9 デート
コロネル到着の翌朝、早速次の目的地に向かって出立しようとするアトラスをとどめたのは、ヒエイだった。
「まだ、二三日ここに滞在したいだって?」
アトラスはそう言って、露骨に眉をひそめた。彼が嫌な顔をするのは当然だろう。観光ではないのだ。任務の途上で先は長い。数日前に暗殺者に襲われたばかりだし、追っ手もかかっているかもしれない。同じ場所にとどまるのは危険だった。
それはわかっているが、ヒエイは一歩も引かずに決然と主張した。
「ああ。もう少し、この街にいたい」
「しかし、はやく先に進まないと……」
「まだ、疲労がとれないし。少し休みたいんだ。いいだろう」
「だが……」
反論しかけてアトラスは口をつぐむ。ヒエイの目をしばらく無言で見つめてから、そこに動かしがたい信念を読み取ると、やがて顔をそらした。
「……そうか。わかった」
彼がようやくそう絞り出すように言った時、静かに部屋の扉が開いた。
入ってきたのはアンジュだ。
「お迎えにあがりました」
驚き目を見開くアトラスのわきを、ヒエイは何食わぬ顔で通り過ぎる。
「彼女に、街を案内してもらうことになっているんだ」
「お、おい。それって……」
「じゃあ、アトラス。行ってきます」
「おい、ヒエイ」
部屋から出る直前、呼び止められて振り向くと、アトラスはさっきとはうって変わった弱々しい笑みを彼に向けていた。
「気を付けてな」
それに無言でうなずき返し、ヒエイは扉を閉じた。
〇
その日も、ヒエイはアンジュに連れられて七番街を練り歩いた。
今日の目的は、買い物だ。
ブーツ。外套。帽子。薬草や防具など。これからの旅に必要と思えるものを取りそろえようと思ったのだ。そのための手伝いを、アンジュがかってでてくれた。彼女は街の事情に詳しく、同じ道具屋や服飾店でも、どこの店が質の良いものを取りそろえているか熟知している。ヒエイとしてもありがたい申し出だったのだが……。
「アンジュ。これはちょっと違うのではないかな」
とある服飾店にて。アンジュがコーディネートしてくれた服を身につけて試着室からでたヒエイは、恐る恐るそう指摘した。
「僕のほしいのは旅のための装束で、このようなスーツは……」
細身の紺色のスーツはヒエイにピッタリと合っていたが、なんとも心地が良くない。いや着心地は良いのだが、慣れない服装なので窮屈というか、なんとも気持ちが落ち着かないのだ。まるでこれから偉い人の結婚式にでも連れて行かれそうで、妙にそわそわしてしまう。旅装束と言っているのにこのような服がでてくるとは、これはアンジュ流の冗談なのか。
しかしアンジュの返答は大真面目だ。
「どうしてですか。とてもお似合いですよ」
「でも、こんな立派な服。僕には不釣り合いだし、旅には向かないよ」
顎に指をあて考え込むアンジュ。無表情なので何を考えているのかわからない。何を思い立ったか店の奥に姿を消したかと思うと、長い布を携えて戻ってきた。
「確かに、これだけでは物足りないですね。アクセントが必要でした」
そう言いながら彼女は、深緑色のその布をヒエイの首に巻き付ける。
ヒエイに寄せられたアンジュの、メイド服の襟元からほのかにバラの香りが匂いたつ。
ヒエイの胸が大きく鼓を打ち、頭が宙に浮いたみたいにふわふわする。
「いいですね」
気がつくと、目の前に立ったアンジュが真剣な表情でヒエイの格好をためつすがめつし、ひとつうなずいてから口もとをほっとほころばせた。
思わずヒエイも笑顔になる。たったそれだけの、短い一言なのに。ほんの僅かの笑みなのに。だけどそれには、ヒエイを動かす不思議な力があった。常に不愛想な彼女の、時折見せるそのほんの少しの表情の変化が、彼にはとても貴重なものに思えた。
結局服飾店でアンジュの選んでくれたものを購入したヒエイは、その紺のスーツに身を包み、深緑のストールを首に巻いて七番街を闊歩した。
次に訪れたのは照明器具の店。
大小さまざまのランプが所狭しと飾られた店内は、さながら繁華街の夜景を凝縮したみたいだった。
「私、ランプの光って好きです。暖かくて可愛くて。この国にはめったに太陽の光はささないけど、でも、光は身近なところにもある。そう思えるのです」
朴訥と語るアンジュの横顔を、大小さまざまのランプの光が照らしている。それが時々彼女の表情を楽しそうにも、哀しそうにも見せた。
次に訪れたのは本屋。
旅には関係ないと思われたが、ヒエイは拒まなかった。彼は本が好きだったし、何よりアンジュが行きたがったから。
「私、兄がいるんです」
本棚の間を歩きながら、アンジュは唐突に打ち明けた。
「もう、何年も会ってないけど。彼もよく本を読んでいた」
「どんな本が、好きだったの」
アンジュはうつむいて、自嘲気味に首を振った。
「わかりません。あまり仲が良くなかったから。今になって思えば、もっとよく話をしておけばよかった」
「兄さんは、遠くに住んでいるの?」
そう訊ねたのは、アンジュの口ぶりが、まるでもう兄と会えないと言っているかのようだったからだ。
「そう……ですねぇ……」
アンジュは顎に指をあてて本棚の上を見上げる。
「私が、遠くに来てしまいました」
そしてヒエイの方に向き直った。
「あなたにはいませんか。そういう人が。あなたがナイアスに行ったら、きっとその人たちは寂しく思うことでしょうね」
「そんなことは……ないよ」
今度はヒエイが自嘲気味にため息をついた。アンジュに言われて思い浮かぶ人物は、ひとりしかいない。自分が遠くに行ったら寂しがるかもしれない人物。それはデロス司教だけだった。彼をナイアスに向かわせた張本人だけが、彼の不在を寂しがっているはずだった。
〇
結局この日の買い物で、ヒエイは旅装束もブーツも薬草も得ることはなかった。アンジュに半ば無理やり連れて行かれたところはみんな、旅とは無関係なアイテムをひさぐ店だ。手に入れたものは彼に不釣り合いなスーツとストールだけ。振り返ってみれば結局、おめかししてアンジュと街を練り歩いただけで半日費やしたわけであったが、ヒエイはそれを苦には思わなかった。前の日に今日の買い物の提案をされたときから、どこかでこのような展開を期待していたのだ。自分はきっと、アンジュとデートをするのだろうと。
もし……。
彼は思う。もし、アンジュが僕のことを好いていてくれるのだとしたら、それはとても嬉しいことだと。
「旅に必要なものを買えませんでしたね。すみません」
アンジュがそう言って謝ったのは、街のレストランで昼食のシチューに舌鼓をうっている時だった。
普段無表情な彼女が珍しく苦しそうにしているので、スプーンを置いたヒエイは努めて優しい笑みをつくって答えた。
「大丈夫。問題ないよ。それより買い物、楽しかったよ」
「実は、わざとなのです」
「え?」
「わざと、旅とは関係ないお店にばかりお連れしました」
「どうして……」
両手を膝の上に置いたアンジュは顔を伏せる。そうやってしばらく押し黙るうちに、その頬と耳が少しだけ朱に染まった。そして彼女は、小さな声で答えた。
「あなたに……行ってほしくないから」
その瞬間、ヒエイの全身に甘い疼きが駆け巡った。
ああ、もしそれが叶うなら!
彼は想像する。この街でアンジュと過ごす未来を。それはふわふわの布団にくるまっているように、平和で心地よかった。
悪くない。そんな生活もいいのかもしれない。苦しい使命から逃げ、自分を肯定してくれる人の傍で生きていく。そしてもし、その傍らに立つ人が自分を愛してくれるなら……。愛し愛される生活は、雨の中でもきっと心に光をもたらすことであろう。
「アンジュ。それは……」
ヒエイは思わず身を乗り出す。アンジュの手をとり、彼女の想いに答えようとする。
しかしその時、彼の視界の隅に、棒を持った大男の姿がよぎった。
ヒエイはハッとして周囲を見渡す。アトラスの姿はどこにもない。幻かもしれなかった。
「アンジュ。ごめん」
そう言ってヒエイは出しかけた手をひっこめる。彼だけを行かせるわけにはいかない、と思った。ここまで半月もの間、苦楽を共にしてきた仲間をひとりで危険な旅にほおり出すとしたら、それはとても寂しいことだと思った。
「そうですか……」
ため息まじりにつぶやいて面をあげたアンジュは、普段のポーカーフェイスに戻っていた。その表情から今の彼女の心情を察することはできなかった。
〇
食事をした後、ヒエイとアンジュが向かったのは七番街の店ではなく、街の郊外だった。買い物はもう飽きたであろうから街の名所を案内しようという、アンジュの提案である。
そこは小高い丘で、緑地の階段をのぼると石畳の広場があり、街の風景を見渡すことができた。
「いい、ながめだね」
傘を片手に展望スペースの手すりをつかみ、ヒエイはそう言う。しかし反面、彼はどこか居心地の悪さを感じていた。たしかに石造りの建物群や塔、アーケードのドームを一望できる景色は壮観だが、この広場自体はとても閑散としている。傘を連ねて憩う人が、彼ら以外に誰もいないのだ。あんなに賑やかな街の、名所と呼ばれる場所がこのようにさびれているのは、なんとも奇妙なことに思えた。
「ねえ、アンジュ。どうして僕たち以外に誰もいないのかな」
「あの、ドームの先端をご覧ください」
アンジュの返答の意味がいまいち理解できなかった。首をひねりながらも、しかしヒエイは言われるまま街中にそびえるアーケードのドームの先端に目を向ける。そこに自分の疑問を解く鍵があるのかもしれない。そう思ったから。
「ドームの先に何があるんだい。それがここと、何の関係が?」
「そこに星型の飾りがあるでしょう」
「星型の飾り? いや、見当たらないけど……。小さいのかい」
今度はアンジュから返事は返ってこなかった。
その沈黙の長さにヒエイは不安を覚える。
「ねえ、アン……」
振り返った、その時だった。
目の前でアンジュのさしていた桃色の傘が宙を舞う。柄を失ったその傘の下でアンジュが、銀色に光る細い剣を掴んで構えていた。
傘に仕込んだ剣……。パラソルソードか。
そう気づくのと同時に、アンジュの口の端がつりあがった。
「ここは、墓地よ」
そしてヒエイの視界を銀の光が切り裂いた。