7 炎の大蛇
燃えていたのはスージーの家だった。
燃え盛る炎を前に立ちすくむスージー。その肩を抱くアトラスも、ヒエイも言葉が出せない。
なんてことだ。一体誰がこんな……。
茫然とするヒエイの横で、アトラスがくずれゆく家の玄関先を指さした。
「おい。あれは……」
ヒエイは指し示された方を見て息をのむ。そこには人が倒れていた。紅い炎に照らし出されたその人物の着ている服には見覚えがある。あの人は……。
「おじいさん!」
スージーが叫んで駆け出した。止めようとするアトラスの手を振りほどいて、一目散に祖父のもとへと向かっていく。
「危ない、スージー。戻るんだ!」
ヒエイとアトラスはあわてて彼女を追いかける。
しかし、一足遅かった。
目の前を黒い影がよぎったかと思うと、紅い光がきらめいた。それが炎の色を反射した刃のそれと気づいた次の瞬間、赤黒い飛沫が散る。
一瞬の出来事だった。気がつくとスージーは老人の身体に覆いかぶさるようにして倒れていた。
「スージー!」
駆け寄ろうとするヒエイとアトラス。しかしまたしても黒い影と白刃が彼らの行く手を遮る。
「おっと。お前らはここまでだぜ」
飛び退いたふたりの前に、男がひとり立ちふさがっていた。黒い装束で身を包んだ男。口もとからのぞく牙のような歯。光のない灰色の瞳。街道でふたりを襲った暗殺者だ。その右手に持つ剣の切っ先からは血が滴り落ちていた。
「お前か。家を燃やし、老人をあのような目に遭わせたのは」
「ああ、そうさ。あいつが悪いんだぜ。お前らの居場所を吐かないから。殺してやった」
「スージーまで。あんな幼い娘まで、よくも……」
「だから何だ。お前らをかくまったのだから同罪だよ」
「もう、いい」
押し殺した声でそう言って、アトラスが一歩前に踏み出した。握りしめた拳がふるえている。筋肉の盛り上がった腕には血管が浮き出ていた。
「ヒエイ。お前はスージーを頼む。まだ息があるかもしれない。俺が囮になるから、その隙に」
そう言って黒棒をヒエイに渡す。
「アトラス。お前まさか、それで一人で闘う気か」
アトラスが怪力の持ち主だというのはヒエイも承知だ。しかし拳だけで暗殺者と対峙するのは無茶が過ぎる。
「俺が丸腰になれば、あいつは魔法を使えるお前よりも優先して俺を狙うだろう。それにな……」
炎に照らし出された彼の顔や肉体は、怒りと闘志に満ちてさながら赤鬼のように見えた。
アトラスは両手を組み合わせ、指を鳴らしながら吐き捨てた。
「あんな野郎。素手で十分だ」
〇
アトラスが拳を振り上げて打ちかかっていくと、暗殺者はひょいとそれをかわして刃を彼に繰り出した。飛びすさるアトラス。追撃する刃。それを避けながら退いていく彼を、暗殺者の刃は執拗に追いかけていく。
どうやらアトラスの読みは当たったようだ。奴はまずアトラスを殺して次にヒエイを狙うという、各個撃破の作戦にでたらしい。
ヒエイは倒れているスージーに駆け寄った。老人の身体に折り重なっている彼女の身体を抱き上げ、炎の被害を受けていない納屋の軒下へと逃れる。その際老人の息を確かめたが、暗殺者の言う通り彼はすでに亡くなっていた。
スージーはまだ息があった。
弱々しく苦しそうな呼吸を不規則に繰り返している。
「少しの辛抱だ。スージー。今、楽にしてやるぞ」
彼女の胸に向かって手をかざし、集中する。
しかし、スージーの表情から苦悶の色が消えることはなかった。呼吸が落ち着くこともなく、弱くなっていくばかりだ。
「くそっ。どうして……」
ヒエイはむきになって念じる。治れ。治れよ。
わかっていた。傷が深すぎるのだ。心臓が貫かれている。血がとめどなくあふれ、胸をどんどん赤黒く染めていく。こうなったらもう、ヒエイの風の魔法などでは治しようがない。
わかっていたが、ヒエイは念じることをやめなかった。死なせたくなかった。せっかく星を見ることができたのに。ヴォルヴァ様に会えて天使を追い出すことができたら、もっと完璧な、満天の星空を見せてあげることができたかもしれないのに。夢も希望もある小さな子が、こんなところで人生終えるなんて、そんなことあっていいものか。
かざすヒエイの手の甲に、一粒また一粒と涙の雫がこぼれ落ちた。
その雫をぬぐうように、少女の小さな手が差し出された。
「おにいさん……。もう、大丈夫だよ」
「スージー。すまない」
「ううん……。ありがとう、おにいさん。星を見せてくれて。感動したよ。今まで生きてきた中で、一番、感動した」
スージーは細い腕につけていたブレスレットをはずすと、それをヒエイに握らせ、
「お礼だよ」
そう言って苦しそうにほほ笑んだ。
食卓で幾度となく見せてくれた、無邪気な笑み。ヒエイが守りたいと思った、純粋な表情。その目じりから一筋の涙が流れ落ちる。それと同時に、スージーの口から漏れていたかすかな息が止まった。
ヒエイの手に添えられていた彼女の指から力が抜ける。
「スージー……」
ヒエイは何も言うことができなかった。ただスージーの手を取り、胸の上で組ませてあげてから静かに立ちあがる。彼女からもらったブレスレットを左手首にはめて、目の前にかざす。金色の鎖につながれた小さな翡翠の石が、エメラルドグリーンの光を放っていた。
「すまない。少しの間ひとりにするけど、すぐ戻ってくるよ。今、仇を討ってきてやる。あいつに、この報いを受けさせてやるからな」
そして闇をにらみつける。まるでそこに黒装束の暗殺者がいるように。
あいつは、絶対に許さない。
○
スージー宅の前では、まだアトラスと暗殺者の戦いが繰り広げられていた。
家を飲み込む炎に照らされて、ふたつの影が拳と剣を交える。
丸腰にもかかわらず、アトラスは剣を振るう暗殺者に一歩も引けを取っていなかった。暗殺者が斬り込めばその切っ先をかわして相手の懐に入り込み、拳を繰り出す。相手の刃は空を切るか、アトラスの腕に跳ね返されるばかりだ。
しかし決め手がないのはアトラスも同じだった。彼の突き出す拳が届く前に暗殺者は飛び退って距離を取る。そして剣の間合いから、速い斬撃を次々にアトラスに浴びせるのだ。
「ちっ。ちょこまかとすばしっこい奴だぜ」
アトラスが忌々しげに言って、大きく息を吐く。
攻撃を避けてアトラスと距離を取った暗殺者も、顎から滴り落ちる汗を拭った。
「はあはあ……。なぜだ。なぜ、俺の動きについてこれる」
アトラスは答えなかった。戻ってきたヒエイの姿に気づいたからだ。
「ヒエイ。スージーは……」
言いかけて、しかしすぐに口を閉ざす。ヒエイの表情にすべて書いてあったから。彼は口を引き結び、そしてわずかに顔を伏せた。
「なんてことだ……」
ヒエイも黙したまま、ただ悔しそうに唇をかんで地面を見つめた。
しかし感傷に浸っている時間は与えてもらえなかった。
「おいおい。俺を無視してんじゃねえよ」
そう言って暗殺者がアトラスに斬りかかる。
その切っ先を避けて蹴りを繰り出すアトラス。しかしそれは案の定届かず、暗殺者はまた飛びすさって彼と距離をとる。
「へへへ。しけた面しやがって。ガキひとり死んだからなんだっていうんだ」
「だまれ、外道が。お前に心はないのか」
「そんなものあるもんか。あんなガキ、俺は今まで何人も殺してきたんだぜ」
下卑た笑いを漏らしながら、暗殺者は腰を落とし、剣の先をアトラスに向けて構えなおす。
「まあ、お前ももうすぐ死ぬけどな。そろそろ俺の本気を見せてやるよ」
そう言って地面を蹴る。次の瞬間、暗殺者の姿が闇に溶けるようにふっと消えた。
アトラスは目を閉じ、長く息を吐く。
地面を強く踏みしめて構え、右のこぶしを強く握りしめる。
「ふんっ!」
気合一声、渾身の力で目の前の虚空に拳を突き出した。
それと同時に奇妙な悲鳴が彼の手もとから上がる。
「へぶぁっ!?」
虚空を殴ったかと思われた拳は、突然アトラスの前に現れた黒い物体にあたっていた。それは暗殺者の顔面だった。
大きな拳がめり込んだ暗殺者の横っ面から、メリメリっという音がきこえてきそうだった。その醜悪な顔が歪んだかと思うと、暗殺者の身体は吹っ飛ばされて数十歩先の地面にたたきつけられた。
「げほっ。がはっ。……な、なんで」
「言ったろう。クソ暗殺者。貴様なんぞ、素手で十分なんだ」
手を組み合わせて指を鳴らしながら、アトラスは暗殺者に近づいていく。その一歩一歩で死刑へのカウントダウンをするように。
動揺した暗殺者は身を起こしてキョロキョロと周囲を伺う。そしてヒエイの姿を認めると、ニヤアっといやらしく口の端をゆがめた。
暗殺者の姿がまたしても闇に溶ける。
「風よ……」
唱えて、ヒエイは右手で手刀をつくり、それを前に伸ばす。
彼の脳裏にイメージが広がる。彼の周囲を渦巻く風。それは研ぎ澄まされて、刃のような鋭さで空気を裂く。
「ぎゃあぁぁっつ」
ヒエイの背後で悲鳴が上がった。暗殺者のそれだ。
振り返ると、暗殺者が血まみれで地面に這いつくばっていた。
「風刀陣。僕の周囲は風の刃で守られている」
「お……おた……おたすけ……」
遂に暗殺者の口から命乞いの言葉が漏れる。泥にすがりつき、恐怖に顔を引きつらせながらヒエイを見上げ、懇願する。
「どうか、命ばかりは……。これは命令されたことなんです」
「誰が許すかよ」
家から流れてきた炎の一部が、ヒエイの周囲の風と合流してとぐろを巻く。風の刃が紅くきらめきながら、ヒエイの身体を囲んで流れる。それはさながら彼が深紅の大蛇に守られているかのようだった。
先刻息を引き取ったスージーの、苦しそうなほほ笑みがヒエイの脳裏によみがえる。
(スージー。今、仇をとるよ)
そしてヒエイは号令をかけるように右手を振り上げた。
「風よ。幾千の刃となり敵を切り裂け」
炎の大蛇がヒエイの身体から離れ、暗殺者に襲いかかる。敵に反撃することも避けることも許さなかった。その黒装束の身体を切り刻みながらあっという間に飲みこんで、はるか上空へと流れていく。雨雲の一点を赤く染め、そして炎の大蛇は四散して消えた。
○
翌朝、イルマ村を見おろす丘の中腹に、二つの小さな墓ができた。
アトラスと共に長い祈りをささげるヒエイの耳の奥には、まだ、あの少女の声が残っている。
ふと、声をかけられたような気がして振り返る。しかしそこに少女の姿はなかった。目の前には沈鬱な色の村の風景と、その上空に垂れこめるどす黒い雨雲が広がっているばかりだった。




