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47 使徒

 その部屋のテラスからは、夜空のもとに広がるナイアスの風景を、よく見渡すことができた。今日は満月である。よく晴れた空に輝く黄色い月が、広大な庭とその先に鎮座する丘を照らしていた。


 時々微風がそよぐたび、庭の樹木が眠たげにささやき、池に浮かぶ月の影がゆらゆらとゆれる。水と若草の甘い香りがどこからともなく漂ってきて、鼻腔を潤す。テラスにしつらえられた席で杯を手にしたヒエイは、酒のためばかりではなく夢見心地で、この光景に目を細めていた。


「それにしても、まさか、今日こんなところに泊まることができるなんて……」


 口から出した声が、まるで自分のものではない気がした。それほど、現実感がなかった。

 現実に引き戻したのはアンジュの声だ。


「ヒエイ。まだ、油断しちゃだめだよ」


 鋭くヒエイにささやきかける。視線を向けると、彼女はヒエイを叱咤する一方でアトラスから杯を奪い、酒瓶に手を伸ばそうとするハザムの手をはたいている。


「アトラス飲みすぎ! ハザムはまだ未成年でしょうが」

「えー。もっと飲ませろよ」

「俺だって、もう大人だ。酒くらい飲めるぜ」

「どうしようもない奴らだね。くつろいでるんじゃないよ。まだ安全かどうか、わからないんだからね」


 アンジュが神経をとがらせているのには、理由があった。


 ヒエイは苦笑しながら振り返る。テラスの隅、部屋へ入る扉のすぐわきに、女がひとり突っ立っていた。黒髪を頭の後ろで束ねた女。ホノカだ。

 昼間とは違って若草色の衣服に身を包んだ彼女は、新しい眼鏡を指でつまみ上げて遠慮がちにきいてきた。


「くつろげて、いるだろうか」

「ええ。とても。ありがとう」


 ヒエイが優しい口調で答えると、ホノカの口もとがホッとほころんだ。


 ここはホノカの居館である。昼に彼女を治療したあと、突然己の館に泊まるようホノカ自身が提案してきたのだ。


 最初は戸惑ったものの、結局その提案を受け入れたのは、ホノカから敵意が消えていたからだ。理由はわからない。しかしたしかに戦闘前はヒエイたちを突き放すようだったその態度が、治療後には一変していた。まるで家族に相対しているかのような親愛をにじませる彼女を、怪しむよりも信じようという気になった。なぜ信じられたかというと、それはヒエイの勘というよりほかない。


 豪放なアトラスと好奇心の強いハザムもすぐにヒエイに同調した。用心深いアンジュだけが異議を唱えたが、文句を言いながらも皆の決定に従ってくれた。彼女曰くヒエイがそういう奴だということはわかっているし、不案内な土地で協力してくれる人がいることはたしかに助かる。牙をむいてくればまたやっつければいい……とのこと。


 もっとも、ホノカに牙をむけてくる様子はみじんもない。こうして、ヒエイ一行が月に照らされた庭を眺めてくつろいでいる後ろで、しおらしく突っ立ってもじもじしている。


「あの……」

「なんですか」

「昼間は申し訳なかった。その……あなたの手紙を踏みつけたり、攻撃したりしたこと……。……ごめんなさい……」

「もう、いいですよ。手紙は何事もなく戻ってきたし、皆無事だったから。それよりあなたもこちらに来てすわりませんか」


 ヒエイが誘うと、ホノカがぱっと表情をほころばせた。アンジュがとなりで「ちょっと、ヒエイ」と非難しながら袖を引っ張る間に、テーブルへと歩み寄る。アトラスが気を利かせて空けてくれた席に座り、目の前の杯をあおったかと思うと、アンジュが目を剝くのもかまわず彼女はヒエイに体を寄せた。


「それにしても、昼の戦いには感服しました。しかもあれほどひどいことをした私を許し、治療を施してくださるとは。なんと寛大なお心。あなたのように心技体そろった使徒に出会えてうれしく思います」


 急に饒舌になったホノカに面くらいながらも、ヒエイはなんだか照れ臭くなって頭をかく。こんなに褒められることはめったにないので、ちょっとむずがゆい。


 脇腹を小突かれて振り向くと、アンジュが殺気をみなぎらせながら彼を睨んでいた。ヒエイは慌てて表情を引き締める。


「ところで、ホノカさん。何であなたは僕たちを泊めてくれたのですか。最初はあんなに警戒していたのに」

「それはあなたが使徒だとわかったからです。しかもあなたのように優れた使徒なら、なおのこと」


 当然といった様子のホノカの返答に、しかしヒエイは小首をかしげる。使徒……。昼間から何度も彼女が発している、その単語の意味がわからない。それがために、彼女の言うことがいまいち理解できないのだ。


「ずっと気になっていたのですが、その、『使徒』って、何なんですか」


 食い気味に身を乗り出していたホノカの目が丸くなった。


「使徒をご存じないのですか。使徒とは……」


 そしてホノカは説明を始めた。


     〇


 使徒とは、自然の力を操る、特別な能力を持った者たちである。


 もちろん、ただ能力を持っているだけではない。その能力を有したうえで鍛錬し、技を極めた者だけが使徒と呼ばれる。彼らは自然界に存在する現象と語らい、その力と己を一体化し、様々な技として繰り出すことができるのだ。


 ただし、自然の力を操ると言っても、すべての現象をというわけではない。使徒となる者にはそれぞれ、操ることのできる現象に違いがある。それは大まかに五種類に分けられる。


 すなわち『水』『風』『炎』『雷』『土』。


 例えば水を操ることのできるものは『水の使徒』と呼ばれ、雷を操る者は『雷の使徒』と呼ばれる。

 この私、ホノカは『炎の使徒』だ。

 ヒエイは、風を操るので『風の使徒』ということになる。


 なに、アタナミで岩を操る女と戦ったって? 大地の乙女、か。なかなか素敵な呼び名をつけたものだが、そいつはおそらく『土の使徒』だ。


 フレイアでは魔法と呼ばれているのか。フレイアやアタナミではそういう能力を使う者はめずらしいというが、それはそうだろう。使徒は、基本ナイアスでしか生まれない。ヒエイの師匠はナイアス出身だろう。ひょっとしてヒエイの親も、ナイアスにルーツのある人なのではないか。


 もちろん、ナイアスにだって使徒になれる者はめったにいない。数千人にひとり……いや、数万人にひとり、いるかいないかだろう。今、この国で使徒の称号を持っている者は三十人ほどしかいない。


 使徒とは選ばれた人間なんだ。だから、使徒は人々から尊敬されている。この国を守り導く使命と義務を持ち、同時に様々な特権を与えられる。このように広い屋敷と領地を支給され、衣食に困ることもない。いかなる施設にも自由に出入りでき、行政や軍への要請も自由にできる。ヴォルヴァ様に会うこともできる。


 ヴォルヴァ様のことはもう知っているね。

 ナイアス神聖国呪術庁長官兼寺院統括大聖人ヴォルヴァ様。すべての使徒の頂点に君臨するお方だ。この国にはもちろん行政の長たる王がいるが、精神的なトップはヴォルヴァ様と言っていい。そのお力は絶大。世界に調和を生み出し、ここナイアスを平和で豊かな土地たらしめている、我らにとっては神にも等しいお方である。君たちが会おうとしている人は、そういうお方なのだ。


     ○


 翌朝、早すぎる時間に目覚めたヒエイは、もう眠気も失せかといって起き上がる気にもなれずに、ぼんやりと天井を見上げていた。


 ホノカの館の、客室である。

 この館もまた、瓦葺の木造の建物だ。ヒエイたちに用意されたこの客室は簡素であるが、落ち着きがあって彼は好きだった。柱も天井も、木でできている。しかしその太さや形や組み合わせは様々だ。柱の風情、天井の木組みの巧みさ、鴨居に彫られた彫刻の繊細さにヒエイは舌を巻いた。


 その天井の木目を眺めるヒエイの頭には、昨夜のホノカの言葉が繰り返し流れる。


 使徒……。特別な能力を持つ、選ばれた人間……。


(この、僕が……)


 信じることができなかった。

 自分が選ばれた人間だと思えたことはない。特別であるとも。フレイアではいつも蔑まれ、見下されていた。役人や僧による容赦ない税の徴収に何の抵抗もできず、降り続ける雨に恨みを吐くことしかできなかった。嘆き悲しむ人々を前に、いつも自分は無力だった。風を操るこの手がフレイアで何かをつかむことはなかった。希望も志も笑顔も、時には命さえ、みんなみんなこの手からこぼれていった。


 大きくため息をついてヒエイは寝返りを打つ。フレイアのことを思い出すのは苦痛だった。


 しかし苦痛が長く続くことはなかった。枕元から朝の光の散る庭の景色を望むことができ、それを眺めているうちに、どこからともなく良い香りが漂ってきた。その光と香りが、たちどころにヒエイの胸にわだかまる苦痛をかき消したのである。


 その香りの正体をヒエイが知ったのは、四人が寝具から出て支度を整えた後であった。まるでそのころ合いを見計らっていたかのように、給仕によって部屋にはこばれてきたのは、朝食だった。


「これは、ゴコクとソラスープです」


 そう言って給仕は教えてくれた。琥珀色の、内から光を発しているような穀物と、深いサファイアブルーのスープ。これこそナイアスの民には欠くべからざるソウルフードらしいが、正直あまりおいしそうではない。


「スープは発酵した豆から作ってあるので、少々癖が強いかも。外国の方はたいがい苦手だとおっしゃいます」


 言われて恐る恐るスープを口にしたアトラスは、たちどころに渋い顔をした。アンジュもハザムも、たてつづけに眉をひそめる。


「これは、うーむ」

「なんか、不思議な味だね。こら、ハザム。残しちゃだめだよ」

「俺は、昨日の夜に食べたパンと肉のほうがいいや」


 ナイアスのソウルフードはアトラスやアンジュやハザムには合わないようだ。


 しかしどういうわけかヒエイには、ゴコクもソラスープも全く抵抗感なく食べることができた。抵抗感がないどころか、懐かしささえ感じる。ゴコクを噛んだ時に口の中に広がる甘さ、ソラスープをすすった時に脳を突き抜けていく爽やかな風味……。すべてが彼の五感になじんでいる。美味しかった。どんどん食べることができた。


 不思議だった。どれも初めて口にするもののはずなのに。

 結局お代わりまでしてひとりナイアスのソウルフードを堪能したヒエイを、食後、アトラスとハザムは奇妙な動物でも見るように眺めていた。


「ヒエイの味覚はどうなってるんだ」

「あれがおいしいとか、どうかしてるよなあ」


 ナイアスに失礼千万なことを口々に言い立てる。そんな二人をかき分けるようにして、アンジュが突然ヒエイにとびかかってきた。


「わかったよ。きっと、あの女に何か魔法でもかけられたんでしょ」


 そう言いながらヒエイの胸倉をつかんだかと思うと、鬼の形相で猛然と彼の上半身をゆすった。


「あの女め、きっと私たちからヒエイを奪うつもりよ。許せない。お願い戻ってきて、ヒエイ」


 嵐に吹きさらされる草のように、前後左右へと頭がふれる。魂が抜け出てしまいそうなほどのその勢いに恐れをなしたヒエイは、舌を噛みながら必死に抗議した。


「うう。やめてアンジュ。僕は何もされてないし、どこにも行ってないよ」

「そうだ、アンジュ。落ち着け」

「嫉妬は見苦しいぜ。アンジュこそ戻って来い」


 アトラスとハザムもアンジュを抑えにかかる。その時突然部屋の引き戸が開かれ、四人はくんずほぐれつした態勢のまま動きを止めて、戸の方に一斉に顔を向けた。


「あら。お楽しみの最中でしたか」


 戸口に立ってそう言ったのはホノカだった。

 今朝は薄桃色のワンピースを着ている。アンジュの殺気だった視線を受け流しながら部屋に入ってきた彼女は、急いで居住まいを正したヒエイの前に、行儀よく膝を折って座った。


「風の使徒殿」


 そうヒエイに呼びかけると、浮かない顔で首筋をかく彼に深々と頭を下げた。


「実はあなたにお願いがあるのです。一緒に来ていただきませんか」

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