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その暁には

作者: 藤安


 脳内で鳴り響く警鐘。それに突き動かされ、高まる焦躁感と上がる息と共に、眼前をふさぐ扉を開け放った。

 心臓は耳の裏でどくどくと脈打っている。脳内の警鐘と重なって不協和音が身体を支配する。込み上げた吐き気は、その歪んだ音の羅列のせいだろうか。それとも、開けた扉の内側、視界に入った光景のせいだろうか。

 ふと思った。今の自分の姿をあの子が見たら、どんな表情をするだろう。

 わざわざ想像力を駆使しなくとも、それは容易に想像できた。……きっと。細い目に憂いの光を浮かべ。心配そうに眉を寄せて。そして、見落としそうなくらいの小さな不安を織り交ぜた声音で、「どうなさったのですか」。その後で、淡く色付いた小さな唇が、名を呼ぶのだ。

 ―――どうなさったのですか、ロエン様。

 けれど、そう言うはずの『あの子』は満身創痍、文字通りの血にまみれた姿で気を失っていた。……見知った男の腕の中で。

 息の詰まる衝撃だった。吸って吐くという生理的な動作が上手くいかない。

 ―――なぜだ。なぜ、その男の腕に、お前は抱かれている?

 その時、唐突に理解した。目の前に解答を突きつけられた。

 簡単なことだった。自分は、『あの子』が好きだったのだと。ずっと、ずっと好きだったのだと。親を亡くした子犬を育むように慈しんできた自分の感情は、確かな熱を紛れ込ませた虚像の親愛だったのだと。全部を突き付けられた。

 その証拠に、気管を突き破って溢れ出しそうな感情は、まぎれもない嫉妬だった。『あの子』を自分の腕の中に抱いている男への、嫉妬。いや違う。それだけではない。易々と男の腕に抱かれている『あの子』への恨み。易々と『あの子』を男の腕に抱かせている自分自身への怒り。

 全部が混じりあって相殺しあい、結果として感情のこもらない声が無機質な部屋に響いた。

「……その子から手を離してくれるかい」

 けれど見知ったその男は、顔を上げるとそこで初めて気付いたというようにこちらを見た。そして、にいと笑った。唇の端を、何かで引っ張り上げたような機械的な笑み。

「来るならあなただと思っていましたよ、軍師殿」

「誰が来るかなど、どうでもいい。それより聞こえなかったかい?私はその子から手を離せと言ったんだがね」

 裏切り者は、素直に頷いた。そして大切そうに、自身のコートを脱いだその上に彼女を横たえた。血の気のない頬、けれどふわりとした曲線を描くその頬に、男の指が触れる。上から下へと輪郭をたどるようになぞったその指は、感触を指先に覚えさせるように、か細い息を吐く彼女の唇でぴたりと止まった。そして男は、自分自身へ言い聞かせるようにゆっくりと言った。

「ええ、離します。今回は離しますよ。二度と離さないようにするために、今回だけは」

「裏切り者に、二度目があるとでも?」

「ありますよ。二度目が最後です。それからはもう離しません。……それまでは、そうですね、軍師殿に僕の可愛い副官を預けるとします」

 止まっていた男の指が、今度は彼女の唇を右から左へなぞる。名残惜しげに一旦離れた男の骨ばった手は、次には彼女の前髪を優しくかきあげた。

 驚くほど冷静に、その光景を見ている自分がいた。

 男が彼女の額に唇を押し付ける姿。

 その一瞬、全ての感情が凍結する。

 ある意味、神聖な儀式のような光景だった。男の長く伸ばされた髪が、横たわる彼女の頬に流れる。慈しみと、まぎれもない執着、熱情を乗せた唇が、彼女の穢れのない額を染める。

 それをただ、見ていた。

 後に、脳裏に焼き付けられたその光景にどれほど苦しめられるかなど、分かっていなかった。




 本当に、理解していなかったのだ。

 誰もいない部屋、小さく息を吐いた。脳内で何度も再生される一つの場面。

 あの後、自軍の兵が部屋へとやってくるまで、無心に彼女の額をぬぐい続けた。あの男の唇に侵された彼女の額を、何度も何度も。あの男が見せつけた彼女への執着を拭い去るように、何度も何度も。それでもその痕跡は、消えなかった。当たり前だ。既に自身の脳裏に記憶となって深く刻みこまれていたのだから。それを少しの時が消し去ることはできないと、嫌になるほど分かっている。

 自分の口から吐き出された息は、呆れるほどに震えていた。脳内で何度も再生される一つの場面。見たくなくて目を覆えば、今度はまぶたの裏で鮮明に再生される。

 頭が痛い。頭蓋の内側から殴られるような痛みだ。それが恐怖を示す痛みなのだと、知っている。けれど何に対する恐怖なのか分からない。彼女を失うことへの恐怖なのか。それとも他の誰でもない、あの男に彼女を奪われることへの恐怖なのか。

 思い起こせば、あの男は自分に彼女を預けると言った。それはつまり、あの男は彼女を自分に預けても大丈夫だと確信しているのだ。こちらがどうしても彼女に手が出せないことを知っているから。

 それならば。有言実行を貫くあの男のことだ。時が来たら、彼女をさらいにくる。

 瞬間、抑えようのない恐怖に襲われた。

 ―――その時が、来たら。彼女をさらいに?

「その時が、来たら……」

 またあの光景がよみがえる。蒼白な彼女の額に、口付けの所有印。

 その時が来たら。

 あの男が。あの子を。奪いにくる。

 自分の傍から。あの子が。消える。

 自分は。あの子を。失う。

 あの男の腕に。あの子は。永遠に。

「抱かれると、いうのか」

 ―――それなら、いっそ。

 抜いた短剣は、ろうそくのゆらめく光で妖艶に輝いた。刃に乗る炎の紅が、誘惑の紅へと変化する。甘い。あの子の。―――したたる。

 ふと思った。柔らかな胸の膨らみに刃を押し当てたら、あの子はどんな表情をするだろう。

 わざわざ想像力を駆使しなくとも、それは容易に想像できた。……きっと。細い目に憂いの光を浮かべ。心配そうに眉を寄せて。そして、見落としそうなくらいの小さな不安を織り交ぜた声音で、「どうなさったのですか」。その後で、淡く色付いた小さな唇が、名を呼ぶのだ。

 ―――どうなさったのですか、ロエン様。

 そんなあの子を、自分はどんな表情で見るのだろう。きっと、この上なく幸せな笑みを浮かべているに違いない。

 そうだ、そのままあの子の耳元に陳腐な、けれど全てを表す言葉を刻もうか。愛している、と。そして柔らかなあの子の胸に刃を沈み込ませ、くずれ落ちる身体を腕の中に。最後に、あの子の紅がしたたるその刃で自分の首を掻き切る。

 永遠に、あの子を私の腕の中に。

 ああ、それなら。

「遠く離れた場所がいいな」

 人も、軍も、国も。何も関係のない場所。全てを断ち切り、二人だけの世界へ。

 それは甘い幻想だった。まるで、蜂蜜を唇に塗られたような。舌を伸ばせば触れられる距離にある幻想。あの男の魔手からは完全に隔離された幻想だ。あの場面に苦しまされることもなくなるだろう。

 次に吐いた息は、狂おしいほどの焦心に揺れていた。

 幻想を、現実に。あの子を、私が。あの子を、私の。

 しかし、急く心を止めたのもあの光景だった。伸びる指。流れ落ちる髪。押し付けられる唇。

 はっとした。

 気付いてみれば、この思考は、結局はあの光景に侵された思考回路の終点なのだ。

 あの光景に脳内がぐちゃぐちゃと掻き混ぜられている。あれさえ見なければ、こんな思考結果にたどり着くことはなかった。侵された思考回路は、きっと腐りかけている。

 ―――それならば。

 このまま、腐り落ちてしまえばいいと思う。

 この、既に破綻しかけた脳みそごと、腐ってしまえ。




 「……イケナイことを考えてるねぇ、ローちゃん」

 場違いな明るい声は、しかし隠しきれない淫猥な響きがこめられていた。その声の聞こえた方に目を向けると、やはり淫猥そのものの格好をしたいつもの人間がいる。

「公然猥褻のイケナイ男に言われたくないのですがね、愛人殿。あなたが来たということは元帥もすぐに来ますか」

「うん。さっき僕が起こしたから、もうすぐ来ると思うよぉ」

「そうですか」

 ふと、公然猥褻を否定しないこの男に聞いてみたくなった。

「愛人殿」

「んん?」

「もし、自分の思考が自分のものでなかったらどうします?」

 シャツから出る生白い足でくるくると回りながら、彼はふふっと笑った。

「そんなことありえないなー。だって、自分で考えたならそれは間違いなく自分の考えでしょ?そこに何が影響してるかなんてどーでもいーじゃない。……そうだぁ、ローちゃん」

「はい」

「臆病なローちゃんに一つ教えてあげる」

 そうして彼はささやいた。

 ―――どうしても欲しいならね、その思考に溺れればいいんだよ。

 思わず、笑った。こちらの顔を見た彼は、心底楽しそうに言葉を続ける。

 もしもそれが、だぁいすきな人の命でもねぇ。




 ある光景に脳内がぐちゃぐちゃと掻き混ぜられている。あれさえ見なければ、こんな思考結果にたどり着くことはなかった。侵された思考回路は、淡々と腐っていく。

 ―――それならば。

 このまま、腐り落ちてしまえばいいと思う。

 この、既に破綻しかけた脳みそごと、腐ってしまえ。

 その暁には、お前を永遠に私の腕に。





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