2day 記憶(パトス)
「こんにちは、チトセさん」
「先生、今日も来てくれたんですね」
「仕事ですから」
昨日の『慈愛に満ちたやさしい言葉』とは違って、『無機質な言葉』をカナエは剥き出しにする。
「では、続きを始めましょう。あなたの事、自分が認識している範囲でいいので、教えてもらえませんか?」
「それについては……。数年前、あなたはここに一度来ています。その時話をしたでしょう? 覚えていないのですか?」
「え?」
カナエの手元で、万年筆が紙を裂くような音を立てた。
「嘘よ。私は……採用されてからまだ一週間も経っていない。ここへ来るのは、昨日が初めてよ。記録だって確認しているわ」
「記録……。それは、誰が書いたものですか? あなたが今朝、鏡の前で『私は新人カウンセラーのカナエだ』と言い聞かせた瞬間に生成された、偽物の記憶ではないと言い切れますか?」
チトセは、ガラスに額を押し当てるようにして、カナエの瞳を覗き込む。
「思い出してください。三年前、この部屋で、今の私と同じ白い服を着て、今の私と同じようにガラスを叩いていたのは……あなたですよ?」
「やめて! そんなはずない!」
「あなたは私に、自分の過去を差し出した。……忘れたのですか? 雨の日の放課後、誰もいない音楽室で、あなたが一人で泣いていたあの日の温度を。……窓の外で鳴っていた、壊れた雨樋の音を」
カナエの心臓が、早鐘を打つ。
それは、誰にも話したことのない、カナエだけの孤独の聖域だった。
「……どうして……それを」
「私が『持っている』からです。あなたが捨てた部品を、私が拾い集めて、今の私という船を組み上げた。……逆に、今のあなたの中にあるのは何ですか? 空っぽの部屋に、借り物の家具を並べただけの、偽造された人生じゃないんですか? あぁ、そうそう。今、その跳ね上がった心拍ですら、私の模倣ですよ?」
「違う……私は、私よ! 私には、ちゃんと過去があるわ。家族だっている。……写真だって、持っている! それに、私の体は私のものよ!」
カナエは、逃げるように鞄を探り、古びたパスケースを取り出した。透明なポケットには、一枚の家族写真が入っている。
父と母、そしてその真ん中で笑う、幼い頃のカナエ。
「ほら、見て! これが私よ! これが、私の生きてきた証拠よ!」
カナエは、震える手で写真をガラスに押し付けた。チトセに、いや、自分自身に、その実在を証明するために。
チトセは、ガラス越しの写真をじっと見つめた。表情一つ変えず、ただその無機質な瞳で、写真の細部をスキャンするように。
「……綺麗な、家族写真ですね」
「そうよ。これが私の……」
「でも、先生。その写真に写っている『あなた』。……どうして、私と同じ、真っ白な服を着ているのですか?」
「……えっ?」
カナエは、自分の手元にある写真に目を落とした。
――凍りついた。
そこに写っていたのは、おっとりとした母でも、優しい父でもなかった。
真っ白な背景の前で、真っ白なパジャマのような服を着て、無表情で座っている……チトセだった。
「……いや……いやあああ!」
カナエは悲鳴を上げ、写真を床に投げ捨てた。
床に落ちた写真は、元のカナエの家族写真に戻っている。……いや、戻っているように見えただけなのかもしれない。
「先生。あなたが大切に持っているその記憶。それは、あなたが数年前にここへ入所した時、私から剥ぎ取った『理想の家族』という部品の残骸ですよ。……あなたは、私から幸せな過去を奪い、自分こそがその人生の主役だと思い込むことで、今日まで生き長らえてきた」
「嘘……嘘よ……!」
「そして今、私は、その奪われた部品を回収するために、ここに座っている。……ほら、思い出して。あの雨樋の音。……次は、私があなたの喉から、その『悲鳴』という部品を回収しますね」
チトセは、ガラスの向こうで、床に落ちた写真を拾い上げる仕草をした。
実際にはそこには何もないはずなのに、チトセの手には、確かにカナエの家族写真が握られているように見えた。
「嫌……やめて……! 私は私なのよ! あなたは私じゃない!」
「じゃぁ、こうしましょう。先生? 先生が自分が自分だと確実に証明できれば、私はこれ以上あなたに何も言いません。ですが、証明できなければ、あなたが私から奪った部品を返してもらいますね?」
チトセの提案は、死刑宣告よりも残酷に響いた。
カナエは激しく乱れた呼吸を整えようと、自分の胸に手を当てる。しかし、その鼓動さえも先ほどチトセに「私の心拍だ」と言われたことが呪いのようにまとわりつき、自分の拍動なのか確信が持てない。
「……証明……? そんなの、簡単よ。私は二十六年間、私として生きてきた。私の脳には、幼少期の記憶も、学生時代の挫折も、初恋の痛みも……全部、刻まれているわ!」
「『刻まれている』……。先生、それはハードディスクのセクタに書き込まれた磁気データと何が違うのですか?」
チトセは、手の中に「あるはずのない写真」を弄びながら、憐れむような目を向けた。
「例えば、あなたの初恋。中等部の図書室、夕暮れ、紙の匂い。……その情景を思い浮かべる時、あなたの脳内では電気信号が走っているだけです。私が今、その信号と全く同じパターンを私の中に再現したら、その初恋は『私のもの』になります。データに所有権なんて存在しない。……さあ、もっと『物質的』で『不可逆』な証明をしてください」
「物質的……?」
「ええ。テセウスの船の部品がすべて入れ替わったとしても、たった一つだけ、入れ替え不可能な『本物』があるはずだ。……あなたの肉体? いいえ、細胞は数年で全て入れ替わる。あなたの思考? いいえ、それはただの言語の模倣。……先生、答えを教えましょうか?」
チトセが、ガラスを指先でトントンと叩く。そのリズムは、カナエの不規則な心拍と完璧に同期し始めた。
「痛覚ですよ。先生」
「痛……覚……?」
「他人の言葉は奪える。他人の記憶もコピーできる。……でも、今この瞬間にあなたが感じる『痛み』だけは、隣にいる誰にも、ガラスの向こうの私にも、代わることはできない。それが、あなたの個を繋ぎ止める最後の錨でしょうね?」
チトセは、椅子の下に隠し持っていた「何か」をカナエに見せつけた。
それは、収容所の備品であるはずのない、鋭利に研ぎ澄まされた果物ナイフだった。
「……っ! どうして、そんなものを」
「昨日、あなたが捨てた部品ですよ。……さあ、先生。自分を証明してください。その肌を裂き、流れる血の色と、脳を突き刺す痛みを享受してください。その時、あなたが『痛い』と叫ぶその声だけは、模倣ではない、あなただけの真実になる」
「狂ってる……。そんなこと、するわけないでしょ!」
「できないのですか? 自分を証明することを放棄するのですか? ……ならば、約束通り、返してもらいますね」
チトセは、ナイフを手に取ると、自分の手のひらにゆっくりと刃を立てた。
真っ白い服の袖が、じわりと赤く染まっていく。
「あ……ああッ……!」
カナエは自分の左手に目を落とした。
――チトセが切ったはずの場所。
自分の手のひらが、焼けるように熱い。
見ると、カナエの左手からも、チトセと全く同じ位置から、鮮血が溢れ出していた。
ナイフなど、持っていないはずなのに。
「先生……痛いですか? その痛みは、私のものですか? それとも、あなたのものですか?」
チトセは悦びに満ちた表情で、自分の血をガラスに塗りつけた。
カナエは、自分の傷口から溢れる「自分のものだと思えない痛み」に翻弄され、真っ白な床に崩れ落ちた。
「今日のパトスは、これで終わりです。……チトセさん」
意識が遠のく中、カナエの耳に届いたのは、自分自身の声で紡がれた、非情な終了の合図だった。
カナエは、自分の記憶が、自分の過去が、チトセという怪物にズルズルと吸い取られていくのを、ただ無力に立ち尽くして見届けることしかできなかった。




