クリスタルホテル脱出計画
ホテルから逃げる前に、スパでくつろいだり、誕生日会があったり、忙しいふたり
「なぜ、あの二人が」
ミセス・フロリナが苛立ちながらクリスタルホテルのスタッフルームを歩き回っている。
イレーネとハンスが氷の王宮で開催されるフィリップ殿下のお誕生日に招待されている、
あの見かけた封書は王宮の公式な書簡だ。
封筒には、シーリングワックスで封緘がしてある。あの紋章は氷の王宮のものだ。
すなわち、正式な招待だ。
あの二人、あの娘が王女だということはわかっていた、
でもそんな公式に王宮が招待するほどの王女だなんて。
そこまでの気配は感じなかったのに。
それにあの男、血筋の良さは伝わってくるけれどそれだけだ。
勇者としての才覚は何一つ持ち合わせていないじゃない。
ミセス・フロリナ、
自分はこの街の下町で生まれて育った。
いわゆる貧困層の出身だ。
当然、家は貧しくて弟も妹も幼い頃に病気で死んだ。
それでも、何もできない自分がいた。
それが悔しくて悲しくて、必死で勉強をして特待生としてセンターシティ一番の学校に入り、
その後、ここクリスタルホテルで働くことになった。
ここでもがむしゃらに努力をして、フロアマネージャーにまでなったのだ。
「私の子供たちには、自分のような思いはさせない」
そう心に誓っているミセス・フロリナ。
そのためにはなんとしても「上流階級」に昇り詰める必要があった。
氷の王宮とのコネクション、これはなんとしても欲しい。
「イレーネ、それからハンス、あなたたちを使わせてもわうわ」
ミセス・フロリナは心の中でそうつぶやいていた。
クリスタルホテル、32階にあるスパ、そこは心からくつろげる、素晴らしい空間だった。
整った設備、豪華な内装、そしてスタッフの気配りはホテル内でも際立っていた。
風呂を出て、リラックスゾーンに向かったイレーネ。
そこにはたくさんのソファやリクライニングチェアが並んでおり、風呂上がりの人々が好みの飲み物を持ってくつろいでいる。
そこに、ハンスがいた。
テーブル席に座っている。
風呂から出たらここで落ち合おうと示し合わせてたいたのだ。
ハンスも風呂上がりのようで、あかみがかって顔はつるんと輝いている。
しかし、その手にはビールの入ったジョッキが握られていた。
「打ち合わせするって言ったのになんで呑んでるの」
とイレーネ。
「いやあ、風呂から出ると、いきなりここのスタッフが持ってきてくれたんですよ、生ビール。
大丈夫ですよ、酔ったふりしているだけです。そうしないとお代わり持ってきちゃうでしょ」
とハンス。
それでも息は酒臭い。
鼻をつまみながらイレーネがハンスと同じテーブルに座った。
女性スタッフがにこやかな笑顔で、
「どうぞ」
と飲み物の入ったグラスをイレーネに手渡した。
それはやはり酒だった。
「あの、アルコールじゃないものをお願いします」
とイレーネ。
「かしこましました」
そう言うとそのスタッフは別のグラスを差し出した。
中身はフルーツジュースのようだ。
「ちゃんと言えばいいのに」
とイレーネ。
「いや、せっかく持って来てくれたものを」
ハンスが口ごもる
「ビール吞みたかったんでしょ」
イレーネの言葉に静かにうなずくハンス。
「あ、今日、ここから出て行けるとは思ってないからいいけどね。
今夜のその誕生日会には普通に参加しましょう。
ここの人たちがあの王の事を、どんな風に思っているのか知るチャンスだしね」
「ですよね」
ハンスはそう言うと、いつの間にやら2杯目のビールジョッキを手に持っていた。
その後、しばらくゆっくりと過ごした後、二人は部屋に戻った。
部屋に戻ると、すぐに荷物を確認するハンス。
それに加え、備え付けの家具の引き出しや、小さな隙間もくまなくチェックした。
「ここでの話は筒抜けかもしれない」
と口パクでイレーネに伝える。
そして、自分の手荷物から、2本の金属の棒を取り出し、それを両手で持って周囲をかざした。
「大丈夫ですね。盗聴はされていないから」
ハンスが声を出して言った。
いぶかし気な顔をするイレーネに、
「これはね、電波探査棒、部屋の中の異常な電波に反応するんですよ」
とハンス。
「そんなのがあるのね、魔法みたい」
とイレーネ。
「それから、ここをに抜け出す名案、思い付きましたよ。
でもまずは今夜のお誕生日会には何食わぬ顔をして参加しましょう。せっかくだから楽しまないと」
ハンス、このクリスタルホテルから逃げ出す方法を編み出したようだ。
その言葉に安心するイレーネ、そして
「やっぱり、この招待状もおかしい」
先ほどミセス・フロリナからもらったこのホテルでの誕生日会への招待状だ。
この招待状にも、
王の名前は
「フィリップ殿下」
とだけ記してあった。
本名もフルネームも記されてはいなかった。
「そう言えば、お父様のフルネームを教えてくれた時、何か言いかけたでしょ、
イレーネは、って。何を言おうとしていたの?」
とイレーネ。
「ああ、イレーネ、貴女は自分のフルネームを知っているのかと思って」
そう言うハンスに、
「それくらい知っているわよ。私の名前は
イレアルダ・アイリーン・グロリア・ファン・アデーレ よ。」
と胸を張るイレーネ。
「え、そうなんですか?
僕たちは イレアルダ・アイリーン・ファン・アデーレと教えられましたよ」
とハンスが言う。
「まあ、私なんかイレーネ・ファン・アデーレでいいんだけどね」
イレーネはそう言いながらふと思った。
「グロリア」
この名前は。
この名はイレーネの母、ソフィア妃のあの刺繍の手紙に綴られていた。
「生まれ来る我が子、グロリアと呼びたい、愛をこめて」と。
母ソフィアが私に付けてくれていた名前「グロリア」
それは公にされることのない名だったのだ。
それを何故、私に知らせたのだろう。
幼い頃、家庭教師から自分の正式名称を教えられた。
「イレアルダ・アイリーン・グロリア・ファン・アデーレこれが貴女の正式なお名前です。
イレーネ王女」
と。
その様子を見ていたソフィア妃の顔を思い出した。
少し微笑んでいた気がする。
その顔は、もしかしたら「母の顔」だったのかもしれない。
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