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虎の威を借る狐

 翌朝。結菜は朝番だったので、俺が起きた時にはもう部屋に居なかった。

『行ってきます!』と書かれたメモが残されていた。

 俺が熟睡していたこともあったが、きっと起こさないように静かに支度をして行ったのだろう。「いってらっしゃい」と言えなくて寂しい気がしていたが、結菜の優しさを感じて心がポカポカしてきた。


 俺のほうはアルバイトが17時からだったので、朝食兼昼食用に『南かぜ風』にパンを買いに行くことにした。結菜に会いたかった。


 驚いた。渚町でこんな光景は初めて見た。『南かぜ風』に100m以上もの行列ができていた。

「こんなにかわいい子が働いているんだろ」

「ツイッター見た時は驚いたよ。テレビに出ているアイドルより何倍もかわいいよな」

 どうやら結菜が『南かぜ風』で働いていることが、SNSで拡散したようだった。夏休み期間中ということもあり、若い男たちが鼻息荒く並んでいた。

 アイドルの握手会で噂を聞いたことがあるが、こいつらアレをした手で結菜に触れたりしないだろうな?

 俺が店先で困惑していると、結菜が出て来て、

「落合、おはよう! よく眠れたみたいね。よかった」

と声をかけてくれる。

「お、おはよう」

 並んでいる男たちの視線が刺さる。

「ちょうどよかった。今日、大変なことになっていて、手伝ってよ。まだ時間、大丈夫でしょ?」

「ああ、任せとけよ。何でも手伝うよ」

 俺は結菜に手を引っ張られて、『南かぜ風』の中に入る。並んでいる男たちの羨望の眼差しが心地よかった。


 『南かぜ風』の中は、お客さんでごった返していて、パンが残り少なくなっていた。

 おかみさんがレジで奮闘していて、マスターは奥の工房でパンを作っていた。

「私がおかみさんとレジ変わるから、落合はお客さんが買ってくれたパンを袋に入れてちょうだい」

「わかった」

「あっ、落合君悪いわね。せっかくの休みなのに」

「気にしないでください! いつもお世話になっているので、何か手伝わせてください」

「それじゃ、結菜ちゃん。ここ任せるわね」

「はい」

 おかみさんは結菜にレジを任せると、工房に入ってマスターのパン作りを手伝う。

 パンを選ぶふりをしていた男性客たちが一斉にレジに並ぶ。

「結菜、俺がレジをやる」

「えっ?」

 俺は結菜の返事も聞かないで、立ち位置をかわる。

 並んでいる男性客たちがギロッと俺を睨むが、

「いらっしゃいませ。2点で360円になります」

と意に介さず接客をした。

「ありがとうございます」

 結菜がパンを袋に入れて、男性客に渡す。レジに立って、お釣りを渡したりするよりは、よっぽど手が触れるリスクが低くなる。『南かぜ風』に寄って良かった。こいつらの手が結菜に触れていたらと考えただけでゾッとした。


 15時過ぎには、材料もなくなり、『南かぜ風』はいつもより大分早く閉店となった。

「落合君、今日はありがとうね。これ、取っておいたから食べてちょうだい」

「ありがとうございます」

 おかみさんがパンの詰め合わせをくれた。

「明日も手伝いにきます」

 俺がそう言うと、

「落合、明日は私がもっと頑張るから大丈夫」

と結菜に断られた。

「だって、あんなにお客さん来たらたいへんだろ」

「それはそうだけど……。今日の落合、変だったから……」

「変って、何が?」

「ちょっと怖かったっていうか、柔らかくなかったっていうか……」

「そうかな? それなら、明日はもっと笑顔で接客するように気をつけるから」

「しつこい! 明日は大丈夫だから来ないでよ!」

 そこまで怒ることないではないか。

 入口に『完売』の張り紙をしたマスターが戻って来る。

「大繁盛ですね」

 俺がそう言うが、マスターに笑顔はなかった。

 『完売』の張り紙を見て、残念そうに帰って行くお客さんたちがいた。

「明日の分の材料を買いに行って来るよ。明日は、こんな時間に閉店するわけにはいかないからね」

「あっ、私もお手伝いします。力には自信がありますから」

「はははっ。結菜ちゃんが一緒なら百人力だ」

 ようやくマスターに笑みが浮かぶ。

 今、俺はマスターにさえ嫉妬した。結菜が俺以外の男を笑顔にすることが癇に障った。俺は大きな人間ではなかったけれど、こんなにも小さな人間だっただろうか?



 『南かぜ風』を後にして、部屋に戻る途中、嫌な奴と遭遇した。

「俺、お前に嫉妬なんかしてないからな。俺は今、幸せなんだ」

「フッ」

 八坂が鼻で笑う。

「お前、いい加減にしろよ!」

「随分と強気だけど、お前が俺より勝っている点が一つでもあるのかよ」

 言い返せない。

「田中と同棲しているからって、調子に乗るなよな」

 一番嫌な奴に、一番痛いところを突かれた。

「美樹から聞いたけど、お前ら付き合っているわけではないんだろ。俺、田中にコクってみようかな。田中だったら俺の彼女にしてもいいかも」

 ドサッと何かが落ちる音がした。

 振り向くと、美樹がコンビニの買い物袋を落としていた。

「ご、ごめん。聞くつもりはなかったんだ」

 美樹はそう謝ると、落とした袋を拾う。

 どうして美樹が謝るんだ? どうして美樹は怒らないんだ?

「今日は気分じゃないって言っただろ」

「お部屋の掃除だけでもしようかなって。エヘヘッ」

「そういうのうっとうしい」

「ご、ごめん」

 また美樹が謝る。

 体が反射的に動いた。何度も結菜に蹴られて、いつの間にかその動きを覚えていた。

 俺は八坂の顔面に飛び回し蹴りを喰らわせた。

 八坂は壁にもたれかかるように倒れる。

「このクソ野郎! 美樹に謝れ!」

 スカッとした。

「痛ッ」

 美樹にビンタをされた。

「海太、大丈夫?」

 抱え起こそうとする美樹を、八坂が払いのけて、自分で立ち上がる。

「お前、本当は俺が怖いんだろ? 俺に田中をとられないか心配でたまらないんだろ? 映画の撮影が終わったら、ケンカの相手をしてやるよ」

 何も言い返せない。

 八坂が立ち去って行く。あいつはきっと“略奪を許された能力者”だ。誰かが大切にしているモノを、平気で奪い取ることが天に許された人間なのだ。

「正、こんなことしていると、本当に海太に結菜を奪われちゃうよ……また、明日ね」

 美樹はそう言い残して、八坂を追いかけて行った。

 何も言い返せないから、暴力を振るった。しかも、立場上ケンカをすることができない相手に……。

 結菜を好きなだけではダメだ。自分の弱さをそれで補うことはできない。

 結菜を好きになることで、自分が強くなるわけではないのだ。俺は大きな勘違いをしていた。

 俺は完全に八坂より劣っている。嫉妬する理由は山ほどあった。結菜と同棲している幸せでそれをごまかそうとしていたのだ。

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