49 アトラスの決意
ホノカの館での滞在は七日に渡った。ヴォルヴァはナイアスの最重要人物であり、そんな彼と外国からの旅人が面会をするには許可とそれなりの手続きが必要だったからだ。ホノカの居館があるナニワツからヴォルヴァの御座所があるマホロバまでは徒歩でおよそ三日の行程らしい。ここまで来ての足止めに、アトラスは鼻先にニンジンをぶら下げられた馬の気持ちで、落ち着きなく時を過ごした。
そんなアトラス一行を、ナニワツの人々は連日盛大にもてなした。ある日はホテルで大宴会を催し、ある日は川に船を出し、ある日は公園で盛大な花見の宴を開いてくれた。
降り注ぐ光の下で、ナイアスの穏やかな光景がアトラス達の前をめぐっていく。
美しい舞い。
耳に心地よい弦楽器の演奏。
咲き乱れる色とりどりの花々に、風にそよぐ新緑の樹々。
道に揺れる木漏れ日……。
穏やかで、平和な時間が流れていく。しかしそれが先をはやるアトラスの心を押しとどめることはなかった。このような時を自分が過ごすことではなく、このような光景をフレイアにもたらすことが彼の願いであり目的だったから。
「ようやく、出発だな」
八日目の朝、旅の支度を整えてホノカの館の門前に立ったアトラスは、表情を引き締めてそう言い、アンジュとハザムを振り返った。
頷き返したアンジュの表情は曇っている。
「ヒエイはまだ、行きたくないみたいだけどね」
そう言って投げた視線の先では、ヒエイが、アトラス達と少し離れた場所で数人の男女と語り合っていた。見送りに来た街の人々だ。彼らに囲まれて饒舌に話すヒエイの様子は、実に名残惜げだった。
そんなヒエイをしばらく見つめていたアンジュは、やがて寂しそうに目を伏せた。
「ヒエイは、ここが、気に入ったみたいだね」
「ああ、そうだな」
「なんだかここの水があってるみたいだしさ。食べ物も、私たちがダメなものもおいしそうに食べてるし、まるでここが故郷みたいに溶け込んでる」
「ああ」
「街の人たちからも、慕われてるし。そりゃあ、居心地がいいよね。自分を慕って、心から信頼してくれる人たちに囲まれて。私なんか、あの桜のとき……」
「おい、アンジュ」
アトラスは止めようとしたが、アンジュはやめなかった。
「あの桜の木を、ヒエイが蘇らせるって、信じてあげられなかった。ホノカは信じたのに」
「しょうがないよ。そんなことできるなんて、ふつう思わない」
「でも、私はずっと彼と一緒に旅して、一緒に戦ってきた。彼の技も見てきたのに。それなのに、その仲間のことが、信じてあげられなかったなんて……」
「しょうがないよ。俺だって、お前と同じことを考えた。難しいんじゃないかって」
「ヒエイはさ……」
目をしばたたいて、アンジュは下を向く。
「あの人たちと一緒にいたほうがいいのかな。私たちと一緒じゃないほうが……」
その先を言わせまいとするように、アトラスはアンジュの肩に手を置いた。
笑い声が、流れてくる。その声のほうにアトラスとアンジュの二人は思わず目をむける。門から出てきたホノカを迎え、ヒエイとそれを取り巻く人々が、笑顔をはじけさせていた。ホノカは旅装に身を包んでいる。マホロバまでの案内は彼女がするのだ。その彼女の手を取り、ヒエイが何か話していた。
楽しそうだった。今までの旅の中で見たことがないくらいに。
「一緒さ。いつまでも……」
アトラスはつぶやく。その言葉に力がこもっていないことに、自分でも気づいたがどうしようもなかった。ただ彼は、自分を振り仰いだアンジュに首を振ってみせることしかできなかった。
アンジュが弱く笑って頷く。その悲し気な表情を見つめながらアトラスは思う。彼女もまた、自分と同じようになんとなく恐れているのかもしれない。いつかヒエイと別れる時が来るのかもしれないと。
〇
ヒエイという人物を意識するようになったのはいつからだったろうか。
ナニワツを発ってマホロバまでの道すがら、アトラスはずっと物思いにふけっていた。めくるめくナイアスの美しい風景も、前を歩くホノカの姿も、ほとんど彼の意識には入ってなかった。彼の頭の中にあるのはただ、過去の記憶の中にある、ヒエイのいる光景だけだ。
フレイアの、雨音の響く陰気な教会。その薄暗い隅っこで、いつも背を丸めるようにしてうつむいていた。それがヒエイだった。
無口で目立たない男だった。気が弱そうな顔で、いつもおどおどしていた。募金のノルマを一度たりとも達成したことがない、そんな彼をはじめは歯牙にもかけていたなかったと思う。同僚たちの蔭口だけが、彼について知る情報源だった。あいつは無能だ。任務遂行の意思も、そのスキルも持っていない、怠惰で弱い奴だ……。そんな教会の僧たちの評価をきいて、ああ、そういう奴なのかと思うだけだった。
そうではないと気づいたのは、そう、旅に出る少し前だ。
民をかばうヒエイの姿を見た。容赦ない徴税を行う僧から、彼は身を挺して街の人をかばっていた。貧しい人の代わりに僧の叱責を受け、暴行を受けた人に治癒の魔法を施していた。
ああ、こいつは能力がないのではない。
そのとき気づいた。
その能力を、横暴な支配者のために使わぬだけなのだと。彼は理不尽で下らぬ制度に抗い、意地でも従わぬ勇気を持っているのだ。弱いなんてとんでもない誤解だった。自分でさえ流されていた、皆が疑問も持たずに従っている悪法に、彼だけがひとり敢然と立ち向かっていた。誰よりも強い男だったのだ。
(ヒエイよ。お前はずっと、つらかったろうな)
フレイアでの彼の姿を思い出したアトラスの、目の奥が思わず熱くなった。
評価されず、馬鹿にされ蔑まれる日々はどんなにつらかったろう。本当は能力があるのに皆から無能呼ばわりされて、どんなに悔しかったろう。本当に無能なのは上の、貴族連中なのに。そいつらが正義で、そいつらに従っている者の言葉だけしか受け入れられない政治や制度に、どんなに腹が立ったことだろう。その怒りをぶつける場所がないことは、どんなに苦しかったろう。
あの国が嫌いだと、旅の途中ヒエイは言った。
彼がそう言うのは当然だと、アトラスは思う。
彼が、あんな国を好きなわけがない。理不尽な天気と圧政しかないあの国を。それに抗うことが蔑まれるあの国を。自分に何も与えなかったあの国を。そしてそれがきっと、彼が旅をする原動力だったのだろうと思う。大嫌いな国から出ていきたいという欲求が。
(ナイアスに来て、よかったな)
ここ数日のヒエイの様子を思い出し、アトラスは思わず笑みをこぼす。
ナイアスに来てから、ヒエイは本当に楽しそうだった。食べ物を食べているときも、人と話すときも、風景を眺めているときも。こんなに安らかな表情のヒエイを彼は見たことがなかった。周囲の人も彼に対して暖かかった。その光景を目の当たりにしてアトラスは感じないわけにはいかなかった。ここは彼にとって理想郷なのだと。彼にふさわしい地に、ようやく彼はたどり着いたのだと。
(そうか。ヒエイはたどり着いてしまったんだ)
アトラスは立ち止まり、呆然と空を見上げた。
いつの間にかもう夕暮れ時で、茜色に染まる空を一羽の白い鳥が優雅に羽ばたいていった。
その鳥を目で追いながら、アトラスは唐突に悟る。ヒエイの旅はもう、終わったのだということを。フレイアを出て、ナイアスにたどり着いて、ヒエイの旅は終わったのだ。
○
もう、ヒエイを任務から開放してあげよう。
アトラスがその決意を固めたのは、その日の夜だった。
高原の宿場町で夕食をすませたあとのことである。アトラスはひとり宿を出て、街のはずれの川原をしばらく散策した。陽はもうすっかり暮れて、濃紺の空にはいくつもの星と、欠けた月がきらめいていた。その星空を見上げながら、ようやく彼は意を決したのだ。
ヒエイは、ここにいるべきなんだ。だからあいつを、ここにいさせてやろうぜ。
アトラスは右手に持つ黒棒を掲げ、己に言い聞かせるようにささやいた。いつも携行している、持ち慣れた黒棒が今日は妙に重かった。
背後で物音がして、アトラスは黒棒を持つ手をさげた。驚きも振り返りもせずに、背後の人物に話しかける。
「ついてきてたのか」
「うん。今日はずっと、あんたの様子がおかしかったから」
声はアンジュのそれだった。その声音は珍しく気づかわしげだ。
「ねぇ、……大丈夫?」
普段無愛想な彼女の、ちょっと優しいその声がおかしくて、アトラスは思わず笑いを漏らす。
振り返ると、アンジュが怒ったように頬を膨らませていた、
「なによ。せっかく人が心配してやってるのに」
「アンジュよ。俺は決めたぜ」
「何を」
「ヒエイとは、ここで別れる」
アンジュが息をのむ。少しの沈黙のあと、恐る恐るといった様子で問いかけてきた。
「どういうこと?」
「ヴォルヴァ様に会ったら、そのあとフレイアへは俺だけで行くつもりだ。あいつは、ここにいたほうがいい」
「それで、いいの」
「ヒエイにはこのナイアスの水があっているようだし、ここにいるあいつはなんだかすごく幸せそうだ。あいつはたぶん……いや、絶対、ここにいたいという願いを持っている。それはお前もわかるだろ」
「それはわかるよ。そうじゃなくて、あんたはどうかと訊いているんだよ。アトラス。あんたは、ヒエイと別れて、本当にそれでいいの」
アトラスは一瞬言葉に詰まる。いいわけがない。思わずそう返そうとして危うく飲み込む。それをごまかすために口の端をあげて笑って見せる。今が暗い時刻でよかったと思いながら。
「ああ、いいんだ」
「どうして。あんたたち友達なんじゃなかったのかい。あんたとヒエイはずっと……」
そこまで言ってアンジュは口をつぐむ。
「……ごめん」
「友達だからな」
アトラスは吹っ切るように言う。その言葉は、春の風のように晴れやかに、胸の中を吹き抜けていく。
「友達だから、幸せであってほしいと思うんだ。アンジュよ。お前さんも俺についてくるなよ。ここでヒエイと幸せに暮らせ」
夜目にもアンジュの頬が赤くなるのがわかった。
「な……なに、いってんだい。私なんか……」
「自分を卑下するなよ。お前はあいつには絶対必要なんだ。請け合うよ。だから、一緒にいてやってくれよ。あいつの幸せのためにも。友の幸せを願うむさい男の、最後の願いをきいてくれ」
ホッとアンジュが吐息を漏らす。
彼女はアトラスに歩み寄ったかと思うと、その細い腕をアトラスの腰に回して抱擁した。
「わかったよ。きいてあげるよ。友達の願いだからね」
アトラスが一瞬おどろきに目を見開く。まさかアンジュからその言葉をきけるとは思っていなかったから。でも、よかったと思う。彼女も共に旅してきた仲間だ。その仲間から友達と呼ばれて、報われたような気がした。
アトラスの頬に笑みが浮かぶ。今度こそ、いつも浮かべていたのと同じ屈託のない笑みが。そして礼の代わりにアンジュの頭をなでてやる。
その時だった。
とつぜん静かなせせらぎを破って轟音がおこり、水しぶきがあがった。
「ふう。やっと着いたぜ」
そう言いながら、黒い大きな影が川から川原へと上がってきた。
アトラスはアンジュから離れ、身構える。
(メルラか?)
一瞬そう思ったが、違うことは一目瞭然だった。
シルエットが明らかに違う。大きすぎる。それに声も体つきも男のそれだ。
(だが、この男には見覚えがある)
水にぬれた筋骨隆々の身体。月明りのもとでもわかる、赤い皮膚……。
アトラスは相手を凝視し、そして思い出す。
もうひとりの天使の付き人、ゼノだった。




