魂蟲
ひらひらと蝶が飛んでいた。今は真冬なのに。
積もった雪の白に映える紅い翅は、ゆらゆら、ひらひら、薄曇りの空を漂う。
湖に浮かぶ、紅い花びらのよう。似合わない言葉が僕の脳裏をよぎって思わず苦笑した。
ここら辺は蝶が通学路に出てくる程は田舎じゃない。物珍しさに、紅を追い掛ける。
どれくらい追い掛けただろう。実際には大した距離じゃないだろうに。
とにかく僕は、広い雪原にいた。
この街で生まれて、こんな場所初めて見た。見渡しても見渡しても白。
「こんな場所、普通速攻でマンションが建つよな」
蝶は相も変わらず、ひらひら、ゆらゆら。
僕は蝶を追いかけるのを止めた。この雪原が不思議だったのも一つの原因だけれど。
一番の理由は、どれが僕の追いかけていた蝶だか分からなくなったからだ。それくらいたくさんの蝶が、この雪原には飛んでいた。
僕の周りを蝶が飛ぶ。蝶の翅は紅と蒼の二種類があった。
「……帰ろ」
左の頬が寒風に痛んだ。僕はさくさくの雪を踏み、元来た道を戻る。
その時だ、彼と出会ったのは。
「蒼い蝶々は天国へ。紅い蝶々は監獄へ」
そのおじいさんは歌いながら雪原の中を走り回っていた。ぱたぱたと虫取り網を動かし、蝶を捕まえる。
蒼い蝶は右の虫籠。紅い蝶は左の虫籠。おじいさんは歌いながら雪原を走り回る。
僕は、それを見て動けなくなった。
「おやぁ? どうしたい、ぼく?」
走り回るおじいさんと目が合う。不気味な外見とは違って気さくな感じだ。
「家に帰る途中で紅い蝶を見付けて……気付いたら追いかけてました」
僕はおじいさんに話した。おじいさんはにこにこと皺だらけの顔を歪めて笑っている。
「おやおや、若いのに魂蟲が見えるなんて。珍しいぼっちゃんだぁね」
「たま、むし?」
どう見てもこれは蝶だ。玉虫には見えない。
「そうさぁ、こいつは蝶々じゃなくて魂蟲さぁ。死んだ人の魂だぁよ」
「有り得ない」
僕は言った。おじいさんは歌った。
「蒼い蝶々は天国へ。紅い蝶々は監獄へ」
「急に人が変わったような人を見たことはないかい? それは人が変わったようなじゃあ、ないんだよ。人が変わっているんだよ」
「魂蟲は人の体に戻りたがるのさ。魂の抜けた空っぽの人に入ってしまうのさぁ」
歌いながらまたぱたぱたと網を振っていたおじいさんは、説明を終えると僕を見て不気味に微笑む。
「紅と蒼の蝶には、どんな違いがあるの?」
普通だったら信じないし、こんな質問もしない。だけど、白と紅と蒼とおじいさんが、この状況をすんなりと僕に受け入れさせた。
「歌の通りさぁ」
おじいさんはもう一度にやりと笑って、また蟲取りに精を出す。
「あなたは人に入った魂蟲も分かるの?」
僕はしばらくまた蟲取りに精を出すおじいさんを見た後、雪原を駆け回る彼に尋ねた。
「分からんこともないねぇ」
おじいさんは雪原を駆けながら答えた。
僕の心臓がとくんと跳ね、左の頬がずきりと痛む。
「調べて欲しい人がいる」
「ほぅ、そいつは誰だい?」
「僕の、お母さん」
冷たく吹いた風が、僕の赤く腫れた頬を刺激する。
「ほほーぅ、そいつはまたどうして?」
おじいさんは僕に近寄って、じろじろと顔を見つめてくる。
「一年前に事故に合ってから、急に乱暴になった。僕や妹に暴力を振るようになったし……事故に合う前はあんなじゃなかった」
聞いて、うんうんとおじいさんは頷いた。
「ぼっちゃんのお袋さんを見ても良いが……魂蟲だったらどうするね? 取っても良いのかね?」
そいつはお袋さんの死を意味するぞ。と、おじいさんは今までのにこやかさとは合わない固い声で言った。
「構わないよ」
どんなにお母さんの姿をしていても、中身が違ったら意味は無いだろ。と、僕は続けた。
「そうかい……それなら今すぐ取りに行こうかぁ」
この雪っ原の奴は、逃げたりしない。と続けて、おじいさんは蟲取り網を担ぎ僕の前を歩き出す。
僕はおじいさんの背中を見ながら、彼の跡を継ぐのも面白そうだと思った。魂蟲が見えるのは、珍しいみたいだし。
君の周りにもいないかい? 急に人が変わったような人。
それは人が変わったような、なんかじゃなくて、実際に変わっているのかもしれないよ。
空を舞う、紅か蒼の魂蟲に。
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