしょう)

 彼は純粋に『復讐者』としました。この話は最初から異質なのです。ほぼすべてが自分の私見によって書かれています。加藤というのも上杉、武田、両家に仕え、危険人物として殺害された「とび加藤こと加藤段蔵」をイメージしました。それによって、兼豊と、加藤が「上杉(長尾)に復讐をする」という点で結びつきます。そして加藤も人間である限り年を取ります、それを代替わり(子供か親族)という形にしました。

 それと兼豊の口調を一人称にするときに、あるキャラクターが思い浮かびました。「黒いス〇ツを〇た会社〇」です。ですからイメージはあのキャラになります。

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