63 ヒエイ対天使
メルラに治癒を施そうと堤防におりようとしたヒエイは、背後から突然さした光に思わず振り返り、そのまぶしさに目をすがめた。
湖の上空に、光をまとった人がいた。同じ高さまで浮遊し対峙したヒエイに彼は言う。
「よくも、我の下僕を痛めつけたな」
実際に見るのは初めてだった。しかしそれが天気の天使だということは、ヒエイにはすぐに分かった。それを確信させるような姿かたちをし、雰囲気をまとっていたから。純白の衣をまとった天使は、男か女かわからぬ美しい容姿をしていた。姿は人だが、背には左右三対の純白の羽根。頭の上には黄金の丸い環をいただいている。そしてどこから発するのか、その姿かたちの輪郭からまぶしい光が漏れ出ているのであった。
「ゴミのような人間の分際で」
美しい、透き通るような声は、かつて宮殿できいたあの声に違いなかった。そして、その尊大な態度も。
「我が自ら手を下してやるわ。この罰当たりめが」
頭上の雲がうなりを上げる。こころなし先ほどまでよりさらに黒くなったように感じる、その曇り空の各所で、黄色い光がいそがしくはしった。
「落ちよ百雷」
耳をつんざくような雷鳴がいくつも重なり合ったかと思うと、雲のいたるところで発した雷撃がヒエイを襲った。
(ああ。すごい光と音だな)
でも、似ている。と、ヒエイはぼんやり思う。あれは、あの岩屋の中でさんざんくらった、真なる雷の使徒ライデンの攻撃だ。
(痛かったな。でも、あれはもう、効かないよ)
天に手をかざし、深く呼吸をする。すると、その手を起点として彼を取り囲むように球体の空気の層が出現し、襲い来る雷撃のことごとくを弾き飛ばした。
「ゴミのくせに生意気だな。これならどうだ」
見下すように笑った天使は天を指で示す。その指の先の直上を中心に雨雲が渦を巻き始める。
足元の水面が騒がしいのでふと下を見ると、湖の水も大きく渦を巻いていた。
「いでよ、水龍雷虎」
天使が両手を組み合わせ唱える。すると上空の黒雲の渦の中心から雷をまとった虎が、下の渦潮からは刃のような鱗をもった龍が、咆哮をあげながら姿を現す。どちらも大きい。その不気味な咆哮は大気をゆらし、嵐のような大風をおこす。水龍雷虎。二体の巨大な獣は暴風を巻き込みながら、牙をむいてヒエイへと襲い掛かってきた。
(これは、複数の現象を合体させた技だ)
真なる使徒たちの技を合わせたような攻撃。しかしヒエイはあわてなかった。
(あの方なら、きっと微笑みながらいなすのだろう)
ヴォルヴァ様の姿が脳裏をよぎる。彼を取り囲んでいるのはマホロバの穏やかな自然だ。暮れてゆく空。のんびりとたゆたう雲と緩やかに吹きすぎてゆく風。木の葉のささやき、鳥の声……。花の香りをかぐように、ヒエイは大きく息を吸う。
吸った息を吐きながら、ヒエイは右手を上空にかざし、左手を水面へと伸ばした。雷虎と水龍に飲み込まれようとした瞬間、その両手を、舵輪を回すようにくるりと回転させる。
今にもヒエイに衝突しそうだった雷虎と水龍の軌道が逸れる。すぐさま反転してヒエイに襲い掛かろうとする水龍雷虎。しかしまたしてもヒエイに達することなくそのわきを通り過ぎる。ヒエイが両手を回す。龍と虎が尾を引きながら彼の両脇を逆方向に通り過ぎていく。ヒエイの両手の回転に合わせ、両獣は彼を中心にぐるぐると回りはじめた。
回転を繰り返すうち、いつしか二つの凶暴な獣は混ざり合いながら縮んでゆき、しまいにはゴムまりほどの大きさの球体となってヒエイの両掌の間を浮遊していた。
ヒエイの目が、はじめて鋭い光を放って天使をにらんだ。
両掌の間の球体を天使に向けて放る。すると球体は強力な重力にひかれるように、青黒い光線となって天使を貫いた。
「まだまだ」
ヒエイは手を合わせて念じる。すると彼の背後に青い槍が出現する。紅く燃える芯をもち、火花を散らす水の槍。先ほどメルラに食らわせたものだ。一本また一本とそれは出現し、ヒエイの背後に並んでゆく。
(まだ、まだ足りない)
六本。ヒエイの息が荒くなり、鼻から血が垂れる。しかし彼は念じるのをやめない。ようやく構えを解いたのは、並ぶ槍が八本を数えてからだった。
(これで、決める)
ヒエイは右手を振り上げ、槍の一本をつかむ。すると残りの七本も一斉に矛先を天使に向けた。
「四神八槍」
槍を天使に向け、力の限り投擲する。それを追うように背後の七本も次々と天使に襲い掛かった。
天使は避けようとしなかった。その体に四方八方から槍が突き刺さる。八本すべて命中。刺さった槍たちはほどなく青い光を強めたかと思うと、一斉に大爆発をおこした。
〇
青白い靄が晴れてみることができたのは、無傷の天使の姿だった。
肩で息をしながら様子をうかがっていたヒエイは、大きく息を吐いて苦笑した。
「まいったな」
手ごたえはあったと思う。しかし天使の体どころか羽根にさえ、一つの傷もついてはいなかった。
ヒエイの表情がはじめて曇る。四神槍は一本でもかなり力を使う。それを八本一度に撃った。それで相手に与えたダメージがほとんどないというのは、正直計算外だった。
「かなり疲れているな」
ヒエイを馬鹿にするように天使は鼻で笑った。
「どうした。もう、終わりか」
「そうだ。これから終わらすさ」
「やせ我慢をしおって。わからないわけではあるまい。我とお前の力の差が」
「たしかに……あなたは強い。そんなのは最初からわかっている」
呼吸を整えながらヒエイは天使を見据える。
「だが、ひとつ問いたい。天使よ。これだけの力を持っているのに、なぜ人々を困らせることばかりする。人を泣かせてばかりいる。それだけの力があるのなら、多くの恵みをもたらすことだってできるのに」
「バカなことを訊くな。きまっておろう」
天使は腕を組み、重々しい表情で答えた。
「ゴミどもが泣き叫び悲しむ姿を眺めているのが、楽しいからだ」
天使の表情がぐにゃりとゆがみ、つづいてその口から大きな笑い声が漏れた。その見た目に似合わぬ、下卑た笑い声だった。
「恵み? ばーかか。そんなものゴミに与えるわけがあるまい。あいつらはむせび泣いて我を喜ばせるためにいるのだからな」
上空の雲が低くなる。どす黒く垂れこめる雲の底から、雨が、さらに激しく降り落ちてきた。雨粒が大きい。そしてその数と落ちる勢いは先ほどまでのそれをはるかに凌駕する。
天使が舌なめずりをする。
「例えば、家が押し流され、街が壊滅すれば、奴らはどんな泣き顔をさらすのかな」
これは、いけない。
ヒエイはとっさに両腕を広げて意識を集中する。すると、激しく降り落ちていた雨粒のすべてが、空中で静止した。
「そんなこと、させない」
ヒエイは歯を食いしばる。体が重い。ルシフェル中の雨を停止させたが、その負荷は相当のものだ。力をかなり消耗している今のヒエイにはかなりしんどかったが、しかしほおっておくことはできなかった。このままだと、ルシフェルは本当に壊滅してしまう。力の続く限り、この雨を抑えなければ。
雨粒たちがゆっくりと空中を下降してくる。ヒエイはさらに意識を集中し、力を放つ。
「隙だらけだぞ」
その声にハッとして、目を開く。
目の前に天使がいた。まぶしく光る剣を頭上にかざし、虫を踏みつぶさんとしている少年のような目でヒエイを見下ろしている。
ヒエイはそれを避けることができなかった。
振り下ろされた天使の剣が、ヒエイの胸を直撃する。
吹き飛ばされたヒエイは、空から一直線に落ちてゆき、湖の堤防にたたきつけられた。
〇
激しい衝撃が全身を襲う。
視界が白く染まり、意識が遠のく。
雨を止めていた力が抜けてゆくのがわかる。ヒエイは必死に天を支えようと思うが、力が入らない。
ああ、だめだ。雨が……。
薄れゆく意識の中で、悪いイメージばかりが広がってゆく。滝のように降り落ちる雨。流される人々。水没する街並み……。
(みんな……ごめん)
帳を引くように、世界が暗くなってゆく。
その闇の中に突然、一滴の水が落ちて波紋を広げた。
ほんの数秒。己の胸に手が当てられる感覚とともに、消えかけた意識が戻る。痛みと疲れが引いていく。ヒエイは恐る恐る目を開いた。
空を見上げたヒエイはわが目を疑った。
雨はまだ、大気中で停止していた。自分の力は働いていないのに、嘘のように先ほどと同じ状態で、豪雨は抑えられているのだった。
「ようやく、お目覚めですか」
傍らでしたその声に、ヒエイは今度はわが耳を疑いながら振り返る。
「メルラ!」
「年上を呼び捨てとは、失礼な方ですね」
ヒエイの傍らに膝をついて、メルラは空を見上げていた。その右手をまっすぐに天に向けてかざしている。
「あなたが、この雨を止めてくれたのですか」
「このくらい、たやすいことです」
天を見据えながら答える彼女の表情は、しかし苦しそうだ。伸ばしている右腕も小刻みに震えている。無理もない。ヒエイの攻撃に
よって相当なダメージを負っているはずなのだから。その体で、ルシフェルの雨を抑えるのは、下手をすれば命にかかわる。
「無茶だ」
「見くびらないでください。これでも、元真なる水の使徒ですよ」
「しかし、あなたは……」
今は天使の付き人ではないですか。
そう、言おうとしたとき、頭上から光が降ってきた。天使だ。彼は、堤防の上空からメルラを見下ろして、冷たい声で命じた。
「おい、何をしているメルラよ」
「ごらんの、とおりです」
メルラが声を震わせながら答えると、不快そうに眉をひそめる。
「我は、雨を降らして街を流したいのだぞ。邪魔をするな。今すぐ雨の停止を解除しろ」
「嫌です」
メルラは即答した。まったく躊躇なく。天使の命令を払い落とすように。
場が、静まり返る。ヒエイは口を開けてメルラを見る。信じられないことだった。天使の付き人である彼女が、天使の命令を拒否するなど。
天使もまた、言葉を失っている様子だった。ただ、飼い犬に噛まれたような顔で、メルラをにらみつけていた。
そんな天使を見上げ、メルラはさらに声をあげる。
「もう、うんざり。民に意地悪ばかりをして、何が楽しいの? あなたには愛想が付きました。これ以上、ついていけません」
そして笑った。声を上げて。今まで見たこともないくらい愉快そうに。まるで本当の少女が遊んでいるときみたいに、無邪気に。
「やっと、言ってやった」
息を弾ませながらそう言って、気持ちよさそうに目を閉じた。
「ああ、すっきりした!」
ヒエイはその顔に一瞬見とれた。つきものが落ちたようなその表情だった。
(ああ、メルラは本当は、こんなに明るいほほ笑み方をする人だったのか)
その時頭上で強い光が放たれた。
次の瞬間メルラの胸を黒い光線が貫き、彼女は微笑んだまま地面に倒れた。




