54 刻印の儀式
儀式の当日、ヒエイが案内の者に連れていかれたのは、ヴォルヴァ様の御座所の裏の庭園だった。
今日はヒエイひとりだ。アンジュもハザムもホノカもついてきていない。庭園の奥の鬱蒼とした森の、木漏れ日のあたる太い杉と杉の間の道を、彼は案内人について黙々と進んでいく。
やがて崖に突き当たったところで案内人は立ち止まった。
「それでは、私はここで」
そう言ってヒエイをそこに置き、さっさと踵を返す。残されたヒエイの前には崖にはりつくようにして建つ小さなお堂が鎮座していて、その入り口の傍らに、大きな男が立っていた。
どことなくアトラスを彷彿とさせる快活そうなその大男は、ヒエイを見るとニッと白い歯を見せてほほ笑んだ。
「ようこそ。俺は、真なる大地の使徒。ガイアだ」
「お世話になります。僕はヒエイです。このたびは、ええっと……」
ヒエイが膝をついて挨拶の言葉を吐こうとすると、ガイアは屈託のない声で笑った。
「堅苦しい挨拶はぬきだ。早速、儀式の説明をしよう」
そう言ってヒエイを発たせ、お堂の扉をうやうやしく開いた。
「まあ、入りたまえ」
すすめられるままにお堂の中へと足を踏み入れる。薄暗いお堂の中は、耳が痛くなるほどに静かだ。ひんやりとしていて、どことなく清涼感のある香りがした。
「うん。第一段階クリア。ちゃんと資格はあるようだな」
声に振り返ると、入り口の前で腕を組んだガイアが、人の悪そうな笑みを浮かべていた。
「資格のない者がこのお堂に入ると、全身から血を噴き出して死ぬ」
「え?」
ヒエイの首筋を汗が伝った。汗……だよな。それをぬぐって、恐る恐る血ではないことを確かめ、彼は胸をなでおろす。
「今からそんなにびくびくしてたら、あとがもたないぞ。さあ、改めて説明をしよう」
そう言ってガイアはお堂の奥へと進む。奥には岩肌が露出していて、そこにもう一つ扉がついていた。
「やることは単純だ。これから君はいくつかの幻を見る。だが、何があっても、声を出してはいけないよ」
「それだけですか」
「そう。それだけ。最後まで声を出さずにおれたら、合格だ」
ヒエイは疑わし気な視線をガイアに向けた。ホノカの話とはずいぶん違うと思ったから。多くの者が命を落とすか棄権し、彼女が血相を変えて制止しようとした試練が、こんな簡単そうなこととは、なんだか合点がいかない。ただ声を出さないなんて、誰でもできそうなことではないか。
「さあ、覚悟はいいかね」
ヒエイの拍子抜けした顔をまた人の悪い笑みでみつめながら、ガイアは奥の扉をゆっくりと開いた。
〇
扉の向こうは暗くて、何があるのか全くわからなかった。
「まっすぐに進んでいきたまえ」
ガイアの声に促されてヒエイはその闇に足を踏み込む。背後で軋みながら扉が閉まると、彼の視界は一寸先もわからぬほどのまったくの暗闇に塗り込められた。
その暗闇の中を、手探りで恐る恐る前に進む。障害物はないようだ。しかし、まっすぐと言われたものの、あまりにも闇が濃すぎて、はたしてどちらに向かっているのかわからない。そもそも前に進んでいるのかも定かではない。それでもしばらく足を動かして闇の中を漕いでいるうちに、前方にぼんやりとした光が見えた。
それはトンネルの出口のようにしだいにヒエイに近づいてきた。
その光に駆け寄ろうとして、しかしヒエイは足を止めた。
光の中に誰かが立っている。小さな女の子だ。
(あの子は……!)
おもわず声をあげそうになって、ヒエイは慌てて口をふさいだ。声を出してはならないというガイアの言いつけをとっさに思い出したからだ。
(いかん、いかん。さっそく禁をやぶってしまうところだった。しかしあの子が、どうしてここに……)
その少女のことはよく知っていた。何を隠そう、ヒエイの初恋の女の子である。あれからもう十年以上時がたっているはずだが、不思議なことに彼女はあの時と同じ、子供の姿だった。もちろん今もフレイアの王都ルシフェルにいるはずだ。それが、どうしてナイアスにいるのだろう。
ヒエイの疑問をよそに、女の子はその辺で摘んだ花を握って、光の隅でうずくまっている少年のもとへと歩み寄っていった。
女の子に背をなでられると少年は顔をあげた。その顔を見てヒエイはまたしても声をあげそうになる。それが子供のころの自分だったから。
(そうか。これは、幻なんだ)
声を殺しながら、彼はようやく理解する。目の前の光の中で繰り広げられているのは、過去のあるシーンを映した幻なのだ。
それを理解しても、たかが幻……と安堵することは、しかしヒエイにはできなかった。むしろ暗澹たる思いにかられる。これから何を見せられるのかわかってしまったから。
その少女……名前はミヨちゃんといった……は、ヒエイの初恋の女の子だった。小さいころから気の弱かったヒエイは、よくほかの子たちから意地悪されたり仲間外れにされたりしていたが、彼女だけはいつもヒエイに優しかった。そんな彼女に憧れ、恋心を抱くようになったのは自然なことだった。ふたりはよく一緒に遊んだりお話ししたりした。いつもふたりだった。そしていつしかヒエイは確信するようになった。ミヨちゃんもまた、自分のことが好きなのに違いないと。
目の前の光のスクリーンの中に、花束を持ったヒエイ少年が姿を現す。
ヒエイは目を閉じようとした。どの場面かすぐにわかったから。忘れもしない。十年前の7月29日のことだ。
(もう、たくさんだ)
しかし、どういうわけか目を閉じることができなかった。顔を背けることも、耳をふさぐことも、動くことさえ。逃げることも許されず、ヒエイは目の前で繰り広げられるシーンをむりやり直視させられた。
ミヨちゃんは公園の樹の下に立って空を眺めていた。ヒエイ少年には気づいていない。花束を背中に隠したヒエイ少年が、背後からミヨちゃんに駆け寄る。そして同じ木陰に入って声をかけようとしたその時……
ミヨちゃんがヒエイ少年とは逆の方を向いてパッと笑顔をはじけさせた。そして木陰から駆け出す。彼女の笑顔の先には男の人がいた。ヒエイの知らない人だ。背が高くて、がっしりとしていて、そしてハンサムな男の人だった。その男の人に駆け寄ったミヨちゃんは、ためらいなく彼に抱き着き、そしてキスをした。
ヒエイ少年の手から花束が落ちる。独り樹の下でうなだれる少年の背中の、なんと哀れで淋しげなことであろうか。
ヒエイは当時の気持ちを思い出し、叫びだしたくなる。惨めだった。いたたまれなかった。しかしすんでのところで喉を締め、声を飲み込む。これは修行。耐えねばならぬ。
「ほお。こらえたかね」
闇の中から声が流れてきた。その姿は確認できないが、ガイアのそれだ。
「じゃあ、これはどうかな」
光の中のシーンが切り替わる。ミヨちゃんにかわってそこに映し出されたのは、黒いロングヘアーの女の人だった。
あれは、カヨちゃん!
ヒエイは口を手で押さえる。その様子をあざ笑うように、またもガイアの声が降ってくる。
「もうわかったかもしれないが、君が観ているのは、君の過去の恥ずかしい経験だ。これから君は、かつての自分の惨めな姿、ぶざまな姿を嫌というほど見、思い出すことになるだろう。やめてくれと声をあげたくなるほどにね」
忍び笑いと共にガイアの声は遠ざかっていった。
悪趣味な、と腹を立てる余裕はヒエイにはなかった。自分がカヨちゃんにした仕打ちを思い出し、戦慄していたから。カヨちゃんはヒエイが二番目に恋した女の子だった。相思相愛だった。きっとずっと付き合って、将来この人と結婚するのだろうとさえ思っていた。しかし……。
カヨちゃんの助けを求める声がきこえる。目の前の映像の中で、彼女は数人のチンピラに絡まれていた。ヒエイ少年もその場にいる。しかし彼は、何もしなかった。ただ指をくわえて恋人の危機を眺めていたかと思うと、やがて彼女に背を向けて逃げ出した。
あまりの格好悪さに、ヒエイは頭を抱えてその場に座り込みたくなる。しかしそれはできなかった。体は相変わらず動かない。目を背けることも。まるで岩に貼り付けられたように、彼の身体は自由がきかなかった。
(これは、まるで拷問だ)
カヨちゃんの平手がヒエイ少年の頬を打つシーンを眺めながら、ヒエイは思う。体の自由を奪われ、彼女の虫けらでも見るような視線にさらされるのは、磔にされて何本もの槍でつつかれるのと同じくらい苦痛だった。まさにこれは精神の拷問と言ってよかった。
ヒエイは眉を逆立て歯を食いしばる。
(負けるか。こんなことに、負けるものか)
その後もヒエイの黒歴史の数々が、彼の目の前で繰り広げられた。
次々と繰り出される二度と思い出したくない場面を細部にわたるまで、恥ずかしさに身もだえしながら、ヒエイは血走った目で見続けた。
〇
寮母のクレアさんの寝所の前で覗き魔と間違われたときのシーンが終わった後、目の前の映像が消えて周囲は再び闇に包まれた。
ふいに体を縛り付けていた力が解け、自由になったヒエイはそのまま地面にへたり込んだ。手をついて荒く息を吐く彼の頭上にガイアの声が降りかかる。
「やれ。耐え抜いたか。たいした奴だな、おめでとう」
それと同時に、背中に手をあてられる感触があった。ガイアの手だろう。
痛みや衝撃はなかった。ただじんわりとした熱が体内にしみこんでくる感覚があったかと思うと、やがて彼は手を離した。
「ひとつ目の刻印を与えた。さあ、次に行くがよい」
突然、周囲が明るくなった。
太陽の明るさではない。気がつくと、ヒエイの周囲で炎が燃えさかっていた。
「あらあら。かわいいお顔をした子だこと」
今度の声はガイアのそれではなかった。やさしく甘い、つつみこむような声だ。ヒエイが振り返ると、炎と炎の間に女の人が立っていた。赤い髪を結いあげ、ドレスの上に白いエプロンをつけた若い女の人だった。ニコニコとほほ笑んでいるその表情は、慈母のようにあでやかで優しげだ。しかしその優しそうな風貌とは裏腹に、手には物騒な鞭を持っていた。
「私は真なる炎の使徒、スカーレット。次なる試練はこれです」
彼女は数歩歩んで目の前の炎を吹き払う。
ヒエイは目を丸くして口を開けた。姿を現したのはヒエイの母だった。
(母さん! どうして……)
ヒエイの母は彼が幼いときに亡くなっている。目の前の彼女が幻か偽物であることは明白だ。しかし、ヒエイにはそうは見えなかった。あまりにも本物だった。生きていたころの母そのものだった。
(母さんを出してどうしようっていうんだ? まさか……)
驚きを隠せぬ表情のままヒエイはスカーレットを見る。そんな彼を見返したスカーレットは、彼の不安を楽しむように目を細め、おもむろに鞭を持つ手を振り上げた。
「あなたはこれに、耐えられるかしら?」
鞭が炎に包まれる。その燃えさかる鞭を、スカーレットは躊躇なく母へと振り下ろした。
(やめろぉ!)
ヒエイは心の中で叫ぶ。その心の叫びをかき消すように母の口から悲鳴が上がった。彼女の背から血がほとばしり、目から涙が散り落ちる。
「痛い! やめてぇ……」
母は涙ながらに懇願するも、スカーレットの表情は変わらない。むしろその様を見下ろす顔は愉快気だ。
「あら? いい声で鳴くのねぇ。まだまだ、こんなものじゃないわよぉ。もっと鳴きなさい。それ、それぇ!」
自分のスカートに縋りつく母に、スカーレットは二発、三発と鞭を振り下ろした。そのたびに母の身体から血が飛び、悲痛な叫びがその口から絞り出される。
「やめてぇ! もう、ゆるしてぇ」
ヒエイは目をつむりたかった。耳をふさぎたかった。しかし今回もガイアの時と同じく、彼の身体の自由はきかない。ただただ拷問のように、母が打たれる光景とその悲鳴に耐えなければならなかった。
ボロボロになって地面に這いつくばった母が、ヒエイを見つめ、手を伸ばした。
「たすけて……。ヒエイ……」
(やめてくれ……。もう、やめてくれ)
ヒエイは涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃになった顔で母を見、そしてスカーレットを睨んだ。もう、母を傷つけるな。その強い意志をこめて。
ヒエイの視線に気づいたスカーレットは、母の身体を踏みつけながらほほ笑みかけてきた。
「あなたのお母さんを救う方法がひとつだけあるわよ。簡単なこと。ただ一言、『母さんに手を出すな』というだけ」
そんなことをしたら、試練は終わってしまう。
ヒエイはスカーレットの意地悪な笑みと、母の顔を交互に見る。答えはすぐに決まった。
もうたくさんだ。こんな試練、バカげている。たった一言で済むなら。それで、母さんの苦しむ姿を見ずに済むなら……。
ヒエイは目を閉じ、母を救う言葉を紡ぎだすために、大きく息を吸った。




