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6 少女の願い

 イルマ村は、閑散とした小さな村だった。

 秩序なく散らばって建つ藁葺の家々は、どれも貧しげだ。雨に濡れる道に人の姿はみえない。


 もっとも、今更驚くような光景ではない。

 薄暗くて寒々しくて寂しい風景は、今まで通り過ぎてきた村々と同じだったから。ただ、広場にのぞむ教会の側に、立派な二階建ての石造りの建物が鎮座していることだけが、異様といえば異様であった。


「まあ、我々に用のあるところではないな」

「うん。あんな立派な造りなら、おそらく公的機関だ。避けたほうが良い」


 アトラスのつぶやきにヒエイもうなずいて、馬首をめぐらせた。

 村々には教会があり、そこに宿泊することもできるのだが、彼らはそれを利用していない。追っ手が来るならまず教会が標的になると思われたからだ。よって、旅商人用に用意されてる公立の宿泊施設にも立ち寄らない。彼らが寝泊まりするのはもっぱら、貧民宿であった。


 イルマ村でも、ふたりはこの雑魚寝するスペースがあるだけの簡素な設備に泊まるつもりだった。教会や公の宿とは比べ物にならぬ、みすぼらしい建物を探して広場を去ろうとする。


「やめてー」


 その時突然、悲痛な叫び声が広場の隅から流れてきた。

 振り返ると、誰もいないと思っていた広場に数人の人間がうごめいている。あの立派な二階建ての建物の前だった。


 仲良く遊んでいるのではないようだ。よく見れば、ひとりは地面にうずくまっていた。それを何人かの人間たちが取り囲んでいるのだった。彼らはうずくまった人物の背を蹴りつけ、石を投げつける。「やめて」という悲痛な叫びは、そのうずくまった人物から発せられていた。


「やめろっ!」


 状況を把握するや、アトラスが広場に向かって駆け出した。ヒエイは止めようとしたが間に合わなかった。


「目立つのはまずい。住民の印象に残るような真似をしたら、追っ手が来たときに手がかりになってしまう……」


 ヒエイがそう言いつのるあいだに、アトラスは男たちのひとりにおどりかかり、その首根っこを掴んでほおりなげていた。


「なにしやがる、テメェ」


 その場にいた者たちが一斉にアトラスに注目し、気色ばむ。皆若い男たちだった。目つきは悪くて退廃したものをにじませてはいるが、凶悪そうではない。軽装なのをみると、村の若者たちであろうか。


 アトラスは傲然と男たちを睨み返し、怒鳴りつける。


「ひとりを相手にいい男が大勢で寄ってたかって。恥ずかしくはないのか」

「うるせぇ。おっさんはすっこんでろ」


 男のひとりが地面から石を持ち上げて、アトラスに投げつけた。子供の顔くらいはありそうな、大きな石だ。その男はよほど力が強いのだろう。そんな大きな石が、勢いよくアトラスの眼前に迫る。


「危ない、アトラス」


 ヒエイの呼びかけるも、アトラスはそれを避けようとはしなかった。受け身もとらず、棒を構えることもしない。ただ彼は左のこぶしを握り締め、それを石にめがけて突き出した。


 今にもアトラスの顔に激突するかと思われた大石が、空中でバラバラに砕け散った。石に代わってその空間に残ったのはアトラスの握りこぶしだ。彼のこぶしが難なく大石をたたき割ったのである。

 男たちの顔が一様に恐怖にひきつる。腰を抜かしている者もいる。


 そんな若者たちを睥睨しながら、アトラスは低い声で言った。


「貴様ら。この石みたいになりたくなかったら、とっとと失せろ」


 大きい声ではない。しかしそれは地面に響くような迫力で若者たちを震え上がらせた。捨て台詞のひとつも残さずに、彼らは競うように広場から逃げていったのである。


 広場に残ったのはアトラスとヒエイと、先ほどいたぶられていた人物だけになった。


「あ……ありがとう」


 その子は地面にうずくまったままキョトンとしていたが、アトラスが振り返ってほほ笑みかけると、フウドをとって頭を下げた。まだ十歳を少し過ぎたくらいかと思われる少女だった。胸に抱えられている本が大きく見えるほどの、華奢な子だった。


「私、スージーっていいます。私のおじいちゃんはそこの図書館の管理をしています」


 そう言ってまたアトラスを見上げた彼女の目が、キラキラと光っていた。


     〇


「あいつら、今日も図書館で騒いでたの。まったく、やんなっちゃう。遊園地じゃないのよ。もう、我慢できなくって……。だから、今日こそちゃんと注意しなきゃと思ったんだけど……」

「だけどスージー。あまり無理をしちゃいけない。わしの留守中になんて危ないことを……。この方たちが通りかかってくれて本当に良かった」


 そう言って、老人は食卓越しにアトラスとヒエイを眺め、本日何度目かの叩頭をした。


「ほんに、この娘をたすけてくださってありがとうございました」

「いやいや。娘さんに怪我がなくてよかった」


 アトラスもヒエイもにこやかにほほ笑んで老人の謝意に応える。

 久しぶりの温かいスープをすくって口に入れると、胸もほっこりと柔らかくなような気がした。あのあとスージーからお礼をしたいからぜひ家に来てくれとせがまれ、用事から帰ってきた彼女の祖父に挨拶したところ、このようなことになった。夕食の食卓を共にし、今晩泊まる部屋を提供してくれたのだ。こちらこそお礼を言わねばならないところだろう。


 あの二階建ての立派な建物は図書館だった。老人は図書館の管理者で、スージーはその孫娘。スージーの父も母ももうこの世にいない。


 スージーは孝行な娘で、よく祖父の手伝いをしていた。老人が留守の間スージーが図書館の番をするのだが、今日はそこにあの若者たちが来て騒ぎだし、それを注意したところあのようなことになったらしい。若者たちはスージーが読んでいた本を取り上げようとして、スージーがそれに抵抗したのだとか。


 あらためてひどい奴らだとヒエイは思う。しかし一方で若者たちにも少し同情してしまう。彼らの心がすさんでいるのは結局この天候のせいなのだろう。光あふれる世界ならば、彼らだってひょっとしたらもっと優しい人格に成長できたかもしれないのに。全ての元凶はやはりあの天使なのじゃないか。


「ところで、お嬢ちゃん。君が抱えていたあの本は、何の本?」


 暗い想念にかられながら皿をフォークでつつくヒエイの隣で、アトラスが明るくスージーに語り掛ける。

 スージーも我が意を得たりとばかりに笑みをはじけさせた。


「あれはね。天文学の本」

「天文?」

「そう。あの雲の上には、夜になると光の粒が散りばめられるんですって」


 スージーはうっとりと、遠くを眺めるような顔をした。


「信じられないわ。そんな素敵な世界があの沈鬱な雲の向こうにあるなんて。いつか見てみたいわ」

「見せてあげようか」


 思わずヒエイがそう提案したのは、お礼がしたかったからと、スージーの表情に心打たれたからだった。

 守りたいと思った。あの青年たちのように擦れないでほしい。ほんの少しでも星空を見ることができたなら、その感動がこの先心の支えになるかもしれない。母が見せてくれた花吹雪のように……。


     〇


 スージーの家の裏手の丘には、初夏らしい爽やかな風が吹き渡っていた。


 老人に許可を得てスージーを連れ出したヒエイは、アトラスと並んで斜面の草原に立つ。木のあまり生えていない草原で、村が一望できる。まだそんなに遅くない時間だが、寒村の家々からほとんど灯りは漏れていない。


「本当にできるの?」


 アトラスの腕にしがみついてかたずをのんでいるスージーの顔は、不安とこらえきれない期待で少し硬くなっているように見えた。


「ああ。もちろん、できるよ。全部じゃないけど、その一部をこれから御覧に入れる」


 ヒエイはスージーに向かって、舞台上の役者のような大げさな身振りで一礼してから空を見上げた。

 今晩は小雨だ。きっとうまくいくだろう。

 そして空と向かい合って目を閉じ、手を合わせた。

 深く息を吸う。すると初夏の葉の香りと、土の匂いと、水の清涼さが鼻腔から入り込んできて体内を満たした。

 その吸い込んだ大地と大気の香りを息とともに吐きだす。長く。時間をかけて。


 空に向かって両手をかざすヒエイの脳裏にイメージが膨らむ。

 大地と天をつなげる大気が、風となって動き出す。上空へ上空へと、空気を押し流していく。ゆっくりと、しかし確かな力で風は、雨雲に亀裂を入れ、それを左右に押しひらく。


「わあっ……」


 歓声が背後からあがった。スージーのそれだ。思わず漏れ出たといった風情のそれは、控えめだが万感のこもった声だった。小さな胸にしまい込まれた期待のつぼみが花開いた……そんな歓声だった。


 ヒエイは目を開けて空を見上げた。


 丘の上空の雲が裂けて、そこから夜空がのぞいていた。両の手のひらで包み込んでしまえるくらいの範囲だけ。しかしそこから垣間見えるのはたしかに、雨雲のそれとは違う、澄み渡った空の濃紺だ。そしてそこには、その範囲だけでも数え切れぬくらいの大小いくつもの光の粒が瞬いているのだった。


 スージーは最初の歓声のあと、声を発することはなかった。

 振り向いて見ると、彼女はただ口を開けて空を見上げていた。その大きな瞳には、夜空に浮かぶ星々と同じ無数の光が散りばめられている。その光たちはやがて水に溶けたみたいにおぼろげになり、目尻からこぼれ落ちる。


 スージーは泣いていた。

 驚きに口を開け、頬に笑みを浮かべながら、声も漏らさずに涙をこぼして。


「……ありがとう」


 ようやく視線をヒエイに向けたスージーはひとことそう言って、目尻をぬぐった。その一言は、今まで自分がもらったいかなる言葉よりも美しいと、ヒエイには思えた。


 ほどなくして、雲がまた空をふさいだ。

 パラパラと細かい水滴が頬を濡らす。


「さて、そろそろ戻ろうか」


 アトラスがスージーの肩に手をかけ、スージーがうなずく。


 ヒエイもまたふたりに続こうとして、しかし足を止めた。視界の隅に入ったあるものが、そうさせたのだ。


「あれは……何だ」


 そう言って彼は丘の下を指さす。

 村の闇の一か所が、赤く染まっている。よく見ると、それは炎だった。何かが燃えているのだ。

 ヒエイの背筋に緊張が走る。そこが、スージーの家のある辺りだったから。

 同じ不安を前を行くふたりもいだいたようだ。


「急ごう」


 アトラスが呼びかけると同時に、三人は丘の下へと駆け出した。

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