喧騒
ママが通算二十一回目の恋に落ちた。
「どこから出たのその数字」
「ママの自己申告」
わたしが雑誌を読みながら答えると鏡の前のママは憮然とした。
「いちいち数えてるの?」
「ちゃんとノートに記録取ってる」
「かわいくない子ねえ」
かわいいかわいくないがどうして関係するのかよくわからない。理由なんてないのだ。
ママはこういう時『かわいくない子』か『おばあちゃんによく似てるわ』のどちらかしか言わない。
ママはおばあちゃんが嫌いだったのだ。わたしも別に好きではなかった。そしてわたしとおばあちゃんは似てはいない。
ママにとって聞きたくない言葉を言う人はみんなおばあちゃんみたいな人だし、そしておばあちゃんに似ているといえばわたしが傷つくと思ってるのだ。
わたしは小さな子供じゃないから意味不明な台詞を投げつけられたってそれで悩んだり痛んだりしない。ママはそれを永遠に知ろうとしないでいる。
お姉ちゃんのパパが十一回目の恋の相手で、わたしのパパが十五回目。
恋多き、というよりただ気が多いだけだと思う。
結婚まで行くか行かないかの違いは相手次第なのだからママは馬鹿だ。
お姉ちゃんは早々に、ママになにも言うことをあきらめて高校から寮に入った。それでもママは離れていったお姉ちゃんのことはかわいくないとは言わない。
ママはお姉ちゃんのパパは数多い恋の相手の中でも『特別』だったという。
お姉ちゃんは、単に自分の父親だけ死別だからだと言った。わたしのパパはわたしが二歳になる前にママから去った。
わたしが長く自分の父親だと思っていた人はママの十七回目の恋の相手だった。
本当の父親が他にいるとわかった後、二度だけ会ったことがある。
一度はママと一緒に。二度目はその半年後にわたしだけで。
夕暮れの海が見えるレストランで淡路島のオリーブの話を聞いた。わたしの父親は言葉を選びながらゆっくりと話す人だった。
食事をしながら、もう会うことはないだろうなとぼんやりと思った。
その時の予感どおりパパから連絡は今までないしわたしもしてない。
もしお姉ちゃんのパパが死ななかったら、今でも生きていたらママは幸せになれていただろうか。
お姉ちゃんは別に自分は不幸せではないという。
親が子供より自分自身のことが一番大事なのは幸福なことではないが、けれどそれは自分が悪いわけではないから別に構わないのだそうだ。
わたしは、お姉ちゃんのパパが生きていたら生まれてきてなかった。
わたしが今ここにいるのは、ママが恋多き人だったおかげ。
でもだからといってそれがなんだろう。
「いいから早く着替えてね。お食事に行くわよ」
もう小さな子供じゃないのだから、連れていかれるより家で留守番しているほうがいいのに。
けれどママにはわたしのそんな言葉は耳に入らない。
楽しそうに茶色の柔らかな髪を結っている。
娘を新しい恋人に紹介し相手にもわたしや姉を紹介するその時、ママは満ち足りて幸せそうだ。
紹介されたママの恋人はたいてい感じの良い笑顔で握手し、感じ良く食事を済ませる。そしてごくまれに感じの悪い台詞を残して去ってゆく人もいるがだからといってママの相手に対する評価が変わったということもない。
ママと恋人の付き合いに娘は関係しないのだから。
それでも必ず顔合わせをしたがるのは言い訳がほしいからだと思ってる。
うまくゆかなかったことをわたしたち娘のせいにするのもいつものことだから。
ママはピンクのワンピースに真珠のネックレスをかけていた。若々しい娘のように見えるお気に入りの組み合わせ。
実際にはとうに四十歳を越えていても、それはママにとってはどうでもよいことなのだ。
「もうまだ準備してない。いい加減にしなさい美波ちゃん」
苛立ちを含んだ声。わたしは息を吐いて立ち上がった。
「イエス、マム」
今夜の食事はホテルの最上階のレストランだった。
夜景がとても綺麗なのよとママはタクシーの車内ではしゃいでいた。夕闇に沈み始めた街は窓に明かりがともり始めている。
前方の車のテールランプが白い尾を引いて眼の中に残った。
ロビーで初対面をはたしたママの新恋人はママより八歳も若く背が高かった。
ママの好みのタイプはいつもばらばらなのでふうんとしか思わなかった。
わたしは全員が無言で乗ったエレベーターで少し酔っていたので出された懐石風のなんとかというコースの味などまったくわからなかった。
ただママが幸せそうに微笑み、相手の男性もそんなママに満足している様子だった。
わたしたちは幸せな一組の家族に見えただろうか。
ロビーで帰りのタクシー代をもらいママとママの恋人と別れたけれど、まだ気分の悪さが抜けずロビーでしばらく休むことにした。
ふわふわのソファーはすわり心地がよくえ安らかな気持ちになれる。
ロビーにはたくさんの大人がそれぞれにすごしていた。
背広の人。和服の人。普段着に近いカジュアルな人。若い人。年配の人。外国の人。
若草色のツーピースを着たわたしはぽつねんとシャンデリアの明かりに照らされて、場違いだった。
食事をしながらママは恋人の美点をたくさんわたしに教えた。次々とわたしたちの席へ料理を運んできては説明してくれるウェイターさんより詳しく。
ママの恋人は苦笑しながら聞いていた。わたしはお皿の鮎を見ながら、いつだったか鮎の塩焼きにはレモンをつけるよりかぼすをつけたほうがいいのに、とこぼしていたママの以前の恋人のことを思い出していた。
あの人は今なにをしているのだろう。
ママはわたしを、
「最近ちっともかわいげがないの」
と一言で紹介した。
ママの恋人は中学生くらいならそんなものだよと笑って受け流した。
褒める言葉より貶す言葉のほうが多いって誰が言ったのだったろう。
嘘だった。
うちのママは恋人にだけ饒舌だったのだから。
わたしはソファーに背中をあずけて座っている。
ロビーはたくさんの人がいてあたたかな光があふれている。そしてやさしくにぎやかだ。
ずっと座っていたら動けなくなるかもしれないから早く帰ろうと思うのに、なぜか立ち上がれない。
喧騒が心に響く。
わたしは、泣かない。