(短編)オゾロと春
ミャーク島の春である。
かのオヤケアカハチの乱における功績を認められたオゾロは、生まれ故郷タラマ島の頭として「土原豊見親」の称号を与えられた。
しかし、オゾロはまだ若い。島を治めるためには、学ぶことが山積みであった。
「若いうちに、広い世界を見ておくと良いだろう」──そう言ったのはミャーク諸島を束ねる長、仲宗根豊見親玄雅であった。
豊見親自身も若い頃にシュリの都で学んでいたことがある。その言葉に感化されて、オゾロは留学を決意した。ただし、選んだ先はシュリではなく豊見親自身が治めるミャーク島である。ミャークには優れた土木や治水の技術がある。それに何より、オゾロは豊見親に心酔していた。
──豊見親様の素晴らしい手腕を、この目でもっと見たいんです! とは本人の弁である。
そんなわけで、イリオモテとミャークを結ぶ材木交易の運搬船に乗って、オゾロはミャークにやって来たのであった。
どこへ行ってもかわいがられる、と言うのがオゾロの一種の才能であった。豊見親の屋敷に居候しているものの、オゾロはヒララの都のほぼ全てのおばあの家に出入りするようになっていた。
今日も薬草の茶と素朴な菓子を馳走になりながら、オゾロはおばあと喋り続けている。
「──それでね、おばあ! あの時の豊見親様は本当にかっこよかった!
“流された血に恥じることのない、太平の世を共に創ろうぞ”──って! そしたら、動揺してた兵士がみんなしーんとして!」
そうねー、オゾロー、とおばあが相槌を打つ。
「それから “豊見親”の大合唱が起きたんだ! あの時の大里の顔、おばあにも見せてやりたかったなあ!」
そうねー、オゾロー。さー、お菓子たべなさいー、とおばあがオゾロの掌に菓子を載せてくれる。
「そういえば、そろそろイリオモテのニーニーが帰る頃ねー? あんた、見送りに行くって言ってなかったねー?」
さ、とオゾロの顔色が変わる。
「……忘れてた! まずい、用緒さんに殺される!」
あのニーニーにも食べてもらえばいいさあ、とおばあはゆっくりと菓子を包んでくれる。焦ってぴょんぴょんと飛び上がるオゾロの傍らで一緒に跳ねているのは──白い山羊。
「ピン太、急ごう! 用緒さんはせっかちだから!」
菓子包みを抱えたオゾロが息せき切って駆け、飛ぶように並んで駆ける山羊もめーえ、答える。
「お前の名付け親だものね、ちゃんと挨拶しておかないと……」
山羊……ピン太も神妙な顔で視線を返す。
もともと、山羊のピン太はオゾロが大枚をはたいて大陸から買い入れた食用の山羊である。
しかし、どんどん増やすぞ、と意気込んでいたオゾロの期待をよそに、ピン太はつがいの相手と全く上手くいかなかった。
めえええう、と情けなく鳴き、雌山羊に足蹴にされる雄山羊を見て笑い転げる姿をオゾロは思いだす。ミャークへの商用の途中にタラマ島に寄港したイリオモテの頭目・慶来慶田城用緒であった。
「タラマは何にもない所だと思ってたけど、おっかしいなあ!」
何がそんなに可笑しいのか、用緒は涙を流して大笑いした。
「そこまで笑わなくてもいいじゃないですかっ。私の山羊がかわいそうじゃないですかっ」
ぷ、と頬を膨らませたオゾロの背中をばんばん、と叩くと用緒は笑い続ける。
「だってさあ! こいつ可笑しいんだもん。なんていうか……」
そこで用緒は大きな瞳で山羊を見つめ、しばしの沈黙の後に言った。
「ピン太、って感じの顔してるもんな!」
「えっ、なんですかピンタって? 山羊じゃなくて?」
あーやだやだ、無学は嫌だねー、と言いながらオゾロの髪をわしわしとかき混ぜ、用緒は得意満面で言う。
「ヤマト風の名づけってやつだな。うん、その山羊の名前はピン太。僕が名前を付けたんだからな。食うなよ」
「ええっ! だってこの山羊は食用……」
うるさい黙れ、とぴしゃりと言い返すと用緒は言い切った。
「ピン太はお前が飼う。気が向いた時、僕がそいつで遊ぶ。いいな!」
さらに反論しようとしたオゾロは「文句を言うのはこの口か⁉」と頬を両手で横に引っ張られ、涙目で頷くしかなかった。
──まあ、なんだかんだ言ってもピン太の命の恩人だものね、それにしても用緒さんは不思議な人だ──そんな事を思いながら走るオゾロにピン太が鳴き掛ける。
「めえええーい」
「えっ、何なに?」
「めーーえ」
「本当⁉」
ピン太の言葉にオゾロは顔を輝かせてそちらを向いた。
港まであと少しのところ、灌木の茂みの向こうに覗く自然のままの浜──そこに、オゾロはよく知った姿を見つけていた。
──豊見親様! 憧れの仲宗根豊見親に弾んだ声を投げようとしたオゾロはしかし、本能的な何かに押しとどめられた。
豊見親の傍らには、もう一つの見慣れた姿──用緒であった。
二人は白い砂の波打ち際を連れ立って歩いていた。
オゾロと豊見親、それに用緒は先の乱を共に戦った仲である。無論オゾロは豊見親の部下であったから、戦友、などとは言えないが、それでも二人のことはよく知っているつもりであった。
だが──奇妙なことに、灌木の陰から覗き込む先の二人は、まるで知らない誰かのようなのである。首をかしげるオゾロに、気遣わし気なピン太が鼻を押し付ける。
はたして、茂みに身を潜ませたオゾロの人間離れした聴覚は、二人の会話を盗み聞きすることになった。
「──今回も、随分まけてもらったな。感謝する」
「貸しにしておくよ。まあ、お得意さんだしね」
──今回の木材の商談のことだな、とオゾロは頷く。
「でさ、そのことなんだけど」
「何だ?」
「その貸し、今返して欲しいんだ」
──何のことだろう、とオゾロは首をかしげる。
「このあいだ教えただろ? 西の国の別れの挨拶をしてくれよ」
視線の先で、その言葉に豊見親がなにやらもじもじしているのが伝わってきた。
──そうかあ、さすがは博識な用緒さんだなあ。前に言っていた、「いんたーなしょなる」な挨拶のことだな、とオゾロは思う。
だが──直後にオゾロは腰を抜かすことになる。
豊見親が顔を用緒に近づけた。
──あれ?
そのまま、二人の姿が重なる。
──あれあれ?
オゾロが滝のように汗をかく前で、二人は体を何度かずらしながらしばらくそうしたままであった。
すとん、とオゾロは背の低い茂みの上に尻もちをつく。ピン太が驚いて飛び上がり、乾いた枝ががさがさと音を立てた。
「……誰か、いるのか……?」
水の中から出たときのように息を吐き、豊見親が呟いた。
「──鳥か、なんかじゃないか? まあいいさ、見せつけてやろうよ」
掠れた用緒の声もする。
ぺたん、と座り込むオゾロをよそに、二人は何事か囁き交わしながら行ってしまった。
「……めええーーい?」
傍らのピン太が見つめる中、後には菓子の包みを抱えたオゾロがぽかん、とした顔で残されているばかりであった。
その後しばらく放心し、我にかえったオゾロは大急ぎで港に駆けつけた。船は丁度港を離れるところで、甲板から用緒が豊見親に朗らかに手を振っていた。豊見親も相変わらずの無表情ではあったが、片手を挙げてみせていた。
そんな何ということのない二人を傍らで見ながら、オゾロの混乱は続いていた。
──どういう、ことなんだろう!
オゾロの頭の中を、ぐるぐると同じ問いが回り続ける。
用緒さんは確かに、西の国の挨拶、って言っていた。言っていたとも──とは思うのであるが、オゾロが知る限りあれは、……と考えたところでオゾロの思考は停止する。
いやいや、あれは男女がよくやっているあれじゃないか、なんだ珍しくもない……ない……のか? という所でやはりオゾロの頭に紗幕が下りる。
宙を見つめたまま菓子を食べ続けるオゾロに、周りの男たちが奇異な目を注いでいた。
「オゾロ……夕飯の前に菓子を食べ過ぎるといかんぞ?」
傍らの豊見親の部下が気遣わし気に声を掛けてくれる。
今日は夕方から豊見親の屋敷で寄り合いがあり、彼らはそのまま屋敷で夕飯を馳走になろうとしていたのだった。
「はい……。でも私、なんか食べずにはいられなくて……」
もぐもぐ、と味のしない菓子を際限なく噛み、ようやく飲み込むと、オゾロは意を決した。
「あっ……あの、私はタラマの田舎者ですから、知らないだけなんだと思うんですが」
脳裏に浮かんだ記憶に、オゾロの頬が紅潮する。
「ミャークでは……そのっ……男同士でも……結構、親しくしたりするんですか……?」
そんな最大限の湾曲表現に、男たちは顔を見合わせた。
その目が、一様に気まずそうな光を宿している。
「あー、……つまりその、オゾロ、もしかして、」
ようやく一人がおずおずと言いかけたとき、入って来たものがあった。仲宗根豊見親その人であった。
「どうした? そんなに待たせてしまったか?」
動揺する一同を怪訝そうに見渡しながら、豊見親は胡坐をかく。
「何だオゾロ、夕飯の前に菓子など食べて。飯が入らなくなるぞ」
もうほとんど中身が残っていない菓子の包みを覗き込むと、豊見親は呆れたように言った。
「あっあの、あのそうですすすすよね」
「オゾロ、言葉がおかしいぞ?」
「ふぁ、ふぁいい!」
首を傾げた豊見親は気を取り直したように杯を上げると、一同に食事の開始を告げた。
膳の上から豊見親が椀を取り上げるのを、オゾロは煮えたような頭で見守った。定まらない視線のまま自分も箸を取り上げてみたものの、かしゃん、と落としてしまう。
「どうしたオゾロ? 今日は変だな?」
立ち上がった豊見親が傍らにしゃがみ込む。大きな手が額を包む感触に、オゾロはまた、ひゃああ、などと言いそうになる。
「ふむ、熱があるらしい」
じいや、じいや、と呼ぶ豊見親の手がオゾロの腰を抱いた。
「ほら立て。今夜はもう寝なさい。悪い風邪が流行っているらしいからな」
じいや、布団を敷いてやってくれ──そう呼びかける声が、まるで純度の高い酒のようにオゾロの頭を浸していった。
気がつくと、布団に寝かされていた。
見上げる先には人の良さそうな老人がにこにこと笑っている。
「気分はいかがですかな? 薬湯を差し上げましょうな」
促されるままに起き上がり、口に当てられた茶碗を一口含む。
「……にっがい!」
ほっほっ、と老人は笑った。
「良い気付けになりましたでしょうが。心ここにあらずでしたが、魂でも落とされましたかな?」
ふるふる、と首を振るオゾロに、老人は楽しそうに続ける。
「それとも恋の病ですかな? いやあ、いいですなあ、若い御方は」
朗らかに笑う老人をじっ、と見つめたオゾロはしばらく眉を寄せ、そして呟いた。
「あの……じいやさん、」
何ですかな、と老人が首をかしげる。
「じいやさんは、豊見親様を小さな時からお世話されてるんですよね……?」
老人は目を細めて懐かしそうに笑う。
「そうですとも。玄雅様はお小さい頃から勇敢で聡明で、このじいやの誇りでありましたよ」
「そう! 豊見親様は本当にかっこよくて! 私も、勇敢で聡明な豊見親様が大好きなんです!」
「おお、そうですか! このじいやもですよ!」
老人と若者は顔を輝かせて手を取り合う──が、やがてオゾロの瞳に真剣な光が戻る。
「あの……、やっぱり豊見親様は……もてました?」
ほっほっ、と老人は破顔する。
「そりゃあもう。顔の傷など問題ないくらいの美丈夫ですからな。そりゃあモテモテでしたとも。ご結婚がお早かったですからね、その後も色々な娘に惚れられて、話をつけるのにじいやが大層難儀しましたよ」
──ああ、思い出しますなあ、紅顔の美少年の玄雅様……。頬に手を当てて夢見るように呟く老人に、オゾロはついに切り出した。
「あの……、豊見親様は……男の人にも……モテモテだったりしたんですか……?」
ぽか、とオゾロを見つめた老人はやがて、あ~……、と言い、何かを察したらしかった。
そうですなあ……と遠い目をしてから、老人は柔らかい声で言う。
「玄雅様は、常人では耐えられないほど、お辛い思いもなさってこられましたから。
ですから……男とか、女とか細かいことではなく、本質で相手を見定められておられるのですよ。
むしろその器の大きさこそが、玄雅様をミャークの英雄たらしめているのですよ」
ふわ、と笑う老人の言葉に、オゾロは雷に討たれたように布団から立ち上がった。
「本質で、相手を──」
ぶるぶる、と握りしめた拳が震える。
「それこそが、英雄の器!」
叫ぶオゾロを、老人がぽかん、と見つめている。
「そうだ、私は何を動揺していたんだろう……」
芝居がかった動作であたりを見回すと、オゾロは震える声で叫んだ。
「こんなことじゃ、私は立派な土原豊見親になれない!」
オゾロは夜闇の中に走り出る。
ミャークの春の夜は、長い。
「どうだじいや、オゾロは元気になったか?」
ミャーク島のあちこちで行われる土木工事の監督に忙しく、しばらくぶりに屋敷に戻った豊見親は尋ねた。
「はあ、それが、その……」
もごもご、と口ごもる老人に、豊見親の瞳が険しくなる。
「何があった⁉ 話せ、じいや」
「いやっ! じいやは知りませんよ! じいやのせいじゃないですよっ!」
「ええい往生際の悪い! さっさと言わんかっ」
「空広坊ちゃま! 癇癪はなりませんぞっ」
「坊ちゃまはやめろと言っただろう‼」
ぎゅうぎゅうと絞め上げられ、じいやはついに白状することになる。
「──まさか、あのオゾロが──……? その話、確かか?」
「じいやは嘘つきませんよ! 夜な夜な、その……あの……」
茫然とした豊見親は首を振り、よろよろと背を向けた。
「頭が痛い……。今夜はもう、休む」
そうなさいませ、とほっとしたような声を聞きながら、豊見親は朦朧とした頭で寝所に引きこもった。
──信じられぬ。
暗闇を見つめる豊見親は同じ問いを反芻する。
──オゾロ。確かに少し幼いところはあった。だが、そこまで分別が無いとは思わぬ。
ごろり、と豊見親は寝返りを打つ。薄い寝間着がこすれる音が闇に響く。
──なるほど、あれは若い。若気の至りということもあるのかもしれぬ。だが、あの子供のようなオゾロに限って──。
悶々とした思いでため息を一つつく。
明日、本人に聞けばよいことだ──そう言い聞かせ、瞼を閉じた豊見親の目が、見開かれた。
──殺気。
暗闇に息をひそめ、首筋を狙う視線。
一人ではない。獣のような、本能に突き動かされた気配が、二つ。
──刺客か。
豊見親の唇の端が上がった。
寝返りを打つふりをして、枕の下に手を差し入れる。手に吸い付いた懐かしい感覚に、豊見親の心は疼いた。
しばらく血を見ていない──そんな思いに反応するように、手の中の釵が震えたような気がした。
血を血で洗う争いを生き抜いて来た仲宗根豊見親である。その自分に挑んで来る者がいようとは──唇の笑みが広がる。
闇の中の息遣いが浅くなる。襲い掛かる前の、獣の息。その息の根を止める──太平の世には贅沢になった血の愉しみに、豊見親は暗い昂ぶりを覚えていた。
来い、と思う豊見親に呼応したように、二つの影が動いた。
そのまま一気に間合いを詰める。
弾かれたように布団をはねのけ、豊見親も刺客を迎え撃つ。
だが──逆手に持った釵が、止まった。
「──お前は!」
その姿はぎゅうう、と豊見親の胴に組み付いた。
「豊見親様!」
そのまま豊見親を布団の上に押し倒したオゾロは、叫んだ。
「私に抱かれてください!」
「何っ⁉」
衝撃を受け、身をもぎ離そうとする豊見親にオゾロは必死にしがみつく。
「抱いてくださるのでもいいです! 他の男ではだめでしたがっ……きっと豊見親様なら大丈夫なはずなんです!」
「オゾロっ……! お前は混乱している!」
いいえ、そんなことありません! と叫ぶオゾロがさらに強く抱き付く。
「離せっ 離さんかっ……‼」
ぎゅうう、と力を込めるオゾロに本能的な危機感を感じ、豊見親は思わず釵を閃かせた。
しかし──
「めええええーー‼」
眼前に、白い山羊が突き出されていた。釵が止まる。
「オゾロっ! 山羊を盾にするとは卑怯だぞ!」
「卑怯も何もないです! 勝つためには手段を選ぶなって言ったのは豊見親様です! 私は知ってる! 豊見親様は子供と動物には手が出せない!」
「……くっ」
「やれ、ピン太!」
めええ! と叫ぶ山羊の蹄が豊見親を布団に押さえつけた。
「さあ、覚悟してください! 私も覚悟しましたから! これを乗り越えないと、私は立派な土原豊見親になれません!」
山羊を押しのけて豊見親にのしかかると、オゾロはばっ、と豊見親の寝巻の胸元を広げた。
「これも民の幸せのためなんです! 私も男女の違いなんて気にしない、豊見親の名前に恥じない、器の大きい男にならなきゃいけないんです!」
唖然とした豊見親が見上げる先で、オゾロは月明りの下でも分かるくらい真っ赤になっていた。体全体ががたがたと震えている。
しばらく黙って見つめていた豊見親は、やがて長い溜息をついた。
「──私と用緒を見ていたな?」
真っ赤に上気した顔で、オゾロが唇を噛む。
震え続けるオゾロを、豊見親はゆっくりと押しのけた。
「感心せんな。覗き見か?」
「ちっ……違います! あんなところであんなことしてる豊見親様が悪いんです!」
「まあ……そうだな」
もう一つため息をついた豊見親は着物を整える。
「いいか、オゾロ」
オゾロの肩に両手を置くと、豊見親は噛んで含めるように言い聞かせた。
「お前はまだ若い。 “豊見親”の名を得たからと言って、すぐに立派な治世者になれるわけではない。私も若い時はひどいものだった」
そうなんですか……? と真っ赤な目をしたオゾロは涙声で言う。
「もちろんだ。だから、お前が手本を求める気持ちも分からんではない。
だが、誰かそのものになる必要はない。お前はお前のやり方で民を幸せにすれば良い。お前は、お前で良いのだ」
うう……と濁った声を漏らすオゾロの背中を豊見親はさする。
「──男とか女とか、そんなことを気にしているようだが、要は、お前にとって大切なものを大切にできればそれで良いのだ。
私が、お前を大切に思っているようにな」
豊見親様……、と呟くオゾロは俯いてぼろぼろと泣いている。傍らのピン太もめえぇ、と泣くような声を出した。
やがて、泣きはらした顔のオゾロは ぱっ、と顔を上げた。
「──豊見親様! 私、やっぱり豊見親様が大好きですっ!」
「首に抱きつくなっ 離せ苦しいっ……!」
ぎゅうう、と豊見親にしがみついたオゾロの脇で、ピン太がめええー、と鳴く。
そしてその声に合わせるように──襖が開いた。
「あなた……何してるの?」
「う、宇津免嘉⁉ ち、違う、これは誤解だっ」
美しい妻の後ろから、片手を口に当てたじいやもひょこ、と顔を出す。
「ああ玄雅様! またそんな若い子と……!」
「違うじいや‼ 誤解だっ‼」
「やっとイリオモテの虫がいなくなったと思ったら……。あなた、覚悟はよろしくて?」
「やっ、やめろっ なんだその凶器は! やめ、」
闇に響くのは、哀れな豊見親の悲鳴と、
── めええええーーーーい ──
のどかな山羊の声。
ミャークの春の夜は、長い。
「おやおや玄雅様、寝不足ですかな?」
ほっほっ、と笑うじいやの傍らで、目を腫らした──ついでに頬も派手に──豊見親が苦虫を噛み潰したような顔でため息をつく。
「……長く生きていると、色々な事があるものだな」
じいやはまたほっほっ、と笑い、楽しそうに言う。
「それはもちろん。可笑しなことが沢山ですじゃ。だから人生は楽しいのです。じいやもまだまだ長生きしますぞ」
二人が視線を投げた先には、タラマに帰る船の姿。
「豊見親様ーー!」
随分小さくなった船の姿から、オゾロの声が聞こえてくる。
「私、頑張りますからーー! 強くてかっこいい土原豊見親に私もなりますからーー!」
オゾロの声にかぶせるように、山羊の声も風に乗って流れてくる。
めええ、めええーー。
ミャークの島の、平和なひと時。
二人の豊見親の最後の遠征まで、あと何年。
(おしまい)