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55 天気の使徒

 開いたヒエイの口から声が出かかる。

 もうやめてくれ。母さんを打たないでくれ……。

 そう、叫ぼうとした、その時だった。


「だめよ。ヒエイ」


 きっぱりとそう言う声があがった。ほかでもない、母の声だ。


 すんでのところで言葉を飲み込んだヒエイが母を見る。彼女の表情は先ほどまでとは一変していた。そこには苦痛の色も恐怖の色もない。顔を歪め弱々しく哀願していたのが嘘のように、静かなその表情だった。母はスカーレットの足を払いのけると、その場に座禅を組んでヒエイを見据えた。口元にかすかに笑みをたたえ、そしてもう一度、諭すように言う。


「声を出してはいけませんよ、ヒエイ。あなたはこんなところで終わってはいけない。幻影などに惑わされてはなりません」


 母の澄んだ瞳にヒエイは姿勢を正す。

 そうだ。これが、本当の母だ。

 ヒエイの脳裏に、母との思い出が鮮やかによみがえる。どんなに貧しくても、どんなに苦しくても、母は泣かなかった。弱音も吐かなかった。こうやっていつも、澄んだ目でヒエイを見つめほほ笑んでいたのだ。


 狼狽の様子を見せたのはスカーレットである。


「な……。こいつ。どうして」


 彼女は眉を逆立て、炎の鞭を振り上げる。炎がその勢いを増しながら形を変える。剣だ。燃えさかる炎の剣を母の首筋に当てて、スカーレットは口をゆがめた。


「切り刻んでやる。それでもそんな澄ました顔をしていられるかしら」


 しかし母の顔色は変わらない。身を乗り出すヒエイを視線で制し、彼女は己に突き付けられた剣に手を添えた。


「いいですか、ヒエイ。私の身体はもうないのです。これはただの抜け殻。本当の私は、常にあなたの傍にいますよ。そう。風のようにね」


 一瞬笑ったかと思うと、母は炎の剣を握り締め、それを自らの喉に突き刺した。

 止める暇もなかった。剣に刺し貫かれた母の身体は、炎に包まれ、あっという間に霧散してしまった。


     〇


 母が消えた後の空間を、ヒエイは愕然と見つめていた。言葉は出てこなかった。出してはならないという試練でなくても、目の前で繰り広げられた光景に対して吐くべき言葉は見つからなかった。


 それはスカーレットも同じであったらしい。しばらく己の役目を忘れたかのように、ぼんやりと目の前にちらつく炎を眺めていた。やがて目が覚めたように振り向くと、にこりともせずにヒエイを少しの間見据えてから彼の背後に回り込んだ。


「幻影が勝手にしゃべりだすなんて初めて。一体どうなっているのかしら。でも、あなたは声をあげなかったから合格は合格ね」


 ヒエイの背中に手が当てられる。


「この試練に耐えた人は本当に久しぶり。……ほとんどの人は、『愛情』を捨てることはできないから」


 背中から熱が流れ込んでくる。身じろぎせずに刻印をうけながら、ヒエイはスカーレットに心の中で言い返す。


(愛情を、捨てたわけではないですよ)


 暖かいものが、全身に染み渡っていく。それは刻印による熱とは少し違うようだった。もっと柔らかくもっと優しく、胸を包み込んでいくような感覚だった。

 いっぱいにためた湯船につかったみたいに、母の思い出があふれていく。


 泣いているヒエイをいつも抱きしめてくれた母。

 公園の木の前で瞑想している母。

 桜の花弁を舞いあげた母。

 つないだ手のぬくもり。

 いつも向けてくれた優しい笑顔……。


(僕はもう、決してくじけないよ)


 ヒエイは力強くうなずく。その目から一筋の涙がこぼれた。


 周囲で燃え盛っている炎が消えた。スカーレットの姿もいつの間にかない。代わりに頭上の各所で猛獣の咆哮のような音が鳴り、闇のあちらこちらで黄色い光が明滅していた。


「おうおう。母親が泣いて助けを求めてるのに声も出さんとは、とんでもねえ奴だな」


 そんな声が降ってきたかと思うと、突然視界が白い光で満たされた。

 耳をつんざくような轟音とともに、全身を砕くような衝撃がはしる。


 体の感覚がマヒしてしまったかと思うほどのしびれに耐えながら顔をあげると、目の前にひとりの小柄な男が立っていた。黄色い髪を逆立てたその男は、大きな丸い目でヒエイを睨みつける。いかにも恐ろしげな顔だがその口元には笑みが浮かんでいた。


「俺が真なる雷の使徒。ライデンだ」


 彼が天を指さすと、真っ暗な頭上のいたるところで稲光がはしった。


「ここまでくる奴は久しぶりだぜ。俺はガイアやスカーレットみたいなねちっこい真似はしないから安心しな。俺の与える試練は、いたってシンプルだ。『苦痛』。これに耐えたら刻印をやるぜ。耐えられたらな」


 言うと同時に再び光が世界を満たす。

 轟音と衝撃、そしてしびれと痛み。ヒエイはたまらずその場に倒れ伏す。全身の感覚が痛覚だけになってしまったかのようだ。


(同じところにとどまってはダメだ)


 今度は身体が動いた。ヒエイは力を振り絞って立ち上がり、次の攻撃を避けようと身構える。


「逃げたって無駄だぜ」


 次の雷撃がヒエイを襲う。横に飛びすさって避けようとする彼の身体に、それはまたしても直撃する。這いつくばったヒエイの頭上で、特大の光が炸裂した。


 光と轟音と衝撃の中で、何かがヒエイの手に触れた。

 己の手を優しく握る、暖かい指と手のひらの感覚。それが誰なのかヒエイにはすぐにわかる。すると不思議なことに体を引き裂くほどの苦痛が嘘のように引いていった。


(そうだね。僕は、ここで終わるわけにはいかない)


 ヒエイは襲い来る光の中で起き上がると座禅を組んだ。


     〇


 雷が次々とヒエイを襲う。絶え間ない雷撃により、その場はあたかも光と雷鳴だけに満たされた世界の様相を呈していた。


 蟻を執拗にふみつける少年のように、ライデンはむきになって雷を落とし続ける。その攻撃は回を重ねるごとに規模と威力を増し、いかなる生命の生存をも許さぬほどの意思と意地を見せていた。


「はぁ……はぁ……。これでまいったか。小僧め」


 ようやく攻撃を中断した彼は、息を切らしながら雷の落ちた後を見る。ほんの僅かに口に笑みをたたえながら。しかしその表情はすぐにこわばり、丸い大きな目はさらに大きく見開かれた。


 ヒエイの様子が、まったく変わっていなかったから。

 涼しい顔で、何事もなかったように座禅を組んでいる。まるでライデンの攻撃など全く効いていないかのようだ。


「なん……だと……」


 いったんあっけにとられた後、ライデンは歯ぎしりをする。


「ならば、これならどうだ」


 彼は再び天を指す。その頭上でどす黒い雲がうなりながら渦を巻いていった。


(無駄だよ)


 ヒエイは座禅を組んだままライデンを静かににらむ。視界に光が満ちて相手の姿はすぐに見えなくなる。それと同時に世界が揺れた。それが鳴り響く轟音によるものであると気づく間もなく、体が砕かれ、四肢が引きちぎられるかと思われるほど衝撃に襲われる。しかしヒエイは、その口から蚊の泣き声ほどの声も漏らさなかった。


(こんなもので、もう、僕は音をあげない。絶対に声を出さない)


 目の前で呆然と立ち尽くすライデンに、ヒエイはかすかに微笑みかけた。


(約束したから。そう、決めたのだからね)


 ヒエイの表情をみたライデンは、残念そうに肩を落とす。


「こんなに強情な奴は初めてだ。俺の負けだぜ」


 観念したようにそう言って、ヒエイの背に刻印を与えた。

 晴れやかな風がヒエイの頬をなでてゆく。なんだか懐かしいな、と見上げると、どす黒かった雲が瞬く間にはらわれて、まぶしいほどに青い空がひろがった。


 目を細めながら視線を下げたヒエイの口が、自然と開いた。

 目の前に、アトラスが立っていたから。


     〇


 アトラスは、ヒエイの記憶にある通りの屈託ない笑みを浮かべて歩み寄ってきた。


「よお、ヒエイ。久しぶりだな。よくやっているじゃないか」


 そう話しかけてくる彼は、かつてそうだったように、実に壮健そうだった。ゼノとの戦いの傷もない。一緒に旅していた、あのころそのままの、陰りのない好青年の姿。ヒエイがこうであったらいいと願っていた彼の姿そのものだった。


 友との再会にヒエイも笑顔をはじけさせる。

 アトラスは生きていた。ゼノとの戦いを生き延びたんだ。

 本気でそう思った。そう思いたかったヒエイは、思わず友の名を呼ぼうとしてしまう。しかし頬を撫でてゆくかすかな風を感じた時、危うく出しかけた声を飲み込んだ。


 真なる大地の使徒、ガイア。真なる炎の使徒、スカーレット。真なる雷の使徒、ライデン……。

 まだもうひとり、真なる使徒が残っている。つまり試練は終わっていない。


 ヒエイの笑みが急速にしぼむ。

 落胆し、しょんぼりと視線を下げた彼の肩に、アトラスの大きな手が置かれた。


「どうしたヒエイ。元気なさそうにして。またアンジュと喧嘩したのか。俺に話してくれよ」


 ヒエイは唇を噛んでアトラスを見た。不思議そうに首をかしげて瞬きをする友。どこからどう見ても、一緒に旅をしたあのアトラスだ。


 このまま、彼と話ができたなら……。

 ヒエイは思ってしまう。

 もう、かなわぬことだと思っていた。でも、もしもう一度……もう一度だけアトラスと話をすることができるなら、それはどんなにすばらしいことだろう。だって、まだ語りたいことがたくさんあったんだ。訊きたいことも、山ほどあった。唐突な別れのせいで、すべて中途半端なまま終わってしまった。せめて別れの一言だけでも……。


「おい、本当に大丈夫かヒエイ。どこか悪いのか。声を聞かせてくれよ」


 心配そうな声とともに、アトラスの腕がヒエイの肩にまわされる。

 目を閉じたヒエイは歯を食いしばり、その腕を振りはらった。その勢いのままアトラスに背を向け、一目散に駆けだす。


「おい。ヒエイよ……」


 アトラスが呼びかけてくる。その声を背にヒエイは走った。空も地面も青くて、前に進んでいるのかわからなかったが、無我夢中でとにかく足を動かした。後ろは振り向かなかった。背後でアトラスは何度もヒエイを呼んでいた。その声が次第に小さくなっていく。


(ごめん……)


 次第に聞こえなくなっていく声の主に、背を向けながらヒエイは謝った。


(ごめんよ、アトラス。そして、さようなら……)


     〇


 アトラスの声がようやく聞こえなくなると、周囲はまた闇に包まれた。その闇の中にぽっかりと穴が開いたように、四角い光が見えた。


 それは扉だった。この空間に入ってきたときと同じような扉が開け放たれているのだ。その扉の前にひとりの男が立っていた。


「僕は真なる風の使徒、ヒューラーだ」


 切れ長の目をした冷静そうな男は、人差し指で己の眼鏡を押し上げながらそう言って、ヒエイに手を伸ばす。


「君は『喜び』にも耐えた。四つ目の刻印を与える」


 刻印を受けた後、扉をくぐって外に出ると、まぶしい光が目を射た。風が肌を撫で、木々のさざめきと小鳥の鳴き声が降ってくる。どうやら入ってきたお堂ではないようだが、元の世界にもどってきたようだ。葉擦れの音も鳥のさえずりもとても久しぶりに聴くような気がした。すぼめていた目をゆっくりと開きながら周囲を見渡すと、そこは池の中にある小さな島だった。周囲の風景には見覚えがある。ヴォルヴァ様の御座所の裏の庭園だ。


「四人の試練によく耐えたね。おめでとう。君は晴れて合格だ」


 話しかけられて振り向くと、ヴォルヴァ様が立っていた。目をしばたたかせるヒエイに彼は、にこやかに告げる。


「もう、声を出しても大丈夫だよ」


 そう言われても、のどがカラカラで、なかなか声を発せなかった。何度かせき込んで、ようやく口から出せたのは、試練の最中からずっと彼に言ってやろうと思っていた一言だった。


「あなたたちは……ひどいことをする」


 ヴォルヴァ様は怒らなかった。ただ寂しそうに目を細めて、


「だから、お勧めしないと言ったよ」


 そう言って優しくヒエイの背を撫でた。


「でも、君は立派に耐えた。どうだい、今の気分は」

「……わかりません」


 ヒエイは率直に答える。以前と変わったような気もするし、何も変わらないような気もする。自分にすごい力が備わったようにも思えない。ただ、妙に軽かった。何がとはっきり言えないけれど、身体も、胸も頭も、余計なものがそぎ落とされたように軽かった。


「今の君には、世界に調和をもたらす力がある。使徒を超越する使徒になったのだよ」

「使徒を超越する使徒? では、僕はもう風の使徒ではないのですか」

「そう。その力も使えるけれど、もっとすごいことができる」

「では、僕は何の使徒なのでしょう?」


 ヴォルヴァ様は答える代わりに、ただほほ笑んだ。彼の頭上で柔らかそうないくつかの雲が流れ、注ぐ陽光がその禿げあがった額に反射して光る。


 ヒエイはあることに思い当たって息をのむ。今まで耳にしたことのないその名称が、唐突に、まるで神の啓示のように彼の頭に浮かび上がる。


 彼はその名称を口ずさむ。恐る恐る。しかし確信をもって。


「天気の……使徒」


 ヴォルヴァ様は大きくうなずいた。

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