8 商業都市コロネル
コロネルはフレイア東部の中心都市だ。
フレイア東部に散らばる村や町で生産される物資はすべて、先ずこの都市に集積される。交易も盛んで人口も多く、その繁栄は王都をしのぐほどだった。
コロネルの経済を支える大商人のひとつにゴードン商会という薬問屋がある。そこの会長マナウスはデロス司教と昵懇の仲であり、ヒエイとアトラスの旅の後援者となっていた。旅の資金を提供し、物資を用意してくれたのは彼らである。
コロネルに入ったヒエイとアトラスは、王都とは違ってごみごみとした街区のにぎやかさに圧倒されながら、まずはそのゴードン商会を訪れた。彼らがふたりのコロネル滞在の面倒もみてくれることになっているからだ。
「やー。よく、ここまで来てくれた。大変でしたでしょう。おふたりとも、デロスさんの信頼するお弟子さんだけあって、よい顔をなさっておられる」
そう言って笑ったマナウス会長は、デロス司教と同じく白い髭を蓄えているが、精力的で豪快な老人だった。彼がふたりを引見してくれたのは本店に隣接する迎賓館の一室。まばゆいシャンデリアが下がりふかふかのソファが鎮座する広い部屋だった。
「会長におかれましては、旅の援助をしていただき……」
アトラスがカチコチになりながら挨拶をする。その隣に立つヒエイも仏頂面である。もっとも彼の場合、緊張しているわけではない。あのイルマ村からずっとそうだった。とても笑うことなんかできない。スージーを救うことができなかったのだから。その悔恨は雨雲のように常に彼の胸中に垂れ下がり、けして晴れることはなかった。
「おい。お前も何か言えよ」
横腹をつつかれて、ヒエイはようやく我に返り頭を下げる。
「よろしく……お願いします」
愛想笑いのひとつも浮かべればよいのだろうが、やはりうまくいかなかった。
それを緊張と取ってくれたのだろう、マナウス会長は彼の不愛想を意に介した様子もなく、また豪快に笑う。
「お疲れのご様子ですな。道中大変だったでしょう。ここは安全ですぞ。どうぞこの部屋でくつろいでいってくだされ。ああ、そうだ……」
そして背後を視線で示す。
「滞在中、この者がお世話をします。御用があったら、何なりと言いつけてくだされ」
会長の紹介に合わせて、それまで彼の後ろに影のように付き従っていた人物が前に出てお辞儀をした。
「マナウス会長の秘書を務めております。アンジュと申します。なにとぞよろしく」
ぶっきらぼうにそう言って、ヒエイを見つめる。それは今のヒエイにも引けを取らぬほど不愛想な女だった。大商人の秘書らしく、きちんとなでつけた金髪を頭の後ろで一糸乱さず結い上げ、一部の隙も無いメイド服で身を包んでいる。輪郭も目鼻立ちも整っているが、生まれてから一度も笑ったことがないのではないかと思えるほどの無表情がそれを台無しにしていた。ヒエイに向けられた切れ長の目は、刃のように鋭い。
今にも斬り裂かれそうな視線の圧に抗しきれず、ヒエイは思わず顔を伏せた。
○
「なあ、ヒエイ。そろそろ前をむこうぜ」
アトラスがそう声をかけてきたのは、会長が部屋から去り、とりあえずソファに腰を埋めて天井を見あげながら、無言でしばらく過ごしたあとだった。
「何が。向いてるだろ」
「いや。向いてないよ。お前はまだ、あの村にいる」
「とんでもない」
「いいか。あの子のことは残念だった。だけど……」
「わかっているよ」
遮るように言って、ヒエイはアトラスを見る。そして彼はもう一度、胸の中で反芻する。わかっているんだと。
アトラスは言いたいのだろう。スージーのことをいつまでも悔やんでいるんじゃない。自分たちには任務があるだろう。と。たしかにそのとおりだ。だけど、だからといって割り切れることではない。彼女と出会ったこと、星を一緒に観たこと、そして彼女を失ってしまったことはなかったことにはできない。
「アトラスこそ。なんでそんなに平気な顔でいられる。どうして忘れられる」
アトラスも、イルマ村を発ってから三日間はヒエイと同じく打ちひしがれて、まともに会話もできなかった。でもコロネル到着の前日あたりから、また元の快活さを取り戻しつつある。その姿にヒエイは納得することができない。どうして。どうしてそんなにすぐに切り替えることができるんだ。
「……忘れたわけじゃない。でも、俺は前に進む」
「任務があるからか。そんなに大事か」
「ああ。そうだ。何よりも、この任務は大事だ」
そう言い切った、アトラスの声には一片のためらいもなかった。真っすぐにヒエイに向けられた瞳は、ナイアス行きの決意を打ち明けたあの日と変わらず、救国の信念に燃えている。
ああ、そうだ。この男は自分とは違うのだ。と、ヒエイは改めて思う。自分とは違って信念も志もある。だから困難や悲劇を乗り越えることができるんだ。スージーの死をも、こうやって乗り越えられる。
「……僕も、早くナイアスに行きたいと思っている」
思い知らされてしまう。志ある者と、それのない自分の差を。その気持ちをかみしめながらヒエイはソファから腰をあげる。
「こんな国、もううんざりだ。でも、彼女のことを忘れることはできない」
「おい。待てよ、ヒエイ」
「ちょっと街を歩いてくる。少し、ひとりになりたいんだ」
部屋から出ようと扉に向かったところで、ヒエイはぎょっとして足を止めた。
あのアンジュ秘書が、扉の傍らに突っ立っていたからだ。
「お出かけですか?」
やはりニコリともせずに、その鋭い目でヒエイを睨みながら、彼女はぶっきらぼうにきいてくる。
「驚いた。あなたはいつからそこにいたのですか」
「ずっといましたが?」
その返答にヒエイはさらに驚く。ずっと……だって。全然存在を感じなかった。影、薄すぎだろこの人。
一方アンジュは何食わぬ様子でぶつぶつと、面白くもなさそうに提案してきた。
「お買い物をなさるなら、七番街がよいかと。ご案内させていただきます」
「けっこうです!」
ヒエイは反射的に断って、勢いよく部屋から出ていった。
〇
七番街はコロネルでも有数の繁華街である。
服飾店、本屋、雑貨屋、レストランなどが軒を連ね、大勢の着飾った紳士淑女が石畳の街路を行き交う。彼らが覗く店々のショーウィンドウには、見たこともないような豪奢なドレスやらハイヒールやらスーツやらが並び、この街の豊かさを示しているようだった。なにより凄いのは、この街区の路がすべてアーケードで覆われていることだ。このアーチ状の屋根のおかげで、人々は雨に濡れることなくショッピングを楽しむことができるのである。
その繁華街の、笑顔で行き来する人々の間を、ヒエイだけは仏頂面で闊歩している。
「……」
「……」
「……あの」
気まずい沈黙を破って、ヒエイは背後に付き従う人物に話しかける。正確には仏頂面はもうひとりいた。
アンジュが無表情のまま小首をかしげた。
「なにか?」
「なにっていうか。どうしてついてくるんですか」
「ご案内しないと。あなたは迷子になってしまいます」
確かに、ヒエイはこの街は初めてで地理もよく知らない。七番街に来れたのもアンジュのおかげだ。でも、できればほおっておいてほしい。
「うん。ここまで連れてきてありがとう。でも、もう大丈夫だよ。あなたは返ってもらって大丈夫だ」
そういう間も、すれ違う人々がチラチラとこちらに視線をむけて、おかしそうに口元をほころばせる。みすぼらしい旅装束の男ときっちりと制服に身を包んだ女。しかもどちらも怒ったような仏頂面のカップルは、さぞかし奇異に映ることだろう。
人々の視線が痛い。
目立ちたくないのに。頼むからひとりにしてくれ。
頭をかきむしりたい気持ちでヒエイがアンジュを追い返そうとしたとき、その機先を制するようにアンジュが声をあげた。
「あ」
腕を伸ばして街角を指し示す。
「え?」
思わずつられてヒエイは示された方角を向く。そこにはちょっとした広場があり、その広場に面した店のひとつの軒先に、いくつかの白いテーブルが置かれていた。
「カフェ・ヴェルリオです。ここのパンケーキは今、コロネルで人気なんですよ」
普通の女の子ならばきっと、楽しそうに声を弾ませながら発するのであろうそんなセリフを、アンジュはまったくの無感情に言ってのけた。あまりの棒読みに、その店を薦めているようには全然聞こえない。本当に案内する気あるのかこの人は。
しかしその声のテンションの低さとは裏腹に、アンジュはヒエイの背を押すようにして半ば強引にその店へと彼をいざなった。
「甘いものを食べましょう。おなかが満たされれば、ストレスも少しやわらぎます」
〇
人気と言われるだけあって、カフェ・ヴェルリオのパンケーキはとてもおいしかった。
生地はふわふわで、その上に山みたいに盛りつけられたクリームやたっぷりかけられたはちみつとの相性は抜群だった。口にふくめば香ばしさと甘さがいっぱいにひろがり、舌が溶けてしまいそうだ。喉を通って腹に入るその瞬間まで、幸福感が体の内部を撫でさすっているように感じさせる。まるで幸福感の塊。ヒエイはこんなにおいしいものを、今まで食べたことはなかった。
「ふぃふぁふぁふぇふひゃ?」
アンジュがほおばったパンケーキを咀嚼しながらきいてきた。何を言ってるか聞き取れないが、「いかがですか」とでも言っているのかもしれない。相変わらずの無表情ではあるが、貪り食うその様子から、彼女もまたこのパンケーキが好きなのだろう。ほっぺにクリームがついている。
「とても美味しいよ。ありがとう」
「ほれはひょはっひゃ」
そう言うと彼女は少しだけ……ほんの少しだけ目を細めて表情をほころばせた。頬をパンケーキで膨らませているのでよくわからないけど。
そうやって、しばらくふたりでもくもくとパンケーキをほおばりつづけた。広場もドーム状の屋根で覆われているので雨は入ってこない。ドームにいくつか開けられたガラスの小窓から薄い光が注いで、広場のレンガ畳のところどころを照らしている。店々や街角には照明や街灯の灯が輝き、それは夜空に浮かぶ星を彷彿とさせた。
「いいんじゃ、ないでしょうか。忘れなくても」
突然アンジュがそう言ったのは、パンケーキを平らげて食後のコーヒーが運ばれてきた時だった。
「失礼ですが、部屋での会話が聞こえてしまいました。どなたのことかわかりませんが、大切な人のことを、忘れる必要はないと思います」
アンジュの表情は相変わらずのポーカーフェイスだ。その感情をにじませぬ鋭い目を数秒見返してから、ヒエイは顔を伏せ自嘲気味に答えた。
「でも、それじゃあ、任務に支障が出る。後ろを振り返ったままじゃあ、先に進む足が鈍る……。そう、アトラスは考えているんだろう」
「そうですか。アトラス様とは、お強いのですね」
「あいつは志があるから。僕とは大違いだ。僕は……彼のようにはなれない」
思わず弱音がこぼれた。なんでそんなセリフを吐いてしまったのかわからない。ひとりになって気が緩んだのかもしれない。おなかいっぱい食べたパンケーキの甘さのせいかもしれない。あるいは相手が無口で無表情なアンジュだから、人形を相手にしているような気になったのかもしれなかった。
「僕には、彼のような志はないんだ。国を立て直そうとか。人々を救おうとか。そんなことを考えていない。僕はただ、この国が嫌いで、外の世界に逃げ出したくて……」
「いいんじゃ、ないですか」
アンジュの言葉に、ヒエイは思わず顔をあげた。彼女はやはり無表情で、ヒエイの顔をまっすぐ見つめながらつづける。
「志ある者だけが偉いんですか。それがなければだめですか。日々一生懸命生きている。それだけで立派だと私は思います。逃げ出したいという気持ちだって恥ずかしい物じゃない。きっとこの国に住む多くの人はそう思っている。思っても実行できないだけ」
「でも、僕には責任がある。それから目をそらしていることは、一生懸命生きていると言えるだろうか」
「あなたは一生懸命生きていますよ。そんなにも悩んでいるではありませんか。それは、一生懸命だからだと思います」
目の奥が熱くなるのをヒエイは感じた。
はじめてだった。他人からこのように肯定してもらえるのは。
いいのだろうか。僕は、このままでも……。
すがるように彼はアンジュの顔を見る。愛想の欠片もない、怒っているかのような仏頂面。でもその顔が、今まで会ったいかなる人のそれよりも優しいものにみえた。
「あ……クリームが」
ヒエイが指摘すると、その時初めて気づいたようにアンジュは頬をぬぐい、照れくさそうに笑った。ほんのわずかに頬をほころばせただけの笑み。それが出会って初めて見る、彼女の笑みだった。