拍手を最後まで続けていた彼女。
短編です。よろしくお願いいたします。
追記 訳あって再投稿しました。
パチパチパチパチ。
その音は、体育館にやけに響いていた。
音の主が僕の目の前で手を叩く。
一人で、ただ。
誰の手が止んでも、最後まで手を叩いていた。
その後ろ姿を、僕は―――。
◇
青春なんて言葉を、僕はきっと一生かかっても理解できないだろう。
顔も見た事があい同世代のインタビューがテレビではながれていて、名前も知らない同級生の応援をみんなでしている。どこの誰かも分からない表彰式を、三角座りで眺めている。
学校なんて、そんなものだ。僕はどこにでもいる普通の学生でしかないんだ。
運動はてんで駄目、勉強もそこそこ。ユーモアなんて、そもそも求められる立場にない。
クラスの片隅でもない。大して記憶にも残らない席に座って、特に会話もなく黒板を眺めている。
記憶の中に、思い出の中に、青春なんて単語はどこにもなかった。
僕の人生という辞書に、青春という単語を載せ忘れたみたいに。
それが『僕』だ。柚原薫という人間だ。
自意識過剰のどこにでもいるような思春期男子が僕だ。
少し前、それこそ高校生になる頃は妄想もしたさ。
友達ができて、彼女ができて、部活に入って、放課後はだべったり。そんなありきたりなようで、どこにも存在しないような日常を過ごすものだと想像もしたさ。
でも、もうとっくに理解している。僕はそっち側じゃなかった。
世界には巡り合わせの上限があって、僕はそっち側じゃなかったってだけだ。
だから、二年生に進級した今も、僕はこんな風に高校生活が終わるんだと。そう、思っていた。
春休みが明けて、新しい学年が始まる。僕の家は学校から離れているから、電車を乗り換えて、学校の最寄りの駅まで登校する。
そんな新学年登校初日だというのに、気分は普段と変わらず。内心、もう少し家でだらだらしていたかったな、なんて上の空でいながら新しいクラス分けを見る。
見れば、去年クラスが同じだった人が何人か居るけど残念ながら話したことすらない人だった。ま、話したことがある人の方が少ないんだけどさ。
僕のクラスは2-3。僕達の学年は全部で一〇クラスあり、一〇は特進クラスに与えられた数字だ。なので2-10は特進クラスということ。つまり僕は普通科だ。
学園が上がり、教室が三階になったので前よりも長い階段を上る。上階にも実習教室やら図書室やらがあるので四階に行ったことがないこともないけど何となく長い気もする。
教室に到着すると、既に結構な人数が集合していた。
この学校の生徒数は県内だと多い方なので、同じ学年でも見た事がない人ばかりだった。
張り出された席順に従って、僕はこれから暫くお世話になる椅子に座る。
席替えが行われるまではこの席だ。というか席替えはするのかな。しない先生も居るらしい。
しないならしないで、窓側の席は個人的に当たりだからそれでもいい。
因みに僕の席は教室窓側。
廊下側から出席番号が若く、窓側程出席番号が大きい。
柚原は『ゆ』だから結構後ろ、三七番だ。
小学校から僕の出席番号は後ろから数えた方が早い。
流石に渡辺には負けるだろうけど。
机の横に、鞄を置いてぼんやり黒板を眺める。
耳に自然と流れ込んでくるクラスメイトの会話。
やれ「また一緒になれて嬉しい」とか「離れて悲しいね」とか、そんな他愛もない会話だ。
去年はまだみんな初めましての状態だったから、この会話は少し新鮮だ。中学校、小学校はクラス替えを行ってもそれ程生徒数が多くない学校だったこともあって新鮮味がなかったから余計にそう感じるのかもしれない。
既に男子集団と女子集団が生まれかけている所を見ると、去年の頃から部活動や委員会を通して一定の関係性は築いていたのかもしれない。
僕の場合はというと、部活には所属していないし、委員会もそれ程委員同士で関りがある所じゃなかっただけに一年で築けた関係性は皆無だ。
別に強がっているとかではなく、辛くもなんともない。
そういうものだと分かっているし、クラスでこの立場なのが僕一人と決まった訳でもない。
だいたいこういう集団の中で一人暮らししているような奴はクラスに一人か二人居るものだ。そう不安になる必要性もない。
ただ、少し。このクラスでまた一年過ごすと思うと、少しだけ退屈ではあった。
(あ、前の席の人……)
遅れて入ってきた、前席の女子生徒が席に座る。
顔は見えていない。教室の前の扉から入ってきてそのまま着席したから。
というか、そこまで注目していなかった。
ただ、長い髪が印象的だった。
「おうい、オリエンテーションの時間だぞ。皆席に着けー」
そうしてぼんやり過ごすこと数分、担任が教室に入ってきてオリエンテーションが始まった。
◇
オリエンテーションは本当に簡単に終わった。本番はまたこの後だ。
新担任の自己紹介が終わると、始業式の為に体育館へと移動。
自己紹介はその後にやって、今日は解散という流れのようだ。
ぞろぞろと出席番号順に並んで体育間に向かう。
前の人間は変わらず、前席の女子。
見た所、背の高さは平均位だろうか。そこまで高くもなく、低くもない。
僕の身長が平均の少しだけ下なので、それ程大きな差も無いように感じる。
ただ相変わらず、その長い髪で顔が見えない。
いや、長い髪は関係ないか。僕が横に回らないから顔を見ていないのだ。
顔をじろじろと見るのも変な話だろうし、わざわざする程でもない。
なんて、少しだけこの女子のことを考えてもみたけれど。
僕は理解している。こんなのはただ席が前だっただけ。
期待なんてはなからこれっぽちもしていないさ。
ただ前後左右の席というのは非常に大事だ。
ともすれば授業中の快適さに大きく関わるのだから。
などと考えている内に体育館に到着して僕達は床に座っていた。
始業式といってももう何度も経験したことがある。
昨日入学式を終えたばかりの一年生も参加している。
うちの学校は一年生の人数も多いので、父母が見にくる入学式では全生徒が体育館に座るのは厳しい。なので一年生のみ一日早く入学式を執り行う。
入学式のような大きな式とは違って、始業式は簡素なものだ。
椅子はないし、飾りつけもない。
教師達も棒立ちだし、基本的に始業式なんて大した意味がないからだろう。
「え、だからですね。皆さんにはこれからの青春を~」
退屈な校長先生の話。僕は嫌いじゃない。
長く話すのって結構難しい。文章も然り、長いのは僕は嫌いじゃない。
好きでもないけれど。
内容としては、まあ無難なものだったと思う。
新学期の生活がどうとか、一年生のこれからの生活についてだとか。
後は三年生に向けて、進路のことについても言及。
二年生については……まあこれも当たり障りのないものだった。
失礼だけど、聞いた所で今後の人生に何も関係しない。
多分明日になれば忘れているような話だった。
人の騒めきと校長の言葉をBGMにして、僕はまたぶんやりと物思いに耽る。
これから、毎日こんな風に過ごしていくのだろう。
青春なんて言葉、僕には無縁のものだ。
この人で少し蒸し暑い体育館も、小さな窓越しに差し込む春の陽光も。
桜が舞い落ちた校庭も、いつかはかならず過去になる。
そこに、青春の二文字があるのかもしれない。
かもしれない、が。
僕には、到底あるとは思えない。
大人になったら気が付くよ、とか。
今は分からないだけだよ、とか。
そんな言葉は、すぐに言えるだろう。言えてしまうだろう。
でも、僕は今……それを感じていない。
僕は思う。自意識過剰だけど、僕は思ってしまう。
そんな気休めは、きっと当時に何かを思っていたからこそ言えるのだ。
幾ら美しい絹でも、糸が無ければ紡げないように。
きっと言葉ですらもそうなのだ。
今という現状に何も無ければ、きっと、未来に感傷もない。
でもそれでいいじゃないか。
何を感じる必要があるというんだ。
後悔も、喜びも、怒りも、楽しさも。
無いからと言って、何が変わるんだ?
今この場で感じる全ては、未来で単なる記憶になる。
今この場で思う全ては、未来で大抵忘れ去る。
なら先の未来に、今という思い出の居場所は、意味は何処にあるんだ?
いつか失われるものを、今手に入れて何になるというんだ?
―――パチパチパチ。
はっと気が付けば、いつの間にか校長の話は終わっていた。
慌てて僕も集団に混じる為に拍手をする。
パチパチパチ、と。目立たないように、手を叩く。
次第に小さくなっていく拍手の音。
やっと長かった始業式も終わる。
拍手が止めば、教室に戻ってオリエンテーションの続きだ。
しかし―――。
パチパチパチパチ。
いつまで経っても拍手は止まない。
もう他の誰も拍手なんてしていないのに。
全員が拍手を止めたことで、一際目立つ拍手音。
その音の発生源は、一目見て分かった。
目の前の少女の、両手が動いている。
外から中へ、中から外へ肘がぶれる。
長い髪も合わせて揺れる。
その動きは、明らかに拍手の時のそれだった。
どうして、なんで?
なんで一人で?
もう皆、拍手を止めているのに?
一瞬で靄がかっていた思考が冴える。
時間にしては、一分程だったと思う。
短いかもしれない。一分なんて、すぐかもしれない。
だが、体育館に響く孤独な拍手音は。
ともすると校長の話よりも―――ずっと長く。
僕には、そう感じられたのだ。
◇
「あのさ!」
一分程続いた少女の独壇場が終わり、始業式が終わる。
お手洗い等の為の十五分を与えられ、僕達は元の教室に戻る。
多くの生徒が順繰りに退場し、集団と共に教室へと戻っていく。
でも僕の姿はその塊には無かった。
いや、僕だけじゃない。
彼女の姿も、そこには無かった。
体育館からの退場、皆が元来た道を戻っていく中で、彼女は一人外階段の方へと向かった。
その彼女の背を、長い後ろ髪を追って僕は走っていた。
外階段からでも、僕達の教室には辿り着ける。
ただ遠回りになるし、元来た道で帰った方が良いのに。
自分でそんな言い訳にもなっていない言い訳を自分にして、彼女を追った。
続く声が、中々でなかった。
目の前で校庭を見下ろしている彼女に、なんと言えば良いのか分からなかった。
問いただしかった。あの行動の理由を、訳を、その所以を、知りたかった。
何故だろう。その疑問は、多分自分に対しても行われていた。
これまで、誰かの拍手にこんなに引っかかったことは無かった。
今までもきっとあっただろう。誰かが最後まで残って拍手していた筈だ。
これまで記憶にも残らななかったその拍手が何故、こんなにも焼き付いて離れない?
「何?」
「―――っ」
彼女は振り返ることもせずに、返事をした。
その声は想像よりも、低いものだった。
男子程低くもない、けれど心地の良い低音。
「さ、さっきのことが、聞きたくて」
「さっきのこと?私何かしたっけ?そもそも……」
「貴方、誰?」
そこで、彼女は初めてこちらを振り返る。
長い髪が、春の風に梳かれる。
顔にかかった髪の毛を鬱陶しそうにしながら、此方を視る。
その目つきは、とても鋭い。
まるで、鋭利な松の葉のように。
細い、天然の鋭さがあった。
「僕は、同じクラスの柚原。それで……」
「ヤガミ」
「え?」
僕の声を遮るように、彼女は言葉を発する。
「私の苗字だよ。八つの神様で、八神。君の苗字は柑橘の柚に原宿の原で合ってる?」
「あ、合ってる」
的外れにも思える会話。
最初に質問をしたのは僕の方なのに、いつの間にか彼女の……八神のペースだ。
「下の名前は?」
「いや、それよりも聞きたいことが!」
「私はナギサ。風が凪ぐに花が咲くで凪咲。それで、貴方の名前は?」
「名前は、さっき言っただろ」
「さっきのは苗字、姓名の姓だけだよ。名じゃない。それで、名前は?」
有無を言わさない圧に、僕は負ける。
「……薫」
「どう書くの?」
「普通に、薫だよ」
「違うよ。例えば香水の香もあるし、薫風の薫もある。二文字で書く場合もあるよ。ほら、全く違う」
「……薫風の薫」
薫風なんて、知らない人間も多いのではないだろうか。
こういう例えって、分かりやすい単語でするものでは。
でも確かに薫風以外では中々思いつかないか。
「そっか、惜しいけど。面白いかも」
「……それは、どうして」
「薫には良い匂いがするっていう意味があるから。柚にぴったりだと思って。良い名前だね薫」
「そんなこと……」
そんなこと、そんなこと初めて言われた。
自分の両親にも、言われたことがないような言葉。
初めて、自分の名前を褒められた。良い名前だと。
いや、褒められたと言っていいのか?これは。
でも、不思議と悪くない気分だった。
不思議と、心地の良い気分だった。
いや、けどそんな場合じゃない。
休憩は十五分。あんまり遅くに合流しても悪目立ちしてしまう。
「そ、そんなことより。八神さんに、聞きたい事があるんだけど」
「八神でいいよ柚原。何?」
呼び捨て、かよ。まあ良いけど、同級生だし……。
「……さっきの始業式。なんで最後まで拍手を続けてたんだよ」
「拍手?」
「校長の話の後、八神……さん一人だけで一分くらい拍手し続けてただろ。他の皆はもうとっくに拍手を止めているのに一人だけで」
八神は「八神で良いって言ったのに」なんて小さく呟いて、ううんと唸る。
まさか、覚えていないのか?
あれだけ注目を集めていたのに。いや、僕だけだったかもしれないけどさ。
でも、絶対に何人かは彼女の方を向いて、見ていた筈だ。
だってあの音はあの場でそれだけ異質だった。
思わず、振り向いてしまう程には。きっと。
「覚えていないのか?」
気になって、僕は待ちきれずに問いただす。
それに対して八神は表情一つ変えず、うん、と言った。
「ついさっきのことだぞ、本当に何も覚えていないのか?」
「いや、拍手したことは覚えているよ。でも、『なんで』と聞かれると難しいな」
「それこそなんでだよ。拍手を続けた理由を言ってくれればそれで良いんだ」
「質問に質問で返して申し訳ないんだけどさ、柚原はそれを聞いてどうしたいの?」
どう、って……。
そうだ。確かに僕はそれを聞いてどうしたいんだ。
次の行事で最後まで拍手を続ける為に聞くのか?
そんなことがある訳が無い。そんな事は、僕はしない。
なら、どうして?
彼女の行動の理由を聞いて、知ったとして、僕はそれをどうするんだ。
分からない。でも、僕は今ここに来てしまっている。
「納得、したいんだと思う。多分……それだけだ」
「納得……か。そっか分かったよ」
答えになっていないとは思う。
彼女の行動は、決して責められるべきものではない。
一分程度拍手の時間が伸びたって、何も影響はない。
それを言うなら校長の話の方が随分と悪行だろう。
彼女は学校という社会の規則を破った訳でも無ければ、他者に害を与えた訳でも無い。
強いて言うなら始業式をとにかく早く終わりたかった人間にとっては、一分の損害を与えているかもしれないが。あの場の大多数は話なんて聞いちゃいない。
だから、この納得というものは余りにも傲慢な考え方なのだろう。
自分の為に、自分がそうしたいが為に、毒にも薬にもならない理由を求めているのだ。
でも、彼女は……確かに笑った。
「ごめんね柚原。理由は特に無いんだ。強いて言えば、『このままどこまで続けられるんだろう』なんてぼんやり考えてただけなんだ」
「このまま、どこまで……?」
「変かな。皆が拍手をしているけれど、でも拍手の時間って決まっていないでしょ。だから、皆が考える拍手の時間がどこまであるんだろうってね。本当に思いつきなんだ。ただの思いつきなんだ」
―――今話している理由も、今思いついたしね。
なんて。八神は笑う。
「だからそうだね。何故って言われたら、それだけなんだ。どう、納得はできた?」
「……つまり、理由は無いってことで良いのか」
「だから難しいんだ。この思いつきは、理由でいいのかな?君が納得するに足る、理由かな」
それは、僕にとっても難しい言葉だった。
僕は確かに理由を求めた。何故拍手を最後まで続けたのか、その理由を。
高尚な理由があるのだろう、なんてことを最初から考えてはいない。
寧ろ、逆だったと思う。
意味の無い行動に、意味を与える……そんな無意味な理由を求めていたのだ。
拍手を続けるなんて、無意味な行動だ。
それをしたとして、未来で何が変わるんだ。
きっと何も変わらない。
それはきっと、今笑っていることや、悲しむことと同じ。
未来では単なる記憶に埋もれてしまう、石ころに過ぎない。
だから、僕は無意識に求めていたのだ。
彼女の無意味に、意味を求めていたのだ。
「―――ああ。十分だ」
僕は笑った。久しくしていない、自然に漏れ出た笑みだった。
漫画を読んで笑うこともあった。小説を読んで、ゲームをして笑うこともあった。
テレビのくだらないバラエティー番組を見て、面白い話題をSNSで知って。
そうやって、笑わされたことは何度もあった。
それはきっと、無意味な行動だ。無意味な感情だ。
失う今が無ければ、未来で失うものが無いように。
僕はきっと、失うことを避けていた。失わないように、生きていた。
でも、僕は笑った。
いつか失う今を、今更ながら楽しんだ。
納得は多分できた。
全てにできた訳じゃ無い。今は思いつかなくとも、きっとそれは生じる。
でも、少なくとも一つだけは。
「そっか。それは良かったね。納得は大事だから」
「ありがとう八神。僕の方も、用はそれだけなんだ」
「感謝されるようなことはしていないよ。こっちの方こそ柚原を惑わせたみたいでごめんね」
「いや、感謝するのは僕の方だ。なんだか、納得できたから」
そっか、と。八神は優しく笑う。
「そろそろ教室に戻ろうか。ここからだと、早歩きで行かないと怪しいと思うし」
「そうだね。早く戻らないと、悪目立ちしそうだ」
「それを八神が言うのか……」
悪目立ちはさっき十分にしていた。しかも今教室に居ないことでそれは現在進行形だ。
きっと教室内では八神の話をしているだろう。
なんせ一分も独壇場を決めた注目選手なんだから。
なんて考えながら階段を上ろうとすると、ふふと笑い声が聞こえた。
「八神になってる。もしかして柚原って内心では人を呼び捨てにしているタイプ?」
「……嫌ならさん付けで呼ぶよ」
「良いよ。そもそもこっちから良いって言ったんだからね。取り消すのも変な話だから」
図星だけど、まあ、確かにそれもそうだ。
最初に呼び捨てで呼んだのは向こうだし、許可を出したのも向こうなんだから。
階段を上って、三階へ。今上っている階段があるのはもう一つの校舎の方で、教室がある方の校舎に行く為には渡り廊下を渡る必要がある。
そして、三階の中へと続く扉のノブに手をかけた所でふと振り返る。
目の前の足場、というのか踊り場ではまた校庭を眺めている八神の姿があった。
「ん、どうしたの。ノブ、回さないの」
「いや、少し……気になって」
「気になったって何がさ」
「それは、そのだな……」
まさか、君を見ていたなんて言えない。
必死に理由を探す。彼女がさっきそう言ったように、適当に考える。
「そう、さっき僕の名前を聞いて『惜しい』って言っただろ。あれは何でなんだ?」
「ああ。そんなことが気になっていたのか」
再び風で顔にかかった髪を手でどかしながら、八神は答えてくれる。
「歴史は好き?」
「まぁ、そこそこ。嫌いではないと思うけど」
最近では色んなものの題材に選ばれていたりもするし、それ関連だ。
なので正確には歴史分野がそのまま好きという訳ではない。
どちらかというと、物語的な立場のそれが好きなだけだろう。
「じゃあ当然紫式部は知ってるよね」
「『源氏物語』のか?そりゃまあ。でも悪いけど読んだことは無いぞ。授業で一部だけならあるけど」
「大丈夫だよ。彼女のことを知っていれば。私だって全文を読んだことはまだ無いしね」
源氏物語を高校生で読破している人間は少数派だろ。
まあ八神ならおかしくないと感じさせる何かがあるけど。
切れ長の目はどことなく文学少女みがある。
「その紫式部だけど、その名前は『香子』っていうらしいんだ。勿論諸説はあるけどね。それに漢字は君とは違って香水の方の香だけど」
「それが何で惜しいんだ?漢字違うんだろ。というか性別も違うし」
「それだけだと何も惜しくないよ。でも、清少納言は知ってるよね」
「まあ、読んだことはないけど」
ある程度義務教育を通ってきた人間はどちらも名前だけは知ってるだろう。
その例に漏れず、僕も名前だけは知っている方の人間だ。
「その清少納言の名前が、『諾子』というんだって。ほら似てるだろ」
香子と、なぎこ。
『かおる』子と『なぎ』子。
確かに、僕達の名前が一部入っている。
「でも柚原は男子だし、私には余計な文字がついている。惜しいでしょ?」
「俺は漢字も違うけどな」
「そうだね、それは私も違うよ。でも惜しいと思っただろ」
まあ、正直思った。
彼女にとっても、僕にとっても単純な違いの問題じゃないんだろう。
「……なんというか、初めて自分の名前を良いと思った気がするよ。惜しいけど」
「なら、もっと近づける方法があるよ」
踊り場の手すりに手をかけて、八神は言う。
その表情は、先程よりもなんだか楽しそうに見えた。
「苗字じゃなくて、互いに名前で呼べば良い。そうすればもっと二人と近づく。でしょ?」
「―――」
好奇心は猫を殺すという言葉はあったと思う。
僕は猫のように可愛くも利口でもない生き物だ。
青春なんて、口ずさんだこともないような生き物だった。
ただ紫式部と清少納言に近づける為に、ただそれだけの為に名前で呼ぶなんてのはきっと何の意味も無い行動なのだろう。
そうした所で僕は男だし、二人の漢字は違っている。
そもそも『なぎこ』ってどう書くんだよ。
でも、それでいいか。
「そうだな―――凪」
「ふふ。咲を抜くなんて、分かってるね薫」
僕達はお互いの顔を見つめ合った。
その時間は、一分にも満たない時間だったと思う。
でもとても長い、でもあっという間の一瞬だった。
そんな僕等を止めたのは、全く別の物。
―――キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴る。十五分はとっく経過していたらしい。
「拙い、予鈴だ。急ごう、薫!」
そう言って、彼女は僕の手を引いて校舎の中へ。
ああ、やっぱり恥ずかしい。
こんな、こんな青春らしいことなんて、やっぱり意味がない。
これをしたからって何になるというんだ。
こんなもの、きっと何にもならない。
でも今は、
「―――おう!」
この無意味を楽しんでいたい。
◇
それが、僕……柚原薫と八神凪咲の。
いや、カオルとナギの出会いだった。
END