上杉景勝その2
遺言とはどこまでが有効なのでしょう。秦の始皇帝が崩御した時に、宦官であった趙高が遺言を無視し、別の遺言を作成したため国が滅んだという例もあります。私なりには謙信公は上杉三郎景虎が後継者だった気がします。景虎派に謙信公に近い人物、古志一門や柿崎、北条などの賛同者がいる事、春日山城での屋敷の配置などの状況証拠はそろっています。景勝どのに謙信公の死後直ぐ、に春日山の御金蔵を抑えるなんて、頭の切り替えは無理です。かれは真に上杉たらんとし、一生をかけた人物にみえるので。
すると玄関口から大きな音がし、樋口親子が例の顔をしてやってくる。
「不識庵様の御遺言にて、後継ぎは喜平次様となられました。」
与六兼続が言い。その後父の宗惣右衛門兼豊が
「春日山城の御金蔵を押さえました。」
と言ってくる。おいおい最初のやつはまだいいが、二つ目のやつはまずいんじゃないかと思い、まさかと思いつつ
「お前たちが(不識庵様を)殺ったのか?」
と恐る恐る尋ねてみると、
「『今回は』違います。」
と言われた。ほっとしたと同時に、そこは完全否定して欲しかった『今回は』って事はと考えると、頭が痛い。
その後三郎殿は府中(直江津)に在る御館様屋敷に集結し、我が方は春日山に集まる。そして一年ほど、にらみ合いと小競り合いを続けていたら、三郎殿と共に御館に籠っていた、母上と、三郎殿の妻である姉が、降伏の使者としてやってきたこういう時は男の重臣の柿崎とか御舘様とかじゃないの?と思っていたら、使者に出たっきり帰っていないそうだ。やりやがったと思って樋口親子を見る。例の顔をしている。もうやだ。
三郎に個人的に恨みはないので降伏を許し、何かあるといけないので十分な兵をつけ(ある親子の顔が浮かんだのは気のせいだ)、我の妹である妻と共に北条家に送り届けた。
その後、御館に戻ってみると、盛大に燃えていた。あそこには上杉家の重要書類があったんだけどなあ、と思いつつ降伏した国人衆を見ると、明らかに人数が足りない。古志の景信様の一門や北条家、あと数家の当主の顔が見えない。
ここまで盛大にやっちゃったのかと思うと正直心が重い。義父不識庵様じゃないけど毘沙門堂に籠って出て来たくなくなる。
そして戦後の天正九年(1581年)何か別室が騒がしい。嫌な予感がするのを抑えて行ってみると、先年に亡くなられた、直江与兵衛尉殿の婿養子の信綱殿と、政治顧問の山崎殿、それと御館の合戦中にこちら側に着いた北条家の庶流の、毛利殿の三人が倒れている。
理由を尋ねると、御館の後に河田豊前が引き継いだ、古志長尾家の、領地と軍団の再編成を河田が病死したので、どうするか話をしていたらしい。最初は直江と山崎が話していたところに、毛利が加わり、どうやら御館での恩賞が、上田長尾家に近いもの多く、そうでないものには少ないのではという話になって、毛利が直江と山崎を斬ったらしい。
それならば毛利は生きているはずなのだが、なぜか毛利も斬られている。ものすごく嫌な予感がしたので、樋口与六の方をそーっつと見てみると、親子だね、おんなじ顔して笑ってた。そして山崎の後任に狩野秀治にしたんだけど、なぜか三年後に病死した。あえてこの問題には触れない方が良い気がする。
同九年、義父不識庵様の頃に阿賀北をまとめていた新発田長敦殿の跡を継いだ、弟の新発田重家殿が反乱を起こす。兼続を新発田の討伐の大将にすえたら、いつもと違って、すごく悲しそうな目で見てる。なぜだろうと思って、後で稽古をつけてやったらわかった。兼続ってすごくどんくさい。刀の構え方とか理屈ではわかってはいるけど実践に応用できない奴だった。
そう考えて昔を振り返ると、小姓の頃から武術は苦手で、その分学問を真面目に取り組んでいたのを思い出す。内政と外交そして親父とそっくりになった理由がわかった。
武芸が苦手な分を取り返す、兼続なりの働きなんだと思うと、少し不憫な気もしてきたが、これも経験だということを言い聞かせて、新発田への対応を任せてみた。
景勝公が姉婿であった、上杉景虎殿を討ち取る気はなかったように思えます。それを行えば北条との関係修復は不可能でしょう。また景勝公は謙信公に信仰に近いものを持っていたと考えられます。非情になり切れないがゆえに眉間のしわが消えなかった。彼も謙信公同様に、心にため込む人間であったと思われます。