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あとから思い出すことができる

作者: 若田

大雨。街の人々は皆傘をさしていて、もちろん私も例外ではない。私はアスファルトの香りが好きで、雨になると行き先も決めずに家を出るのだ。黒いコート、黒い傘。街中では、これほど特異な格好をしててもあまり気にされない。なにも考えずに足だけを動かしていると、交差点に差し掛かった。ちょうど信号が青になった瞬間だったのか、まだ車がくる気配はない。私も交差点を通ろうと足を進める。人々の傘に無数の雨粒が当たる音が聞こえる。ちょうど交差点の中心に到達した頃だろうか、人の荒波にのまれる準備はできていたにも関わらず、人々は丸くくり抜かれたように中心を避けていた。なぜだろう?そう思うまでもなく、理由はわかった。交差点の中心には、傘もささずに突っ立っている人がいた。人々はこの人を避けていたのだ。今にも人生を終わらせようとしていそうなその人は真っすぐ私の方を向いていて、どことなく厭味な笑みを浮かべていた。いつの間にか雨の音は聞こえなくなっており、代わりに信号がかごめかごめを奏でる音だけが聞こえていた。私は蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまい動くことができなかったが、気づいた頃にはすでにその人へ声をかけていた。

 なんと言ったかは覚えていない。ただ交差点から連れ出して、ちょうどよく見えたベンチに座ったのだった。私だけ。なにを言っても、その人は頑なに立っている状態を崩さなかった。その人はベンチのすぐ左側に立って、大雨にあたりながら小さめの鞄一つを持っていた。私はベンチに座ったまま傘をさして、その人との会話を楽しんだ。

 その人は随分わかりづらい喋り方をしていた。紳士的なようにも聞こえるが、どこか確信めいた響きがある。私はその人に名前を聞いたが、笑ってはぐらかされた。ほぼすべての質問に答えてくれなかった。わかったのは、その人は白い髪色をしていて、それがストレスによるものだということだけだった。

 不意に、私のバッグの膨らみ方が気になると言った。私はスケッチが趣味なので、いつもスケッチブックを鞄に入れていたことを思い出した。取り出して見せると、その人は自分を描いてみてほしいと言った。ただ、あまりはっきりとは描いてほしくないとも言った。難しい注文だったが、すぐに頭に完成図を思い浮かべた。まだ近くに見える交差点をメインにして、左側に小さくその人を描こうと決めた。マッキーペンのキャップを外して、ちゃっかり簡易的な自分も描いておく。私は全身黒いので、描くのが楽だった。その時点で交差点は右半分を描き終えていて、その人を描く前に少し様子を確認しようと顔を上げた。

 その人はもういなかった。跡もなにも残っておらず、まるで最初からいなかったように消えていた。さっきまで楽しそうにスケッチブックをのぞき込んでいたのに、完成図を見たくなかったのか?少し寂しくなって、とりあえず完成させようと紙に向き直った。しかしどうだろう、あとは左側にあの人を描くだけだというのに、腕が動かない。姿形もはっきり思い出せる。あの厭味ったらしい笑みを忘れるはずがない。だが、いくら待っても腕を動かす気にすらならなくて、結局スケッチブックを閉じた。

 ベンチから立ち上がって、真っすぐ家に向かって歩いた。早足で交差点を抜け、少しだけひどくなった大雨が傘にあたるのを感じる。当然、まだ歩こうという気にはならなかった。

 家に着くと、早足だったせいか少し息が切れている。夢でも見たような気分だ。傘をさしていたはずだが、びっしょりと濡れているコートを脱ぐ。一息ついた頃、思い出したように鞄を漁る。雨に濡れたスケッチブックを取り出して、最後のページを開く。黒いマッキーで雑に描かれた私と、誰もいない交差点が描かれている。なんとなくそのページを破り取って、窓際に飾った。今となっては、あの人が居た証拠はこれしかない。

あの人は人生を終わらせるために、交差点で突っ立っていたのかもしれない。ストレスで髪が真っ白になるくらいなら、それも説明がつく。そんなあの人はスケッチが趣味だという私の話を聞いて安心した。死後もスケッチに遺るんだと。でもあの人は描かれるところを見届けず、すぐに行ってしまった。そして、自分が思うよりあの人に感情移入してしまった私はいなくなった寂しさで描くことができなかった。ああ、なんてことをしたんだろう。こんなことなら、あの時無理矢理にでも腕を動かしておくべきだった。

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