1day 言葉(ロゴス)
「初めまして、チトセさん。あなたの担当カウンセラーになった、カナエです」
真っ白い閉鎖空間。
決して広くはないが、狭くもない。
部屋の真ん中は透明なガラスで仕切られており、向かい合うようにイスが置かれている。
窓はなく、ドアがお互いの背後にひとつずつついている。
長い真っ黒なストレートヘア。それとは対照的に、透けるような真っ白い肌。無機質な表情を浮かべ、じっとカナエを見つめている。
――チトセだ。
「チトセさん。あなたは昔、大きな事故に遭い、脳死状態になりました。ですが、奇跡的に意識を取り戻し、日常生活もできるようになりました。後は、人間としての感情を取り戻すだけなのです。わかりますか?」
チトセは表情一つ変えない。
「チトセさん。落ち着いて。……あなたのその混乱は、記憶の『欠落』を埋めようとする防衛反応に過ぎません。何か話をしませんか? 例えば、やってみたいこと……とか?」
『テセウスの船』
チトセは一言だけ、静かに呟いた。
「テセウスの船? それって、あの思考問題の? 船の部品をすべて取り換えても、その船は元と同じ船であると言えるのか? ……っていう、あれ?」
チトセは静かにゆっくりと頷く。
「……よく知っていますね、チトセさん。今のあなたにとって、自分の失われた記憶や入れ替わった感覚が、その『船の部品』のように思えるということかしら?」
カナエは、手元のカルテに『知的好奇心・メタ認知能力の保持』と素早く書き込んだ。事前に「会話は不能」と伝えられていた為、目の前の患者が「話が通じる相手」であることに、無意識の優越感と安堵を覚えたのだ。
「先生」
チトセが、初めてカナエを『役割』で呼んだ。
「……何かしら」
「今、あなたが言った『入れ替わった感覚』という言葉。それは、三年前の春、あなたが大学の卒業論文で引用した、フーコーの精神医学批判の一節ですね」
カナエのペンが、ピタリと止まる。
「……えっ?」
「あなたの喉の震え、息を吸うタイミング。それは、あなたが心酔していた教授の癖を、そのまま『部品』として使っているだけです。……先生。今喋っているのは、本当に『あなた』ですか?」
チトセの無機質な瞳が、ガラス越しにカナエの輪郭をなぞる。
「どういう……こと?」
チトセが理解不能なことを言い、カナエに動揺が走る。
チトセは軽くため息をつくと、丁寧に説明をし始めた。
「人間の記憶は、本当にその人の物なのでしょうか? 誰かが話した言葉、発見したこと。それらを知っただけで、自分の物のように他人に話す。それって、誰かの記憶をそのまま使っていることにならないのでしょうか? そこにオリジナルの自分は存在するのでしょうか?」
「何……言ってるの? 私は、私よ? 私が学んで、自分の血肉にし、私の言葉で発している。ただそれだけよ!」
「いいえ。あなたは、誰かが作った『正解の羅列』を再生しているスピーカーに過ぎません」
カナエの背筋に、戦慄を伴う悪寒が走った。
チトセの口調。
それはまさに「カウンセラー」の響きだった。
「冗談はやめて。私は、あなたを救いに来たのよ、チトセさん」
カナエの声が、わずかに上擦る。プロフェッショナルな仮面の下で、防衛本能が警鐘を鳴らしていた。
「『救う』……。救済という概念。それこそ、あなたが依って立つ最大の『借り物』ですね」
チトセは椅子から立ち上がり、ガラスに指先を触れた。
キィ――
と鼓膜を削るような音が響く。
「例えば、あなたが私に向けるその『慈愛に満ちた眼差し』。それは、あなたがかつて自らカウンセリングを受け、その時に受けた『慈愛に満ちた眼差し』。……その誰かのまなざしをあなたは、『カナエ』というフィルターを通して個を捏造している。そして、同じように私がその『慈愛に満ちた眼差し』を誰かに向ければ、それは私ではなく、私を通したあなた。今、あなたから貰ったものを再現しているに過ぎない。だから、私はあなたになる」
「違うわ。たとえ私が他の誰かから受けたこと模倣していたとしても、それは私の意志でやっていることだから、それは私であって、その人じゃない」
『違うわ。たとえ私が他の誰かから受けたこと模倣していたとしても、それは私の意志でやっていることだから、それは私であって、その人じゃない』
チトセはカナエのセリフを一字一句間違えずに模倣する。
「真似しないでよ!」
『真似しないでよ!』
言葉に音域も、デシベルも全て全くと言っていいほど同じ。
「ね? 先生。私が今言った言葉。真似じゃないですよ? ただ、先生から受け取った言葉を、私の口から私の意志で言っただけです。でも、先生は私が先生から奪った言葉に不快感を覚えた。先生だって同じこと、してるんですよ?」
カナエはチトセを軽く睨みつける。
「先生。あなたは先ほど、私の事を『脳死から目覚めた奇跡』と言いました。……でも、医学的に見て、今の私は『スワンプマン』に過ぎない。落雷で死んだ男が、分子レベルで偶然再構成された存在。『奇跡』なんていくら言われても、私も偶然脳を再構成されたものに過ぎない。奇跡でもなんでもないんです」
「……何を、言って……いるの?」
「脳ってなんで死ぬのでしょうか? 体は生きているのに。 本当にそれは死んだことになるのですか? 例えば、足が一本亡くなったところで通常、『死んだ』などと言わないじゃないですか。どうして、脳が死んだときだけ、『脳死』っていうんでしょうね? 体の部品が動かなくなっただけなのに。実質、体は動いてるじゃないですか」
カナエはぎゅとカルテを持つ手に力を入れる。
(この子。本当に何が言いたいの? こっちの頭がおかしくなりそう)
「逆に、身体は死んでるのに脳が生きていたらどうなるのかしら? それもやっぱり死んだことになるのかしら?」
「チトセさん。話を戻しませんか? そんな難しい話より、もっと軽い話をしましょう」
だが、チトセはカナエの言葉を無視して続けた。
「もし、今。私の脳を先生の言葉でいっぱいにしたら、私は先生になれると思いますか?」
「なれないわ。だって、顔や体が違うもの」
カナエの額から、冷や汗が流れ落ちる。
――怖い。
ただその感情だけが彼女の心を埋め尽くした。
「そうですか。ならば、先生の言葉を私で埋め尽くしてもいいですよね?」
「もう、いい加減にして! 真似しないでよ!」
『真似しないでよ!』
チトセが、再びカナエの声と完全に重なるタイミングで、全く同じ怒声を発した。音程、デシベル、そして「怒」というクオリア(感覚の質感)さえも、ガラスの向こう側で完璧に再現される。
「今の、わかりました? 真似したのは先生の方ですよ? 私が発した言葉に合わせて、叫んだのは先生の方です。いつの間にか、先生の方が私の部品を奪い取って、自分の物にしていたの、わかりますか?」
「違う……。私は、私よ……」
「いいえ。あなたは私の言葉をなぞり、私の影を追い、私の記憶を『自分の発見』だと信じ込むようにプログラムされた、テセウスの船。……先生。『個』なんて、この世に存在しないんですよ。みな、誰かしらを模倣しているにすぎないんです。人は皆、言葉の模倣から始まる」
チトセは、カナエがいつも無意識にやる、耳の後ろの髪をかき上げる仕草を、これ以上ないほど優雅に模倣してみせた。
カナエは、自分の指先が震えていることに気づく。
その指の動きさえも、ガラスの向こうのチトセが「先に」予言していたかのように動く。
「今日の診察は、これで終わりです。……チトセさん」
チトセが、カナエに向かい、そう告げた。
「…………」
カナエは言葉を失い、自分がどちらの名前で呼ばれるべきなのか、一瞬の空白に突き落とされた。
真っ白な部屋に、二人の重なった吐息だけが、ガラスを白く曇らせていた。




