ー閑話ー樋口兼豊
樋口兼豊、この人物を描くにおいて、不思議に思ったことがありました。子供の幼名です。長男が与六、次男が与七、三男が与八なのです。なぜなのか?那須与一は11男であったから「与一」でした。しかし兼豊兼が「宗右衛門尉」を名乗っており、その父とされる「樋口兼村」という人物もどこを探しても、存在が確認できないのです。
その時に今回の設定が生まれました。上田長尾家、守護代長尾家によって「一門を失った人物」という設定です。そうすることによって、彼の行動に意味が生まれます。嫡男与六の「与」も生き残ったものという意味で考えました。
わたくしの名前は樋口惣右衛門尉兼豊。周りはわたくしを『うすら笑いの樋口』や中には『死神』なんて言う人もいます。何でもわたくしが笑ってると、数日後に亡くなる人が多いんだとか…まあ、当たりなんですけどね。
それはわたくしの仕えた上田長尾家が、山内上杉家から越後守護代長尾家に寝返ったことに原因がありました。
わたくしの幼名は五郎、五男坊の五郎です。わたくしの一族は、代々山内上杉家に仕え、祖父の頃にはそれなりの地位に居ました。
そしてわたくしが仕えた上田長尾家は、山内上杉家から越後上杉、いえ守護代長尾家より養子をもらい、乗っ取られる形になってしまいました。
越後守護代長尾為景が、越後上杉房能様を亡き者にし、仇討ちに来た山内上杉顕定様も返り討ちにあいました。
わたくしの一門は惨殺されました。山内上杉家の家中からは、わたくし達が裏切り者に見えたようです。単なる憂さ晴らしの生贄だったのかもしれません。
そんなある日、わたくしは山中で不思議な男と出会いました。
その男は大怪我をしていて、何の因果か、その男を家に連れて帰り、納屋にて看病しました。そしてその男が動けるようになったころ
「俺様は『加藤』お前には恩がある、嫌いなものがいたらやってやる。」
と言い出しました。冗談だろうと思い、わたくしの一族を皆殺しにした、山内上杉家のある人物の名を告げたら、十日ほど後に、わたくしの言った人物が亡くなったと噂を聞きました。少し怖くなって納屋を訪れると『加藤』がいました。
「今後も邪魔なやつがいたら俺様の名を呼べ」
彼はそう言うと彼は消えていきました。わたくしはこの時、復讐の手段を手に入れたのです。
あとは邪魔なやつが出来ると『加藤』に、頼み消していきました。その内に、わたくしの心は何も感じなくなり、邪魔者を消す事だけを考えるようになりました。
上田長尾家でひと段落付くと、国主様の姉上が、上田家に嫁がれてきました。
その後、喜平次という子が上田長尾家に生まれると、わたくしは自分の息子を彼に付けました。ええ、越後の長尾を殲滅する為です。その後喜平次様はめでたく、輝虎様の御養子になられました。
ある時『加藤』が帰ってきませんでした。そして加藤によく似た自称『加藤』がやってきて、『吾輩が引き継ぐと言ってくれました。』わたくしは『加藤二号』と心の中で名づけました。
そうして、邪魔者を消していったのですが『加藤二号』は力業が多く、変死する人が増えました。それと同時に、わたくしを白眼視する人が増えていきました。
不識庵様ですか?流石にあの方は無理です。ですから天正六年(1578年)あの方が亡くなるのを待ち、敵対するもの、与六の邪魔になるものを、親子で消していきました。
そうして天正十八年(1590年)わたくしにとって最後の壁だった大井田景国を亡き者にした後、『加藤二号』も姿を現さなくなりました。技に優れた『加藤一号』力に優れた『加藤二号』でした。
その後、関ヶ原の戦いで、上杉家の付いた西軍は負け、上杉(長尾)家は米沢に減封になり、徳川幕府の天下になりました。息子も徳川に媚を売り、上杉の存続に必死になっています。
さてわたくしは何をしましょう?『何もすることが無くなってしまいました。』ふと見ると『加藤』に良く似た男がいました。『加藤三世』とでも言いますか。
そしてわたくしは『加藤』に最期の願いを伝えました。
慶長七年(1602年) 樋口惣右衛門兼豊 死亡 享年不詳
彼は純粋に『復讐者』としました。この話は最初から異質なのです。ほぼすべてが自分の私見によって書かれています。加藤というのも上杉、武田、両家に仕え、危険人物として殺害された「とび加藤こと加藤段蔵」をイメージしました。それによって、兼豊と、加藤が「上杉(長尾)に復讐をする」という点で結びつきます。そして加藤も人間である限り年を取ります、それを代替わり(子供か親族)という形にしました。
それと兼豊の口調を一人称にするときに、あるキャラクターが思い浮かびました。「黒いス〇ツを〇た会社〇」です。ですからイメージはあのキャラになります。




