出発までのひととき
フーベル伯爵夫妻の配慮のお陰で、イレーネとハンスの冬の国行きの装備は完璧に整えられた。
外套、帽子、手袋にブーツ、それからマフラーも。
フーベル伯爵家御用達の衣装が係が出来る限るのスピードで仕上げた。
急いで作られた品々だったが、職人たちの腕は確かでどれも世界的にも一級品として通用するものだった。
「いよいよ明日、出発ね」
そう言いながらイレーネの寝室に入ってきたテレーズ。
フーベル伯爵邸の居心地の良い客室に泊まらせてもらっているイレーネ。
急な宿泊だったというのに、内装は若い娘にふさわしくアレンジしてあった。
これまた伯爵夫妻が用意してくれた、大きな旅行用カバンに荷物を詰め込んでいるイレーネ。
さりげなくその傍に行き、手伝うテレーズ。
まるで、娘の旅立ち前日の母娘のようだ。
「こんな素敵なお部屋をありがとう。とても居心地がよかったわ」
部屋を見回しながらイレーネが言う。
大きな窓にはレースと花模様のカーテン、床には所々に優しい色合いのラグが敷いてある。
窓際やテーブルには花が飾られて、ほんのりといい香りが漂ったいた。
そして、ベッドルームはピンクのベッドカバーに白レースの天蓋カーテンが付いている真っ白なベッドが置かれていた。
そう言えば、夏の国で「雨ごいの儀式」前日に、捧げものとなる予定だったアンのために用意された寝室もこんな感だった。
「貴女がお住いの王宮のお部屋とは比べ物にならないでしょう?」
とテレーズ。
確かに、王宮の自分の部屋、豪華な調度品、特注の家具にカーテン、ベッド。
壁には世界的に有名な画家に描いた美しい絵画がかかっていた。
クレメンタイン城内だけでも、イレーネの部屋は3つもあった。
実際に使っている部屋、
来客が来た時に迎える部屋、これはイレーネの「お友達」が来た時に使う部屋だ。
それから、取材用の部屋。
「まあ、3つもお部屋が。さすがは王女様ね」
テレーズがそう言って笑った。
しかしイレーネはというと、どの部屋にいても心からくつろげたことなどなかった。
いつも冷たい無機質な空間にひとりぼっちにされているような感覚だった。
ただシャロンと話しているときだけは別だった。
寝る前のひと時、シャロンとベッドに寝転がりながらたわいもない話をした。
今思えばそれが唯一の、心が落ち着く時間だった。
そのシャロンも今はもういない。
「悲しい事を思い出したの?」
イレーネの心を察したかのようなテレーズの言葉。
「あの、あなたには何か力があるの?気配とか人の心を感じる力」
とイレーネが以前から思っていたことを聞いた。
「貴女にはわかるようね」
そう言うとテレーズは自身の事を話し始めた。
イレーネの察した通り、テレーズには幼い頃から人の心を読み解く力があった。
それはある意味とても危険な力だ。
テレーズの両親は幼い彼女にその力を決して他人に知られないように、と厳しく諭していたのだそうだ。
それでも、時にはその力を求めて抗争に巻き込まれることもあり、いつの住居を転々としながら育ったのだと。
そんなある時の拠点で「決闘」に巻き込まれた。
「伯爵はね、初めて会った時から私の力に気付いていたの。でもそれを利用しようとはしなかった。
私に力を大切にするようにって言っただけで、守ってくれたの。
今までこうやって平穏に暮らせているのはすべて伯爵のおかげよ」
とテレーズ。
こういう力、そう言えば国境の街、グリンズフィルズの領主の娘、ドロテアも持っていたな。
ドロテアの両親はその力をないがしろにしているような発言をしていたが、それはドロテアを守るためだったのかもしれない、イレーネはそう思った。
「ふふふ、オノロケをごちそうさま」
と伯爵の事を嬉しそうに話したテレーズに言った。
「そうよ、私の愛する伯爵だもの。貴女の口からも聞きたいわね、おのろけ」
そう言って笑うテレーズ。
「私だって」
小さくそう言いながら、ハンスの事を話そうとしたイレーネ。
でも口に出そうとすると恥ずかしくて何も言えない。
「いつか、きっとたっぷり聞いてもらうわよ」
独り言のようにつぶやくイレーネ。
そんな様子をみながら笑顔のテレーズが、
「私達には子供がいないのだけれど、もしも娘がいたらこんな会話が出来たのかしらね」
と言った。
そうか、普通の家庭の母娘なら恋愛の話なんかするのか。
イレーネは自分と母ソフィア王妃との会話を改めて思い出していた。
侍女たちがあらかじめ用意した内容だけを話す、ソフィア王妃とイレーネ。
笑顔は笑っておらず、優しい言葉に優しさない。愛する姫、そんなことをいってはいるがそこに愛は全く感じられなかった。
これはソフィア王妃の方だけでなく、イレーネもそうだった。
「お母様に愛をこめて」
などと何度も言ったが、そこには何の感情もなかった。
「旅から帰ったら、普通に話がしてみたいな。今まではそんなことを考えたこともなかったけど、今は違う。お母様にいろいろと聞いてもらいたいことがたくさんあるわ」
ポツリとつぶやいたイレーネ。
ーアデーレ王国、王宮 クレメンタイン城の一室ー
そこに生まれたばかりの赤子を抱いたソフィア王妃がベッドの上にいた。
なんとか身体を起こしているような状態だったが、その顔は晴れ晴れとしており、喜びに満ちた笑顔だった。
「ソフィア王妃が男児をご出産になりました」
書斎で報告を受ける国王。
「そうか、それでは民に知らせるように」
それを指示しただけの国王。
王妃と生まれた子に会いに行く素振りはない。
アデーレ王国では国王夫妻の第一子以外は、懐妊自体を国民には知らせない。
生まれてから初めてその誕生が全国民に伝えられるのだ。
「アデーレ王国に王子が誕生した。
王位継承権は王女イレーネに次ぐものとする」
このニュースは瞬く間に国内そして近隣諸国に広まった。
ソフィア王妃の寝室では、
すでに乳母が付き赤ん坊である王子の世話をしている。
ソフィア王妃はただ自分の身体の回復だけを考えていればいいのだ。
「国王陛下より、王子のお名前はロベルトとするとのご通達です」
国王の側近よりそう伝えられた。
「国王陛下は王子に会いに来る気もないようね」
ロベルト王子を抱きながらつぶやくソフィア。
イレーネが生まれた時は、真っ先に会いに来てくれた。そして赤子のイレーネと私を抱きしめてくださった。
王陛下は、世継ぎの誕生が嬉しかっただけのか。
ソフィアはそんなことに思いを巡らす。
「イレーネ王女にご報告のお手紙を出されますか?それとも」
王妃の侍女がそう尋ねた。
「イレーネ?イレーネに伝える必要はないわ」
ソフィア王妃はそう言い切った。
「イレーネにこの子は関係ないのだから」
ソフィア王妃の横顔は、無表情でどこまでも冷たい目をしていた。




