6年間
夕飯の支度をしているところへ帰って来たあの人が背中越しに声を掛ける。
「今日のメシは?」
「サバの味噌煮よ」
「美味そうだな」
いつの間にか私の後ろに立ったあの人がそっと私を抱きしめる。
そんな瞬間が私にはとても幸せに感じられる。
あの人と出会ったのは6年前…。
あの人は津波にさらわれた奥さんを探すために、あてもなく海岸を彷徨っていた。
大地震の後に襲って来た津波。あの人は奥さんと近くの一番高い建物に避難した。けれど、津波はその建物をも呑み込んだ。お互いに流されない様に必死に何かに捕まっていたのだけれど、奥さんは力尽きてしまった。あの人も必死に手を差し伸べたのだけれど、奥さんの手を掴み取る事は出来なかった。
私は海岸に倒れていた。そんな私をあの人が見つけてくれた。私は自分の名前さえ解らなかった。一切の記憶が失われていた。そんな私にあの人はとても優しくしてくれた。
数日後、あの人の奥さんの遺体が見つかった。
「なあ、何か思い出したか?」
私は首を振った。
「俺は一人ぼっちになっちまった。妻も家族もみんな流されちまった。あんたの家族を探す手伝いをしてやりたいが、このままここに居たんじゃどうにもやりきれねえ。ここを離れようと思う…」
「私も連れて行って」
「バカな事を言うんじゃないよ。どこかにあんたを探している人がいるかも知れねえんだぞ」
「ううん、私は一人だから。身寄りは無いの」
「本当か?」
嘘だった。だけど、ここは記憶もない私が過ごしていくのにはあまりにも過酷な場所だった。とにかく、少しでも早くこの場所から逃げ出したかった。
私はあの人と一緒にここを出る事にした。
「俺は黒田太一。あんたは?」
「あ、あの…佐藤のりこ…です」
私達は東京へ出た。あの人は建築作業員として働き始めた。幸せな日々が続いた。そんなある日、私は買い物の帰りに交通事故に遭った。二日間意識不明のまま入院していた。気が付いた時にあの人が居てくれた。嬉しかった。
「ねえ、結婚しましょう」
「えっ? でも…」
「やっぱり、嘘だって判っていたのね。佐藤のりこなんて名前、あの避難所にあった箱に書いてあった商品メーカーの名前だもんね。そんな私を今まで面倒見てくれてありがとう。でも、もう大丈夫。思い出したから。全部、思い出したから」
そう、6年前、私は仕事で訪れていたあの場所で震災に遭った。家族は東京に居る。
退院して私はあの人を連れて実家に帰った。
玄関のチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。母だ。私の顔を見た母は驚くより先に泣きながら私を抱きしめた。
「綾子なのね。夢じゃないよね」
「お母さん、長い間、心配掛けてゴメンなさい。震災に遭って記憶を無くしていたの。その間、ずっとこの人が面倒を見てくれたのよ」
「えっ? この人って?」
「何を言っているの…」
私が改めてあの人を紹介しようとすると、一緒に来たはずのあの人の姿がどこにもなかった。
私が入院している間にあの人は工事現場の事故に巻き込まれて亡くなっていた。あの人は自分が亡くなった後も私の事が心配でずっとそばに居てくれた。そして、帰るべきところに私が帰って来たのを見届けて天国へ旅立ったのに違いない。最愛の奥さんの元へ。






