3day 存在(オン)
真っ白い部屋。
カナエは灰色のスーツの襟を正そうとして、自分の指が震えていることに気づいた。
ガラスの向こう。そこには、昨日までと同じように長い黒髪の女――チトセが座っている。
「……おはようございます、チトセさん」
カナエの声は、もはや掠れ、自分のものとは思えないほど低く響いた。
「おはようございます、先生。いいえ、カナエさん」
チトセが答える。その声は、一日目のカナエのように凛として、知性に満ちていた。
どちらがカナエでどちらがチトセなのか。本人にも分からなくなる。
「今日の診察を、始め……」
「今日の診察を、始めましょうか」
「真似しないで……私は、カウンセラーの……」
「私は、カウンセラーのカナエ。あなたは、患者のチトセ」
言葉が重なり、同調し、やがて追い越し始める。
カナエが口を開くより先に、チトセがカナエの言おうとした拒絶を先回りして吐き出す。
「やめて! 私の中に、入ってこないで!」
「やめて! 私の中に、入ってこないで! ……ふふ。そのセリフ、昨日私が叫んでいたものですよ」
もはやどちらが先に喋っているのか分からない。
鏡合わせの狂気。
チトセは椅子から転げ落ち、ガラスに縋り付いた。
ガラスの向こう。カナエは、椅子に優雅に腰掛け、あの最初に見せた慈愛に満ちた完璧な「カナエ」の微笑みを浮かべていた。
「チトセさん。落ち着いて。……あなたのその混乱は、記憶の『欠落』を埋めようとする防衛反応に過ぎません」
一日目、カナエがチトセに言ったのと全く同じフレーズ。
それを、今はチトセが、カナエの喉(声)を使って、完璧なトーンで再生している。
「真似しないで……私の声を、私の言葉を、奪わないで!」
「真似? ……いいえ、先生。私は、あなたの『部品』をすべて回収して、完璧な『カナエ』というテセウスの船を組み上げたのです。むしろ、あなたこそ、私の言葉を模倣しているじゃないですか」
「私は、私……私は……カナエ……!」
「いいえ、あなたはチトセ。脳死から目覚めた、空っぽの器。……私が、あなたの中身を回収してあげたの。感謝して」
カナエは優雅に立ち上がり、背後のドアに手をかけた。
「待って……行かないで! 私を置いていかないで!」
カナエは必死にガラスを叩く。しかし、向こう側の「チトセ」は、慈愛に満ちた、完璧な「カナエ」の微笑みを浮かべて静かに告げた。
「カナエさん。これでカウンセリングは終了です。お疲れ様でした」
カチャリ、とドアが閉まる音が、真っ白な部屋に空虚に響いた。
「私はカナエよ。私がカナエ。私が。私、わた……し……は……ダレ?」
後に遺されたのは、真っ白い服を着て、真っ白な床に蹲り、自分の名前さえも思い出せなくなった「何か」だけだった。
数時間後。
施設の管理室で、研究員が録画データを確認していた。
「……これは。実に興味深いねぇ?」
モニターに映し出されているのは、一人の女性。
部屋の壁には、壁一面の大きな鏡があり、その前に椅子が置かれ、女性はそこに腰を掛け、鏡の中の自分と対話している。
そこには、灰色のスーツの女も、白い服の女も、存在しない。
「私は、私! カナエよ!」
「違う。あなたは私を模倣しているだけよ?」
研究員がその映像を見て。呟く。
「あー、どっちでもないんだけどなぁ」
「誰かを模倣しすぎて、自分が誰かもわからなくなっちゃうなんて……。人間て、なんなんすかねぇ? 先輩」
後輩が先輩にコーヒーを渡し、先輩は呑気にコーヒーを啜る。
「ま、あれだな。人間の個とは、自分が自分をどれだけ認められるかに尽きるってことだ。他人と比べたり、誰かの真似をして、何者かになりたがったり。そういう奴は、あんな風に自分を見失うってことだ」
「おっそろしいっすねぇ。思い込みって度が過ぎると、洗脳に変わるんすかね?」
「まぁ、そういうこったな」
研究員が退屈そうにマウスを操作し、録画を停止させようとした。
画面の中では、女が、鏡に向かってまだぶつぶつと呟いている。
「……なぁ、先輩。この被験者、さっきからなんて言ってるんすか?」
音量を最大に上げる。
ノイズの向こう側から、鏡を指先でなぞる「キィ……」という不快な音と共に、女の掠れた声が響いた。
『初めまして、チトセさん。あなたの担当カウンセラーになった、カナエです』
研究員の手が止まる。
それは、三日前の「カナエ」が最初に放った、あの完璧に調律された、慈愛に満ちた声そのものだった。
鏡の前の女は、表情一つ変えず、一語一句違わぬトーンで、自分自身に向かって「次のセッション」を始めていた。
「……おい。こいつ、また『最初から』やり直してやがるのか?」
先輩と呼ばれた男が、気味悪そうに顔をしかめてモニターを消した。
真っ暗になった画面に、自分たちの顔がぼんやりと映り込む。
「……まあ、いいさ。部品が全部入れ替わっても、その船を『テセウスの船』と呼び続ける限り、実験は終わらないんだからな」
二人が去った後の管理室。
真っ暗なモニターの隅で、小さな赤い録画ランプ(REC)だけが、脈打つ心拍のように点滅を繰り返している。
真っ白い部屋の鏡。
そこには、女が一人、ゆっくりと髪をかき上げる姿が映っていた。
(完)
【デジャヴ】
「お疲れさまでした。ここまで、ずっと見ていましたよね? 私の事。あなたは何者ですか? 自分が自分と言えますか? 鏡の中の自分は本当に、自分なのでしょうか? もしかしたら、誰かの記憶が染みついた、別の人間かもしれませんよ。次に鏡を見る時は、くれぐれも用心してくださいね」
チトセが言葉を残していった。




