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66 桜の木の下で

 教会の司教執務室に入ると、白髭の老司教が顔を上げて目を細めた。


「やあ、これは、天気の使徒殿」


 室内に入ったヒエイは、師匠のまぶし気な視線に苦笑しながら、照れ隠しに頭をかいた。


「その呼び方はやめてくださいよ」

「しかし事実じゃ。そなたは、この国を救ってくれた」

「いつも申し上げていますが、それは、どうか人前では言わないようにお願いします。目立つのは苦手なので」


 そう、声をひそめて言うヒエイのまとっているものは、教会の僧衣ではない。粗末な麻の衣服に使い古したチョッキ。道を行く一般市民と変わらぬ格好だ。街ですれちがっても、よもやこの男が天使を倒した天気の使徒であると気がつく者はいまい。


「今は、街の薬屋ですよ。宮殿だの教会だのは、僕の性にはあわない。薬草を求めて旅をし、この国のいろんな地域とそこに住む人を見、そして自然の調和を祈る……。これが僕の見つけた、僕らしい生き方です」

「おかげで、気候も落ち着いている。本当に、ありがとう」


 ヒエイに祈るように深々と頭を下げたデロス司教は、顔を上げると、ふと、窓を見上げた。

 ヒエイも同じ方を向き、目を細める。

 旅に出たあの日、滝のようにガラスに雨水が流れていた長窓は、陽光を散らしてキラキラと光っている。


「昨日のことのようだの」


 司教のつぶやきに、ヒエイはしんみりとした表情になってうなずき返した。あの日、司教の途方もない計画を打ち明けられ、気持ちの整理もつかないまま旅に出た。頭を寄せ合って地図をのぞいた三人のうち、もっともそれを望んだひとりがこの場にいないのが、いまさらながらとても寂しく感じる。


「……彼がいたら、何をしてたかな」


 司教のつぶやきに答えようとして、ヒエイは口をつぐんだ。海を行く船上での彼の姿が脳裏をよぎったが、結局は誰にも知りようがないことだ。死者は、もう何もすることができないのだから。


「未来の話を、しましょう」


 ヒエイは無理やりのようにニコリとほほ笑んだ。


「久しぶりにルシフェルに戻ってきましたが、とても活気がありますね。公園の一部にできた議事堂もにぎわっていました。ハザムは、よくやっているようですね」


 ハザムの名を出すと、司教は顔をほころばせた。

 王政が崩壊したのち、国家の代表となったのはハザムだった。彼は王位にはつかず、民の中から選ばれた議員とともに政務を執り行っていた。貴族はもういない。ハザムもその立場を世襲するつもりはないようだ。


 新しい体制は、いろんな問題に直面しながらも、とりあえずうまくいっているようだ。デロス司教やゴードン商会のマナウスといった識者たちがハザムを補佐し、ハザムは周囲の意見をよくききながら、次々に改革を行っていた。ヒエイも時々彼を訪ねて相談にのっている。


「と、言っても、僕はただ愚痴を聞いたりしているだけですがね」

「彼は聡明な若者だ。さすが、ガイア様のもとで学んだだけのことはある」

「デロス先生やマナウスさんもついていますしね。それに大地の使徒の力も、持っている」


 ふと、脳裏にアタナミの乙女の姿が浮かんだ。人間だから、間違いをおかすこともあるだろう。でも、ハザムには道を踏み外さないでほしいと思う。もしそうなったら、その時はしっかり叱ってあげよう。そして自分も……。天使のようになるまいと思う。苦言に耳を傾け、反省し、改めることのできる自分でありたい。


「僕にも、メルラのような人がいればよかったのに」


 その点だけは、あの天使をうらやましく思う。天気の使徒となった自分はおそらく、途方もない年月を生きることとなるだろう。今、支えてくれている人たちとも、いづれ別れてしまう。いつまでも今の気持ちのままでいられるのか、少し不安だった。将来にわたりこんな自分に寄り添い、見守り、時にたしなめてくれる人がいたら、どんなに心強いだろう。


「水に、顔を映してご覧なさい」


 デロス司教の声に、ヒエイは顔を上げる。司教は少年のような顔で、遠くを見つめていた。


「メルラはいつも、そこにいるよ」


 ああ、そうだった。

 ヒエイの胸の底を、そよ風がよぎってゆく。

 使徒は、いつでもそこにいる。風の中に、水の中に、光の中に。自分の母が、そうだったように……。


     ◯


 かつての貧民街は、整地と道の整備がすすみ、新たな住宅街として生まれ変わろうとしていた。

 工事の槌音のひびく区域の片隅で、その公園だけは、以前のように静寂に包まれていた。


「いいところね」


 そよ風を吸い込んでアンジュがつぶやくと、ヒエイもまた、うんと頷いて目を細くした。

 草花の生い茂る公園の一角に一本、たたずんでいるのは桜の木だ。花の季節はもう過ぎて、うす桃色の花弁が木の周辺に散り敷いている。浅緑の葉に覆われたその木の枝は、注ぐ柔らかな陽光の下で眠たそうにゆれていた。

 アンジュと一緒に、桜の幹と向かい合うようにして、枝の下に腰を下ろす。二人の目の前、桜の根元には、小さな石碑が一つ鎮座している。

 丸い木漏れ日に照らされたその石碑の前に、ヒエイは持ってきたガラスの瓶を置いた。


「いい酒が手に入ったよ。アトラス」


 語りかけると瓶の栓を抜いて、アンジュの取り出した杯になみなみと注いだ。


「アタナミの酒だ。懐かしいだろう」 


 杯を傾けて石碑に酒をかけてあげる。こころなしか石にあたる木漏れ日が少し明るさを増したような気がした。ふとそこに、アトラスのあの屈託のない笑い顔が重なった。


「そうそう。この前あのマキ村に行ってきたよ。カンゾウのおっさんも元気にしてたよ」


 アンジュもまた、石碑に酒をかけながら彼に話しかけた。


「覚えているかい。濁茶。あの不味い茶も今度持ってきてやるよ」


 そう言って笑う。

 頭上で桜の葉がささやく。ふとヒエイは、本当にアトラスと一緒に木漏れ日の下で杯を傾けているような気持ちになる。アトラスとアンジュと自分。昔のように三人で……。


「そうだ。アトラスとアンジュに見せたいものがあるんだ」


 ひとしきり談笑してから、ヒエイは公園の草原に向かって座禅を組んだ。

 目をかすかに閉じ、少し上を向いて、大気の香りをかぐように呼吸をする。


(感じるよ)


 大地のぬくもり。陽のあたたかさ。風のやさしさ……。みんな感じる。体に流れ込み、体が溶け込んでいく。


 目を開いたヒエイは、そばに落ちていた桜の花弁をつまみ上げた。それにふっと息を吹きかける。

 ひとひらの花弁はヒエイの指から離れて空へと舞う。

 隣に座るアンジュの口から感嘆の声が漏れた。

 地面に散り敷いていた花弁たちが、一斉に舞い上がったからだ。無数の花弁たちは、ヒエイたちを取り囲むようにして渦を巻き、どこまでも昇っていく。


 陽の光をうけてピンク色にきらめきながら。

 青く晴れ渡る空に向かって。




   おわり

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