長男為景その2
佐渡金山が上杉家の財源と言われることがありますが、佐渡の金銀山が発見されたのは江戸時代の徳川直轄領になって以降です。
越後では、山内上杉家の威光を笠に着たやり方には、国人衆の反発を招き、身動きが取れなくなっていた。流石にこのやり方には顕定の実家である上条家も反発し、越後の国人すべてが反山内上杉で纏まりつつあった。為景に追い風が吹いている。
そして「長森原の戦」で山内上杉軍を敗走させ、大将の関東管領上杉上野介顕定を討ち取ることに成功する。しかしこの行為が二度目の主殺しとみられる。これは自らが生き残るための行為で、長尾左衛門尉景春殿と一緒にされるのは、はなはだ理不尽なものを感じた。先に攻めておいて負けたら逆臣扱い、理不尽である。
その後は自らが越後守護にたてた定実様が、実家の力を借りて実権を持とうとするのを未然に防ぎ、逆に定実を蟄居の形で押し込めることに成功する。同時に敵対した宇佐美房忠も自害に追い込む。
ここまでやれば、もう上条上杉もあきらめるだろうと、停戦を行い友好の証として、両家の間で嫁のやり取りがされ、上条憲定と為景が双方に妹をやることで、一応義兄弟であり相婿という形で収める。この頃まではまだ自分の中でも妥協点を探っていたのかもしれない。
越後と言えば佐渡金山と言われ、佐渡で金が多量に取れたように思えるが、佐渡金銀山が発見されたのは関が原の後、上杉が米沢に減封になった後に徳川家が発見したものであり、金山による収入は、1568年に岩船にあった本庄氏の岩船金山が直轄になってからである。
何しろ越後は大きな河川の氾濫が多く湖沼の多い、あまり農業に適した土地ではなかった。
その為、青苧による収入は木綿が、一般庶民の主流になる江戸時代初期までは、庶民の使用する繊維として重要なものであった。越後産の青苧を府中(直江津)から上方に出荷する事、これが越後の大きな収入源であり、その航路の途中にある、能登や越前そこから販路を、京、堺に伸ばすことによって、幕府やひいては朝廷とも関係が深くなった。
中でも管領 細川吉兆高国様と、尾張畠山稙長様との交流が為景の越後での権威を高め、守護代ではあるが、国主待遇という、後の越前朝倉家や備前の浦上家と同格の扱いを受けるようになる。
わしにはこの間に次男景康と綾を上条上杉家からの琴と、三男景房を高梨家からの碧ともうけ、末子平三を古志家からの里との間にもうけた。四男なのに平三というのは、上条上杉から来た妻の子を数から外して数えたもので、無意識のうちに上条上杉との対立の予兆を感じていたのかもしれない。同時期の大永六年、弟の上田長尾房長に長男ができる。その子には守護代長尾家の嫡子の幼名である『六郎』を授けた。わが越後長尾宗家に何かがあれば、上田に継がせる道も作っておく。やはり上杉は信用ならない、わしの中で上杉一族は、不倶戴天の敵となってしまっていた。
享禄三年(1530年)上条上杉家との仲がこじれ敵対関係になる。原因は大永八年(1527年)に嫡子道一丸改め、弥六郎定景の元服と同時に、守護定実様の娘を嫁にもらったことにある。上条上杉家にとっては、自らを無視しているように感じたのだろう。
そして享禄三年両者の関係は爆発する。上杉側から嫡男弥六郎を定実様の猶子にという話が持ち上がり、為景は長男定景が上杉派に取り込まれたのを理解する。
しかしこの時は、細川吉兆高国様から幕府を通じての仲裁を得たことにより事なきを得る。
だんだんと為景の思考がおかしくなってきています。彼を見ていると、悲劇しか思い浮かばなくなってきます。また為景の妻の名など、実名の残っていな人物には筆者が勝手に命名しました。ご了承ください。