黒竜江での事件
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黒竜江での事件
「これ以上は不味いかな。」
満州と、ソ連の国境、黒竜江…ソ連名アムール川の水面は朝日を受け、
黄金色の蛇のうねりと化していた。
九七式司令部偵察機は、この大河に沿うようにして北上を行っているところだった。
左手に広がるは、明るき浮き上がる小興安嶺の連なりだ。
「構わないでしょう、相手の勢力を知ることが大切です。」
「まあ、そうだな。」
そう言うと、黒竜江の国境を超えていく。
偵察機は日の丸では無く、満州国陸軍の印を輝かせながら高度を下げていった。
窓外に白い砂煙が見える。
黒竜江の北側……つまりソ連側である。
ソ連が満州との国境に大部隊を集結させていると言う報告が昨夜に入り、
夜明けと共に、偵察にやってきたのだった。
偵察機はどんどん高度を下げていく。
茶褐色色の山肌がどんどん接近してくる。
その時だった、豆粒のような戦車の連なりがちらりと視界に入った。
「……、千輌と言ったところか。」
戦車隊は五輌ごとに楔形の小隊を成し、四小隊一組の中隊が延々と広がっている。
「こりゃ、すごい。演習とはとても思えません。」
操縦員が感嘆の声を上げる。
「もっと、降りるか。」
にやりと笑みを浮かべながら、後部座席の隊長はとんでもない事を言ってのける。
「隊長、本気ですか。」
「いいから降りろ。」
操縦員はしぶしぶといった表情で、高度を下げていく。
高度は七百メートル。
ほとんど戦車部隊の上空を掠めるような形になる。
戦車隊の数台が砲身を上空に向ける。
「ね、狙われてますよ。」
「心配するな、戦車の主砲など、早々当たらん。」
それでも、偵察機は高度を上げる。
「まあ、もういいだろう撤退するぞ。」
隊長がそう言った時だった。
機体に衝撃が走る。
「敵機です。」
雲の切れ間からソ連軍の戦闘機が偵察機に銃撃を仕掛けてきたのだ。
残念ながら旧式の九七式には電探が装備されていなかった。
攻撃を受けた機銃員が安全装置のストッパーを外す。
「止めろ、俺達は国境を超えているんだ、戻るまでは撃つな。」
偵察機は国竜江へと戻ろうとする。
戦闘機はそんな偵察機の後方に回り込み、再び機銃を発射する。
衝撃と共に、風防が割れる。奇跡的に搭乗員三人は無事だ。
「国境、超えました。」
操縦員が叫ぶ。
対岸からは同じ満州国陸軍の戦闘機、疾風三機が上空を旋回している。
ソ連戦闘機は旋回しながら退き返していく。
「助かったな。」
隊長は再びにやりと笑みを浮かべた。
九七式は疾風に挟まれるように、飛行基地へと帰投していく。
満州国からの報告を受け、重光外務大臣は直ちにソ連大使、ナボコフを呼び、抗議した。
「平時にも関わらず、他国の偵察機を銃撃するとは何事ですか。」
「申し訳ないですが、なぜそれを日本が言われるのでしょう、
偵察機は満州国のものと聞きました、これはソ連と満州の問題では。」
「満州の抗議を無視しているからです、同じ大東亜共栄圏の国家として、
見過ごせないものがあります。」
「それはまあいいとして、あの偵察機は国境を侵犯していたのです。
それも我が国の春の大演習の真上をね。
それを銃撃したのを非難されるのは理解に苦しみます。」
ナボコフは重光の言葉をさらりと流すと、眼鏡を外した。
「春の演習とは初耳ですね、
雪解けの関係で春先には演習はあまり行わないと聞きましたが」
重光もまた、ナボコフの言葉をさらりと流す。
「我が国は独逸との戦争で部隊が疲弊しているのです。
演習を夏や秋に先延ばしする猶予がなかったもので。」
「それならどうして満州、ソ連の国境近くで行うのです、おかしくはありませんか。
これは満州国に対する敵対行為として考えても不思議では無いのでは。」
「めっそうもありません、ですが、演習を止めるわけにはいきません。
期間はたったの十日です、どうかその間は我慢していただきたい。」
「…了解しました。」
「外務大臣。」
外務次官が顔を赤く染めながら向きになって言った。
「それでは、我々が突き上げを…。」
「死傷者がでなかったのが幸いでした。
どうか、日ソ親善のため、大使もご協力ください。」
「これはご丁寧な言葉を。
ただちにクレムリンに連絡させていただきます、それでは。」
ナボコフ大使は一礼すると、退室して行った。
「大臣、よろしいのですか、あまりにも低姿勢すぎるのでは。」
次官は不満げな声を漏らす。
「脅しは軍隊、事を丸く収めるのがうちの役目だよ。
これが、上手くいかなかったから、前は戦争になった。」
重光は太平洋戦争のことを言っているのだろう、次官は口をつぐむ。
「それに、外交官はむやみに感情を他国の外交官に見せるものではないよ。
気を付けたまえ、君がトップになるのも遠い話ではないのだから。」
「申し訳ありませんでした。」
次官は頭を下げる。
「ですが、果たしてどこまでソ連は本気なのでしょうか。」
「ナボコフの言った事には真実も含まれているよ。
独逸軍との戦争でソ連は疲弊しきっている。
とてもではないが、極東に戦端を開く余裕はないはずだ。」
「ならば、なぜソ連はこんなことを…。」
「…米国に押し切られたのかもな。」
「えっ。」
「失言だ、忘れてくれ。」
そう言うと、重光は瞑目した。
「大使、これでソ連は約束を守りました。
借款の件はくれぐれも内密かつ迅速にお願いします。」
国境でのひと騒ぎから三日後。
モスクワの外務省で、外務大臣のグレイデンと駐ソ、米大使が会談を行っていた。
「ご心配なく、大統領はかならず約束を守ります。
大東亜共栄圏は我が国にも貴国にも悪影響を及ぼすでしょう。
災いの芽は早めに摘み取っておかなくてはなりません。」
「と、いうことは本当にやられるのですか。」
「ええ。」
米大使は軽い返事をすると口をつぐむ。
ソ連に機密を漏らしても利益などなにもない。
「大使、もう少し腹を割ってくれねば、我が国も手助けが難しくなります。」
笑みを浮かべながらそう言うグレイデンを見ながら、
米大使は内心で舌打ちした。
コミュニズム国家などの手助けなど、本来は借りたくないのだから。
「そうですね、では此処だけの話ですが、もう艦隊はアリューシャンを超えています。」
「おお、というとキスカ、アッツ辺りでしょうか。」
「そうなりますね。」
今度こそ米大使は完全に口をつぐむ。
これ以上の情報は喋れないし、米大使自身も把握していないのだ。
グレイデンは立ち上がると口を開く。
「よろしい、大統領にソ連からの心よりのお礼を伝えてください。」
「承知いたしました。」
そう言って去っていく米大使を横目で見ながら、
グレイデンはちらりと視線を奥の部屋に向けた。
「同志大元帥閣下。」
そこに現れたのはヒグマのようながっしりした身体つきのソ連共産党書記長、
スターリンだった。
「話は聞いていた。だが、我々は極東での戦線には参加はしない。
あくまで、日本の注意を北に逸らすのを手伝うだけだ。
ところで、米艦隊の空母数はいくつだ。」
スターリンは手を顎の下で組みながらゆっくりと椅子に座り込んだ。
「我が潜水部隊の報告ですと、十隻、いずれもエセックス級と呼ばれる空母だそうです。」
「ふん、米国の工業力にはさすがに圧倒されるな。
あれだけの負け戦をしておいて、すでにそれだけの空母を就役させているとはな。」
「はあ、しかし、北に注意を逸らすとは一体……。」
「北の艦隊は囮だよ。少し考えれば分かる事だ。
もし北が主体なら我々の軍の援助を求めるさ、樺太を狙おうが、北海道を狙おうがな。」
「確かにその通りです、閣下の神眼には驚かされます。」
グレイデンは追従しながら頷く。
独裁者の言葉は絶対なのだ。
「ふ、おそらくは主体は南になるだろう。
まあ、米国と日本には長く戦を続けてもらっておけばいい。
覇権を握るのはソ連となる運命なのだからな。」
そう言うと、スターリンはパイプを吹かせながら豪快に嗤った。
まだ、しばらく戦闘には至りません。
のんびりお待ちください。