上杉景勝その1
話は不識庵謙信公が倒れ、死の床に就いた状況での、景勝の回想から始まります。この辺りから登場人物の性格が、筆者のせいで崩れてきます。笑って読まれていただけたら幸いです。こんなの違うと思われたら、今章以降はお勧めしません。
ふう今、我は自宅にて待機の状態である。名は上杉喜平次景勝と申す。何を待っているのかと言えば、我の義父である不識庵謙信公が、天正六年三月に入ってお倒れになられたので、今は義父の姉であり我が母の仙桃院と、古志長尾家より右京亮景信殿と、医師のものが付き添い、次の間では我々養子の代理として家臣が、一人づつ控えて居る。危ない状況らしい。
落ち着くために過去を振り返ってみる。我は弘治元年に上田長尾家の当主政景と、母である不識庵様の姉の綾の方の子として生まれた。その直後から、上田長尾家の重臣の大井田景能殿が守役となり、日長一日どころか数年も離れず仕えてくれたらしい。何か過保護なような気がして、年の離れた異母兄である時宗兄者に聞いたのだが
「世の中知らなくていいことがあるんだよ」
と悲しい目で言われた。ちなみに母に聞いたら
「そんなこと気にしなくていーんだよ。」
と笑いながらバシバシ叩かれた。
そして五歳頃だったから、永禄三年頃に、今の義父不識庵様に引き取られる。人質ってやつかと思ったが、どうも違ったらしく、上田長尾家から主力と言ってもよい兵が五十騎ほど配下に付けられた。そして永禄七年(1564年)、父である長尾政景が急死する。我も近くに居た訳で無かったので、状況は良くは解らなかったのだが、その直後、宇佐美家が追放されていることや、その他の証言から宇佐美家の当主駿河守殿と舟遊び中の転覆事故だったと言われた。
そうして気づいたら異母兄である時宗兄者は、父の弟の景国殿が大井田家に、婿養子に入られていた。名は大井田喜七郎基政と変えていた。そーっと樋口父の方を見ると、またあの不自然な顔で笑っている。流石に今回は我でも怖くて聞けん。聞いたら明日が来るかも不安になりそうだ。
そう言えば、最近守役の大井田景能を見ていない。母上の所に行ったら、ものすごく怖い目で睨まれたので逃げた。仕方がないので小姓である樋口与六の父、惣右衛門兼豊に聞いたらすごく良い笑顔でこちらを見られて我にうなずかれた。数日後、大井田景能が病死したことを知り少しぞっとした。与六はニコニコ笑っているし、樋口は不自然に笑ってるし、母上は怖い。この話を掘り下げるのはよそうと心に決める。
我は天正三年(1575年)、名を改め上杉喜平次景勝とする。ちなみに他に不識庵様には、他に三人の養子の方がおられる。一人は元信濃守護の村上義清殿の御子息である山浦国清殿、 年は一回りほど上で豪快な方である。二人目は不識庵様の能登攻めの後に能登家臣団から解放され、畠山家から上条上杉政繁殿の御養子となられた義春殿、そうしてもう一人は、我と年も近く北条家から人質として来られた後に養子となった三郎景虎殿である。
今回の不識庵様の次の間には、我々四人がいた方が何もなく過ごせたと思うほど、仲が悪い人間はいない。ただ家臣の方が派閥争いの様になっているので仲は悪い。
正直、不識庵様が亡くなられた場合、次期当主は三郎が似合っているだろうなと思う。妹の婿であるし我とは違い、元気で話も上手い。屋敷も我が家は春日山の搦め手、柿崎家の上の段にあり、搦め手の要の位置にある。逆に三郎は、不識庵様の屋敷の近くに屋敷をもらい暮らしている。
三郎が当主になれば、今は亡き武田大膳殿の弟君の、典厩信繁殿の様に副将として仕えるのも良いかもと思っていた。
ここで書かれている「我」は「われ↓」であって、関西弁の「われ↑」ではありません。あと謙信の養子四人は当人たちは仲が悪くない設定になっています。ただ家臣の派閥争いは問題です。景勝は景虎を当主にし、自分は副将で良いと思っている人物です。




