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52 別れ

 空間一面を覆った白い光が消えたあと、戻った闇の深さにしばらくヒエイは何も見ることができなかった。


 嘘のように静かだ。

 何事もなかったように沿岸の樹木がさざめき、闇の底をせせらぎが流れていく。

 やがて月の明かりに照らされた風景が、やんわりと視界によみがえってきた。

 岸辺にひとりの人物がうずくまっているのが見えた。ひとりだけだ。その男は両の手のひらを合わせて突き出した姿勢のまま、祈るように膝をついていた。


「アトラス!」


 ヒエイは叫んで駆けだした。


「大丈夫か? あいつはどうした」


 言いながら彼の傍らに寄り添い周囲を見渡す。川原にも岸辺にも川にもゼノの姿を見出すことはできない。


「やっつけたのか」


 緊張が解けて、へなへなとその場にへたり込んでしまった。アトラスが勝ったのだ。あの、天使の付き人に。その事実をかみしめると、力の抜けた顔に思わず笑みがひろがった。


「すごいな、君は」


 緩んだ口からは、普段以上に饒舌に言葉がこぼれ出る。


「ほんとうに、すごい。あの天使の付き人をやっつけるなんて。だって思ってもごらんよ。どう考えてもあいつ、人間じゃなかったよ。あの巨体に赤い体。怖かったなあ。僕はもう、ダメだと思ってたけど、さすが君だ。君ももう化け物の域だな。いや、これは誉め言葉だよ。君を尊敬するよ。ひょっとしたら、君単独でも天気の天使をやっつけられちゃったりして……」


 ヒエイははたと口をつぐむ。アトラスからの反応がないのが気になったのだ。疲れ切っているからだろうか。それもそうかと思う。天使の付き人を倒すほどの力を使ったのだ。きっと今彼は、話す気力もないに違いない。


「ごめんよ。すぐに回復してあげたいけど、僕も力を使い切っているから今はそんなに回復させられないんだ。でも、何とか歩くぐらいなら……」


 両手をアトラスの背に向けてかざす。ほんのり薄い光がその手で明滅する。しかし、アトラスの身体は動かない。


「アトラス?」


 不審に思ってヒエイはアトラスの顔を覗き込んだ。

 アトラスは目をつむっていた。その表情は微動だにしない。寝ているのでも、気絶しているのでもないことはすぐに分かった。血まみれだが、苦痛の色はそこになく、むしろほほ笑んでいるようにさえ見える。安らかな顔だった。


「い……嫌だなあ、アトラス。また僕をだますつもりかい。もう、その手にはのらないよ」


 顔をあげると、アンジュがアトラスの傍らにうずくまって、じっと彼を見おろしていた。


「ねえ、アンジュ。また君が一服盛ったんだろ。いつの間にやったのか知らないけど、悪い冗談だよ。アトラスはいつ目覚めるんだい」


 アンジュは答えない。ただ下を向いたまま首を左右にふったかと思うと、伏せた顔を両手で覆った。

 ヒエイは大きなため息をついて空を見上げた。


「アトラス、覚えているかい」


 どこに向けてでもなく彼は語り掛ける。


「ナイアスに向かう船の甲板で、君と語り合ったよね。天気の天使をやっつけたら何をしたいかって。君は言った。家庭を持って、休日にはピクニックをして、日向ぼっこをしながら昼寝をするんだと。いい夢だなと、思った。僕はそんな君の家に訪問することを、楽しみにしていたんだ」


 その目に、たちまち涙があふれた。


「死んじゃったら、もう、できないじゃないか……」


 見上げる夜空が水に沈んだみたいにゆがむ。ぐちゃぐちゃになった月が流れていく。何度も何度も、月は彼の視界から零れ落ちていった。


     ○


 アトラスが死んだ。

 そのことを理解しても、ヒエイは彼の身体に手をかざすことをやめなかった。もう光を放つことのできなくなった手をのばして、必死に念じる。

 治れ。と。

 治れ。治れ。治れ。……治れ。


「ヒエイ……」


 アンジュが遠慮がちに声をかけてくれても、ヒエイは姿勢を崩さなかった。


「まだ……。まだ、わからないじゃないか。僕ならできる。蘇らせられる。あの公園の桜の木のように……」


 ヒエイの背に手がのせられる。優しく、いたわるように。


「そうなったらどんなにいいだろう。ヒエイ。でも、わかってるんだろ」


 アンジュの指摘にヒエイはがっくりと肩を落とす。

 わかっていた。あの桜は、まだ生命力が残っていた。あの時ヒエイはそれを引き出しただけだったのだ。失われた命を、蘇らせることはできない。

 アンジュの手のひらが、ゆっくりと彼の背をなでた。


「もう、いいよ。ヒエイ。アトラスを休ませてあげようよ」


 優しい、優しいアンジュの声だった。

 その声音に、視界が再び涙でゆがんだ。

 ヒエイの両手がようやく構えを解いて、地面に垂れる。


 その時だった。

 突然静寂を破って、轟音がおこり、水柱があがった。

 ヒエイは弾かれたように顔をあげた。

 水しぶきと土埃の向こうに、黒く巨大なシルエットが見えた。その巨体は、ほの赤い光をまとい、夜の闇よりも黒い殺気を放っている。

 戦慄がヒエイの全身を貫いた。


「そ……そんな」


 喉から絞り出した声が震える。心臓が強く鼓を打つ。胸を激しくたたく、その鼓動はどんどん速さを増し、呼吸は浅くなっていく。


「ゼノ……。生きていたのか」


 立ち上がろうと思うのだが、身体が動かなかった。手にも脚にも力が入らない。力を入れようとするとふるえて、どうにも思うようにならなかった。

 アンジュも同様のようだ。ヒエイの隣にうずくまったまま、ただ茫然とゼノを見上げている。その顔は夜目にもわかるほど蒼白でこわばっていて、怯えの色さえ浮かんでいた。


「そいつは、死んだのか」


 身動きの取れないふたりの前に立ったゼノは、アトラスを見下ろして訊いてきた。ヒエイもアンジュも答えることができなかったが、ゼノは勝手に察したようだ。


「そうか……」


 不機嫌そうに口をへの字にまげると、右の拳をふりあげた。


「じゃあ、そろそろ終わりにしようか」


 その拳に赤い光が灯る。ヒエイは思わずアンジュをかばう姿勢をとる。


(ああ。ここまでか)


 アトラスの笑みが、一瞬脳裏をよぎった。覚悟とあきらめが、静かに胸を染めていく。

 その時だった。闇を裂いて、のんびりした声が飛んできたのは。


「ああ……。もしもし?」


 ゼノの手がとまる。

 川原の石を踏む音がする。

 ゼノがその音のするほうに顔を向けた。

 ヒエイたちも振り返る。

 そこには場違いなほど緊張感のない顔をした男が、のんびりと立っていた。


     ○


 それは小太りの、小柄な男だった。あごと頬に不精髭をはやし、メガネをかけている。どこにでもいる中年の男だ。近隣の住民だろう。あれだけの戦闘をしたのだ。その常ならぬ音に驚いて、様子を見に出てきてしまったのかもしれない。


「危ない、おじさん。早く逃げるんだ!」


 ヒエイは避難を呼び掛けるが、それと同時にゼノが男に向けて拳をふった。

 ゼノの拳から放たれた衝撃波が容赦なく彼を襲い、巻き上げられた瓦礫と砂がその姿を覆い隠す。


「なんてことを……」


 ヒエイは愕然と、土ぼこりの舞う空間を眺めた。あのおじさんが消し飛んでしまったことは明白だった。一般人に耐えられるものではない。


「なにも、殺すことはないじゃないか。相手は一般人だぞ」

「あ? なに言ってんだ」


 ゼノがヒエイの非難をあざ笑う。


「そんなの知ったことか。殺すも殺さないも俺の気分しだい……だ……」


 視線をヒエイから川原に向けたゼノの目が、丸くなった。

 振り返ったヒエイも、わが目を疑った。

 おじさんが、まだそこに立っていたから。立っていたどころではない。全くの無傷で、構えも受け身もとらず、何事もなかったかのようにニコニコしている。


 攻撃が当たらなかったのか。

 ヒエイが首をかしげる間に、ゼノの姿が彼の目の前から消えた。おじさんにとびかかっていったのだ。奴は今度は直接拳を叩き込まんと、おじさんの目前で拳を振り上げた。

 巨大な拳がおじさんの顔の前に迫る。しかしそれも、彼にあたることはなかった。


 おじさんの華奢な手が、ゼノの拳をとめていた。やはり構えの姿勢すらとらず、ぽつねんと突っ立ったまま、挨拶でもするみたいに左手を無造作にあげて受け止めただけ。しかしその手は、ゼノの攻撃をぴたりと止めて全く動かない。

 ゼノの額に青筋がたつ。その腕の筋肉が盛り上がり、皮膚が赤く発光する。しかしその拳は微動だにしない。明らかに本気を出している様子なのに、奴のパンチはおじさんの左手を一ミリも押すことはできなかった。その間おじさんはずっと涼しい顔のまま。一方でゼノの表情がどんどん険しくなっていく。


「どうなってるんだ、これは。お前は一体、何なんだ」


 ゼノの言葉に、おじさんは初めて柔和な表情を改めた。


「何なんだ、だって? お前さんこそ、ひと様の国で大暴れして、何なんだい?」


 彼が低い声で言ったとたん、ゼノの腕から炎が吹きあがった。

 驚いたゼノが思わず腕を引き、飛び退る。


「熱っちい。なんだこりゃ」


 その頭上に突如として黒雲が湧いたかと思うと、耳をつんざくような轟音とともに光が満ちた。雷がゼノの身体に落ちたのだ。

 ゼノは両膝を地面につき、荒く息をしながらおじさんを睨んだ。


「この力。おまえ……、まさか……」

「ずいぶん、好き勝手してくれたねえ。クソガキは、そろそろお帰りよ」


 おじさんはにっこりと笑ってゼノを指さす。すると突如四方から風が吹き込んできて、奴の身体をしばりあげた。

 おじさんが差した指を空に向けると、ゼノの身体も風の拘束とともに宙に浮いた。


「フレイアは、ええっと……あっちだったかな」


 そう言いながら指を西に向けるや、ピンとその指をはじく。するとゼノの身体は弾かれた豆粒のように虚空の彼方へと飛んで行き、瞬く間に見えなくなった。


     ○


 ゼノが吸い込まれていった星と星の間の暗闇を、ヒエイはしばらく唖然と見上げていた。奴が戻ってくる気配はもちろんない。


「死んだ……のか」


 信じられない思いでつぶやくと、背後から柔和な声が答えた。


「まさか。あのくらいでくたばるタマじゃないよ」


 振り返るとすぐそばに、あのおじさんが立っていた。彼は眠そうに目をこすりながら付け加える。


「ただ、フレイアに強制送還してやったから、戻ってくることはあるまいよ」


 おじさんはアトラスの亡骸の傍らによると、彼の背に手をおいて、祈るように目を閉じた。


「立派に闘ったね。すまなかった。来るのが少し、遅かった」

「あなたは……」


 問いかけつつも、ヒエイは薄々おじさんの正体に気づき始めていた。見た目はただのおじさんで、全く威厳もオーラもないけれど。あんなでたらめな力を持っている人物を、彼ほほかに思い浮かばなかった。

 ホノカの声が遠くから聞こえる。ハザムの声も。二人はヒエイたちの名を呼び、そしておじさんの名も呼んだ。ヒエイの思った通りの名を。


「わしは、ただのおじさんだよ」


 ヴォルヴァ様は、そう言ってはにかむように笑った。


「聖人だなどと、呼んでくれる人もいるがね」

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