椅子に座って出来ること
蝋のように白い肌が、薄暗い広間にぼんやりと浮かび上がる。
黒い髪を撫で付けながら、魔王は可笑しそうに赤い唇を舐めていた。
「なぜ、私が負けると? そもそも、私がイグナシアと戦う必要があるのか?」
人によっては不敬だと怒りを買いそうなものだけど、魔王自身は俺の言葉と態度を気にも留めない。
むしろ、ギルフォードの狼狽が、俺にとっては意外だった。
「お、おい……。あれは魔王ノスフェリウスだろ? 田舎の爺婆じゃねぇんだから手を合わせろなんて言わねぇが……、そんな軽口を聞いてると消されちまうぞ?」
失った右腕の傷口を隠そうとしているのは、ギルフォードなりの敬意なのかもしれない。
多くの魔族にとってみれば、目の前の魔王こそが信仰の対象で、祈る為に手を合わせるものなんだ。
しかし、当の魔王にとってはどうでも良いらしく。
魔法で二脚の椅子とワイングラスを出現させると、優雅に赤ワインを愉しみ始めた。
これは暇つぶしなのか、それとも交渉のテーブルに座らせてもらえたのか。
緊張で喉が鳴りそうになるのを、赤ワインで誤魔化した。
捲し立てないように、落ち着いて、一呼吸おいてから言葉を紡ぐ。
「工業都市ファルジア、芸術都市ソリシア、学術都市ノルディア、そして農業都市グラディア。いずれも教会に襲撃を受けている。これは教会が本気で魔族を滅ぼそうと動き出したってことなんじゃないか?」
甚大な被害を受けたのはソリシアとグラディアだが。
ファルジアは街のみんなで追い返したとレンゾーが言っていたし、ノルディアは俺が霊樹の力を授かりグスタフを倒した。
こんなことが偶然であっていいはずかない。
「報告は受けている。それが、なぜ私がイグナシアに負けるという仮説に結びつくのだ」
「魔王を推す魔族の数が減っているはずだ。そして、イグナシアを信仰する人間は増えているかもしれない。もしかしたら、魔族の中にも……」
血のように赤いワインが、芳醇な香りを口に広げる。
実際の血は、こんなうっとりするものじゃない。
ソリシアとグラディアの光景が、脳裏に焼き付いていた。
ギルフォードとの戦いで出来た口内の傷から、鉄の味のする血液が滲み出す。
「正確には『魔王もイグナシアも信じない魔族が増えている』だな。俺みてぇな金しか信じないやつらなんて、探せばごまんといるぜぇ」
酒の美味さに緊張がほぐれたのか、ギルフォードも普段の調子で舌を巻き始める。
その不遜な態度に、魔王は口角を上げながらワイングラスを傾けていた。
薄いグラス越しに、俺の左目を見つめるように続きを促す。
「私が弱っているというのは事実だ。教会の横暴に苦しむ魔族が増えるほど、私への信頼が薄れていくのを感じている」
しかし、その言葉に哀しみの色は混じらない。
グラスの内側を伝うワインの滴に、憂いを込めた視線を寄せていた。
力を得た今だからこそわかる。弱くなったと自嘲する魔王の魔力が、いまだとてつもなく巨大なものなんだと。
だからこそ、俺の仮説に真実味が増してきた……。
ギルフォードには悪かったが、ここにいるのが三人だけで良かった。
カタリナさんはどこかで聞いているかもしれないが。
「わざとなんだろ? 自分の力が弱くなっていくのも、教会が暴走していくのを見過ごしているのも」
赤い唇についたワインを怪しく舌で舐めとる仕草は、俺の言葉を楽しみに待つ。
全てが魔王の掌の上……とまでは言わないが、これだけの力を持つ存在がただ弱っていく訳がない。
これは、壮大な魔王の破滅願望の現れなんだ。
「思えばあの時、俺が魔王になるって啖呵を切ったのを面白がっていた。はじめは弱い人間が吠えたを面白がっているんだと思っていた……」
ファルジアでは教会による魔石狩りが行われ、ソリシアでは有翼族の虐殺が。
ノルディアでの霊樹の蜜を巡る戦闘、そしてグラディアの陥落を。
黙って見ていた理由を考えていた。
しかし、成り行きを見届けるだけで、救いの手は差し伸べられない。
「別に魔王の肩を担ぐつもりはねぇが……。そんなもんじゃねぇのか? 俺は魔王だの精霊だのに頼ったり願ったりしたことはねぇぞ」
この世に救いなんてものはないんだ、とギルフォードは魔族の王を前にして大袈裟に天を仰ぐ。
弱者は苦しみ、飢えていき、憎しみ合いながら強者に食われるだけ。
自分を奪う側だと宣っている彼が、三人しかいないここで言うと、自虐的な質感が声に混じっている。
「私が自分を慕う魔族を見捨てて、何か得があるとでも?」
「降りたいんだろ? その玉座から。ノスフェリウス、あんたは弱くなって魔王をやめたいんだ」
その為に教会と裏で手を組む……ことはないかもしれないが。
教会や冒険者達が打倒魔王と躍起になっているのを黙ってみているのが不思議だった。
初めて魔王と出会ったあの夜、強大な力を得てしまった孤独の王が見せた寂しげな顔を、俺はまだ忘れていない。
世界がひっくり返るようなニュースを間近で聞き、ギルフォードは金の匂いに当てられていた。
二又に割れた舌先を節操なく跳ねさせるが、この場を掻き乱すほど野暮ではないらしい。
魔王がグラスを空にするまでの時間、窓を打つ風だけが沈黙を揺らしていた。
「もし、そうだったとしたら……」
魔王の濡れた唇が、ぬるりと動き出す。
長い爪で、俺の左目を貫くように。
まるで値踏みするかのように。
「お前に何が出来るんだ、ネモ。お前の魂の価値を示して見せろ」
俺は酒に酔ったことがない。
だから、この鼓動と息苦しさはワインのせいではないはずだ。
思わず瞬きをすることを忘れてしまう。
目の前に、魔王ノスフェリウスが鎮座していた。




