58 再会
フレイアの王都ルシフェルは、今日も雨だ。
元老院会館四階の、だだっ広い廊下から窓の外を見上げたメルラは、人知れずため息をついた。
雨空を見てため息をつくなんて、自分はどうしてしまったのだろう。
そう、思うのだが、どうしても気が滅入ってしまう。昼だというのにシャンデリアの明かりがともっていても暗い廊下に。窓の表面を滝のように流れ落ちる水に。そしてまるで銃の一斉射撃のように屋根を打ち続ける雨音にも。
雨は大好きだった。しかしここ最近の雨量は常軌を逸している。昼も常に空は夜のように暗く、がけ崩れが頻発し、水路はあふれ、街の各所で冠水がおこっている。
違うのだ、と、彼女はだれにでもなく言い訳をする。雨は好きだった。雨の降る、水の豊かな土地にしたかった。でも、こんなつもりではなかったのだ。自分の好きだった雨は、けっして、このように人を虐げ、苦しめるものではなかったのに。
もっとも、被害を被っているのは丘の下の庶民の街だけだ。
丘の上の貴族街は無傷。元老院は丘の貯水池の放流をやめようとはしないから。相変わらずためにためたところで一気に丘の下へと流す。おかげでこの王宮と官庁と邸宅の集まる地区だけは水の被害とは無縁だった。
メルラは廊下の長窓に寄り、外をうかがう。そこからは例の貯水池を望むことができた。湖といっていいほどの広大な貯水池には満々と水がたたえられている。この様子だと、ほどなく次の放流が行われることだろう。
意を決して踵を返し、窓の反対側の扉へと進んだ。その重厚で大きな黒い扉を見上げた彼女は大きく息を吸い、そしてゆっくりノックをした。
〇
元老院の議場には数十人の議員たちが雁首をそろえていた。年齢もさまざまの男女。若きは二十代半ばの女史から老いは九十近い老体までいる。当然、みな有力貴族の子弟である。
その議員たちの見守る中、議場の真ん中まで進み出たメルラは、前置きもなく言い放った。
「貯水池から一度に放水するのをやめなさい」
一瞬静まり返った後、議場のあちこちから、異論が噴出した。
「放水しなければ、こちらが水浸しになるではないか」
「そうだよ。たまったものを流して何が悪いんだ」
メルラはうんざりしたように答える。
「流すな、とは言っていません。一度に全部下の街に水を落とすのをやめなさいと言っているのです。流す場所はほかにもあるでしょう。分散して、少しずつ流せば……」
しかしメルラの言葉を遮るように、議員の声は会場のいたるところから飛んできた。
「なーにを馬鹿なことを言っているんだ」
「一度に放水したほうが効率がいいでしょう」
「ほかの水路は小さかったり勢いが悪かったり……。つまり下町につながるあの水路が一番使えるんだよ」
「何度も水門を開いたり閉じたりするのはめんどくさいよなあ」
「そうそう。非効率的だよ」
「つまり、あの水門から一気に流すのが一番我々にとって都合がいいし、楽なんだ」
メルラは敢然と反論する。
「しかしそれでいつも民は困っています」
今度は議員たちの間からせせら笑いがおこった。
「下のことは、下の者たちでなんとかすべきだよ」
「それが奴らの役目だろう」
「そんなことまで面倒見れるか」
「そうそう。教会の話によると奴ら、勝手に避難所をつくったそうじゃないか」
「それは……」
メルラは奮然と答える。
「それは、災害のときのため、民たちが少ないお金を持ち寄って、爪に火をともすようにしてやっとつくったものです」
声に思わず怒気がこもる。彼女は民たちがどんな思いで、どんなに苦労してそれを造ったのかを見ていた。貧しい人たちが貧しいなりに頑張って、力を合わせて造った、ほんのささやかな避難所なのだ。ふんぞり返って税金を搾り取ってるだけの奴らにとやかく言われる筋合いはない。
しかし議員たちはそんな人々の苦労など、鼻で笑うように言い立てる。
「あらいやだ。そんな余分なお金が奴らにある事自体許せませんわ。私はペロちゃんのためのお屋敷を建て替えるのを我慢してるのに。民のくせに生意気」
「われら議員は粥をすすり、民が焼肉ざんまい。けしからん」
「余裕があるなら、もっと搾り取らねばな」
「ねえ、我々貴族の権利が侵害されていると思いませんこと? もっともっと、私達の権利を強化すべきよ」
「そうだそうだ。もっと我らは優遇されるべきだ」
議員たちの発言に、メルラは空いた口が塞がらなかった。
何を言ってるんだコイツラは? 民が焼肉ざんまい? 冗談にもほどがある。お前たちが粥をすすっていると例えるのなら、民は水の一滴をようやく口にできるかどうかだ。もっと権利をよこせ? これ以上お前たちは、何の権利を得ようというのか。民からこれ以上、なんの権利が奪えるというのか。
腐っている。
今までも薄々感じていたことだが、今改めて、ほとんど確信に近いかたちでメルラは思う。
コイツラは本当に、頭の芯から手足の末端まで、余す所なく細胞レベルで腐りきっている。
「……もう、結構です」
もはや何も言う気になれなかった。メルラはそうとだけ言うと、悄然と議場から去っていった。
〇
貯水池の、市街を臨む長大な堤防の一角に、劇場ほどに大きな建築物がある。貯水池の監視塔だ。水位の監視をし水門の開閉を操作する、文字通りこの貯水池の司令塔。湖にせり出すようにして建つその建物の窓からは、広大な湖と、巨大な水門を一望することができた。
塔の指令室に入ったメルラは、窓から見える水門の分厚い扉がまだ閉まっていることを確認して、ホッと息をついた。どうやら間に合ったようだ。
「水門を、開けてはなりませんよ」
室内にいる職員たちを睥睨し、冷徹に言い放つ。
八人の職員たちは皆、振り返った姿勢のまま固まって、そんなメルラを唖然と見つめていた。そのどの顔にも書いてある。「なんでお前がそんなことを言うんだ」と。その中の一人の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。たった今、元老院の命令を伝えに来た議員だ。
「なんで……」
指令室の長が、つばを飲み込んでから恐る恐る言葉を発する。
「付き人殿が、ここに? 水門の開閉はわれらの仕事。あなたの感知することではないはず」
その手はレバーをつかんでいる。水門を開閉するレバーだ。それを引かれたら、水門が開いてしまう。
室長の手と顔を交互に睨みながら、メルラは命じる。
「もう、あなたがたにまかせられません。ここは私がやりますので、あなたがたは出ていきなさい」
「……断ったら?」
横から口をはさんだのは、ちょび髭をはやした、神経質そうな顔の議員だった。さっきまで顔を赤くしていた彼は、その口元に薄笑いを浮かべている。
「これは、我らの権利の侵害ですぞ、メルラ殿。それはつまり我らへの反逆。我らに逆らうことは、我らと契約する天使様に逆らうのと一緒。あなたにそれが、できますか」
メルラはうつむいて唇をかむ。
わかっている。そんなことは、ずっと。だから今まで我慢していたのだ。だが、もうほおっておくことができない。たとえそれが反逆になるのだとしても、これ以上は……。
メルラは顔を上げて決然と室内の者どもを見る。議員は勝ち誇ったようにニヤニヤと笑っている。ほかの職員たちもそれが伝播したように余裕の表情だ。どうせお前は逆らえない。そう、だれの目もが語っていた。その目に向けて、メルラはゆっくりと右腕を上げ、己の手のひらをかざした。
「やめときなよ」
背後からの声に、メルラは手を止めた。ゼノだ。彼の声音は普段の軽薄なそれではなく、珍しく真剣だった。
「メルラさんよ。どんなつもりか知らないが、俺は、あんたとは殺り合いたくないぜ」
「邪魔しないでください」
振り返らずにメルラが冷たく言い放つと、ため息が返ってきた。
「どうしても、やるってのかい」
「……ええ、どうしても」
「そうか……」
二人の間に沈黙が走る。言葉の代わりに、闘志が空気を揺らす。お互いの、殺気をはらんで膨らんだエネルギーが今にもはじけそうになる。
突然轟音とともに室内が明るくなり、メルラとゼノは殺気を収めた。
見上げると、天井がほとんど無くなっていて、雨雲に覆われた空が頭上に広がっていた。
「……来ましたか」
降り注ぐ雨粒を顔に受けながらメルラはつぶやく。その口もとにわずかな笑みが浮かんでいることを自覚せずに。
抜けた天井の大穴の縁に、三人の人間が立っていた。一人は女。二人は男。女と真ん中の青年は、メルラのよく知っている顔だった。
「まさか、あなたたちが戻ってくるとは、意外でした。ねえ、ヒエイ君」
メルラが呼びかけると、女はツンとそっぽを向き、真ん中の青年はにっこりとほほ笑んだ。
「ええ」
彼は答える。短く、しかし自信たっぷりに。
「この国を、救いに来ました」




