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64 メルラの願い

 私がこのフレイアにやってきたのは、もう三百年も前のことです。

 当時、この地は灼熱の地獄でした。

 隣国のアタナミがかわいく思えるほどの、乾ききった大地。草木も生えぬ死の土地だったのです。


 若い私は、理想に燃えてナイアスからその地へと向かいました。多くの人がそれを反対したけれど。ヴォルヴァ様なんか必死になって私を止めましたね。でも私は考えを曲げなかった。せっかく力を持っているのに、それをナイアスのためにしか使わないなんて納得できなかったのです。史上最年少で真なる水の使徒になった自信も、後押ししていたのかもしれません。私ならできると思った。不毛の地を、ナイアスのような緑豊かな土地に生まれ変わらせることができると。


 今思えばなんと思い上がっていたことでしょう。傲慢で、自信家で、夢想家で純粋……。それが若いころの私でした。


 志を共にする仲間たちとこの地に降り立った私は、それがどれだけ大変なことかをすぐに知りました。乾いた大地はあまりに広く、水はあまりに少なかった。しかし不可能とも思いませんでした。なにせ私は真なる水の使徒。それに心強い仲間もいましたから。


 あなたはご存じでしょう。デロス司教。それに私の弟子たち。妹も行を共にしてくれました。アタナミで拾ったゼノも、なにかと役に立ってくれました。


 最初は山のふもとのわずかな土地を、皆で丹精込めて育てました。

 私が地中深くから水を引き、土地を潤す。デロス君や妹が風を起こして雲を呼ぶ。弟子たちがナイアスやアタナミから持ち寄った植物の種や苗を植え、育てる。土地を耕したり道を作ったり、力仕事ではゼノが活躍してくれました。


 そうやって、私たちは緑の土地を根付かせていきました。ほんの少し。少しずつですが、着実に。


 そのやり方を続けていたら、何千年かかったことでしょう。

 結論から言うと、百年ほどで私たちは諦めました。あきらめざるを得なかったのです。


 それは南東の山脈のふもと一帯をようやく緑の地に変え、いくばくかの人がアタナミの辺境から移住してくるようになった頃でした。

 あのお方が、現れたのです。

 まさに奇跡としか言いようのない力でした。

 真っ青に晴れ渡った空を雲で覆いつくし、乾いたフレイアの土地すべてに雨を降らせたその力は、まさに神がかっていました。その後適度な日照と降雨により、わずか数年でフレイアは緑の大地に生まれ変わったのです。


 私が望んだ風景のはずだった。

 しかし、それを眺める私は大きな衝撃を受けていました。

 あのお方は、ほんのわずかな期間で、フレイア全土を潤してしまった。

 私たちは百年かけて、やっと山のふもとを緑に変えたのに。

 すい星のように現れたあのお方の力は、簡単に私たちの百年の苦労を飛び越えてしまったのです。


 私の自信と矜持が、崩れた瞬間でした。

 あのお方がいればいいじゃないか。

 そう、思ってしまった。

 そして私は、せっかく自分が積み重ねてきた地道な努力を、すべて放棄してしまったのです。



 あのお方は何者なのか、ですって? さあ……それを説明するのは難しいですね。たとえば青色とはどんな色であるのかと問われても答えられないのと同じです。強いて言うならば、天の力そのもの。それを人間の形として具現化した存在とでも言いましょうか。

 どこから来て、どこへ行くのかもわかりません。ただ、気の向くままに世界を徘徊しているのだと、あの方はおっしゃいました。


 私はその偉大な力の前に膝を屈し、畏敬をこめて、彼を天からの使い……「天使」と呼ぶようになりました。そして天使と契約を結ぶことにしたのです。この地にとどまりこの地を潤してもらう代わりに、天使に仕え、お守りすると。 


 きっと、疲れていたのだと思います。遅々として進まぬ開発に、焦りを覚えてもいました。

 私は、今思えば、ただ楽な方法に飛びついてしまっただけなのかもしれない。

 妹やデロスは猛反対しました。なにせ当時から天使は、ひどく気まぐれでわがままでしたから。あれがその力を人々のために使うはずがない。と。


 妹たちは正しかった。しかし愚かな私は、またしても己を過信してしまいました。育てればいいのだと。あの天使を良い方向に教え導くことができればいいではないか。そしてそれを、私ならできると。

 それまで力を合わせていた私たちは、そこで袂を分かちました。私とゼノと弟子たちは、この丘の上に天使のための宮殿を造って彼を祀り、デロスと妹は人々とともに生きる道を選びました。


 デロスのことはよく知ってますね。私の妹は知らない? そういえば、言ってなかったですね。風の使徒ハルナ。思えば、あなたとよく似た風を吹かせる娘でした。



 今になって思います。デロスやハルナは正しかったと。

 百年経っても、二百年経っても、天使は幼いままでした。ただ感情のままに暴れ、人間の営みをおもちゃのように弄び、すぐに壊してしまう。むしろそれを面白がってさえいるのでした。もちろん何度も諌め、叱りましたよ。しかし天使はきかなかった。それどころか、叱ればしかるほど、諌めれば諌めるほど、彼はますます癇癪をおこし、地上を無茶苦茶にしてしまう。いつの間にか私たちは諦めて、彼の前で口をつぐむようになってしまいました。


 私は本当に愚かでした。あの天使を操ることができると、一瞬でも思ったなんて。最初から手に追える相手ではなかったのに。

 それでもズルズルと関係を続けていたのは、まだ、どこかで信じていたからなのでしょう。あの方の良心と、自分の力を。



 でも、さすがにもう、わかりました。

 あの天使に良心などないし、私に彼をコントロールする力はありません。


 

 散々過ちを犯した私が、今更天使を見放すのも、別の人に何かを託そうとするのも、あまりに身勝手で虫の良い話だとは思います。


 でももし、もう一度願うことが許されるのなら……。


 やり直したい。少しずつでいいから、二百年前のあの日に戻って、みんなと一緒に。

 ヒエイ君。あなたにそれを望んでいいですか? 私はもう、ここで終わるから。だから、やり直してほしいのです。二百年前の愚かな私に代わって。天使の力にすがるのではなく、みんなで力を合わせて、再び、この地に、緑と風と、光を……。



   * * *



 そこまで話してメルラは激しくせき込んだ。苦しそうになんとか呼吸を整えながら、弱々しくヒエイを見上げる。ヒエイが彼女の名を呼ぼうとすると、人差し指を立てて、その口にそっとあてた。


「まだ、言葉を発してはいけませんよ」


 メルラの杏仁型の目が、優しく細められる。


「これが、最後の刻印です」


 消え入りそうな声でそう言って、彼女はヒエイの胸に手を当てた。

 ヒエイの体が光で包まれる。胸を中心に両肩と両太ももの五か所でそれぞれ五色の光が明滅する。青、赤、緑、黄、茶……それらの光は彼の体の中心に集まってひときわ大きな輝きを放つ。


 ああ、流れ込んでくる。

 光とともにヒエイは感じる。

 数え切れないほどの哀しみ。数え切れないほどの涙。数え切れないほどの祈り……。

 ヒエイの目から、涙がこぼれ落ちる。


(これはきっと、メルラが何百年もかけて抱えてきたものだ)


 ヒエイはすぐにそれを悟る。一体彼女は、どれだけたくさんの悲しい風景を見、それに耐えてきたのだろう。


「託しましたよ」


 光が消えると、メルラはヒエイに微笑みかけた。それから空を振り仰ぎ、力尽きたように目を閉じる。


「天気の使徒よ、お願い。……フレイアを、救って」


 その言葉を最後に、メルラの口からはもう、何も紡ぎだされることはなかった。ただ、安らかな表情で横たわる、彼女の顔をしばらく見つめてから、ヒエイは大きくうなずいて飛び立った。

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