幕間2-1 民と摂政
フレイアの王都ルシフェルには、今日も雨が降っていた。
しかし天使様のご機嫌がそこそこ良いのか、小雨程度である。空を覆う雲は綿あめのような白色で、ところどころにできた裂け目から、陽の光がうっすらと射し込んでいた。
ルシフェル有数の繁華街である中央市場を歩きながら、そんな空を見上げてメルラは目を細めた。パラパラと降り落ちる水滴に陽光が当たって、無数のダイヤの粒をまいたように大気がきらめく。このような光景が彼女は好きだった。初めてこの地にやってきた日、街に注ぐこの光の雨を眺めながら歓声をあげたことを、今でも覚えている。みんなは雨を嫌うけれど、雨にだっていいところはたくさんある。美しい光景を出現させることもあれば、優しい音を奏でたりもするのに……。と、少し寂しく思う。雨を美しく思うのは、自分が嫌われているからだろうか。
「お嬢ちゃん。花はいかが? お安くしとくよ」
声をかけられて振り向くと、口ひげを蓄えた小太りのおじさんが、ニコニコしながらメルラを見ていた。彼の背後には色とりどりの花が咲き乱れている。そこは花屋さんの屋台の前だった。花屋だけではない。ここ中央市場には、たくさんの出店がたち並んでいる。パン屋。服屋。飲食店。野菜をひさぐ店に肉を売る店。グラスや食器を並べた店。大きな鍋から湯気をもくもくと沸き上がらせている店もあれば、甘い香りを漂わせている店もある。それらの店々の間を、大勢の人々がガヤガヤと、肩触れ合うほどに密集して行きかっていた。
「いえ。花は……私には、似合いませんよ」
メルラが自嘲すると、おじさんは驚いたように目をぱちくりさせた。
「そんなことないよ。お嬢ちゃんには、花がとてもよく似合うと思うよ。男の子からモテるでしょうに」
「私は……」
メルラの自嘲は今度は苦笑に変わる。視線を斜め下に流して、苦笑いにゆがめた口から思わずこぼす。
「私を好きになる人なんて、いないのですよ」
すると突然、彼女の視界にパッと花が咲いた。白色とピンクと黄色の、妖精のスカートのような花々だった。振り返ると、おじさんが何本かの花の束を彼女に向けて差し出していた。
メルラがポケットからお金を出そうとすると、おじさんはゆっくり首を振った。
「あげるよ。君に」
「あ、ありがとう」
お礼を言って素直に花を受け取ったメルラに、彼はまたニコニコと微笑みかける。
「君を好きになってくれる人は、きっといるよ。いや、今、もういるかもしれない。そんなにその花が似合うのだもの」
おじさんの剝げかかった頭に、陽光が降り落ちた。メルラは受け取った花を持ち直すとそれを胸に当てて頭をさげ、そして彼にほほ笑み返した。彼女のことであるから笑んだか笑んでないか分らぬほどの笑みだったが、自嘲でも苦笑でもない、自然体の笑みだった。
花をもらったあと、メルラはお菓子屋の屋台で、クリームの詰まったパイを買った。
パイを頬張りつつ市場を徘徊しながら、メルラは思う。
変わらないな、と。
このパイの味も、人の優しさも、何代もの王の時代を経ようとも、変わらない。
鐘の音が鳴り、ハトが空へと飛んで行った。
周囲の人混みから歓声が沸き上がり、拍手が鳴る。
振り向くとそこは小さな教会の前で、開け放たれた門の前の階段を、白いドレスに身を包んだ若い娘と黒いタキシードの青年が腕を組んで降りてくるところだった。
雲間から差し込んだ光が、新郎新婦とその周辺の人々を照らす。みんな笑顔だった。笛とハーモニカと打楽器の軽快な音楽が鳴り響き、彼らは手を取り合って踊り出す。その頭上に祝福の花びらが舞い、雨粒たちが銀の光を放ちながら降り注いでいた。
「お嬢さんもこっちに来て。一緒に踊ろう」
「いや……。私は……」
「いいから、いいから」
「うう……」
花を持っていないほうの手を引っ張られ、背中を押され、メルラは踊りの輪の中へと誘われる。戸惑いながらも彼女はそれらの手を振りほどこうとはしなかった。嫌な気はしなかった。ふと暑い日差しと乾いた空気と、風を操る青年の姿が脳裏によみがえる。
あのヒエイという名の青年は、今頃ナイアスについたのだろうか。
はるか東の海の向こうに思いをはせるメルラの頭に、草を編んで作った冠がのせられた。
〇
王宮の奥の神殿にもどると、居室の前の廊下でゼノと鉢合わせた。
「おう、メルラさんよ。ずいぶんお楽しみだったようだな」
軽薄そうな笑みを浮かべて茶化してくるゼノを、メルラは冷徹な目で見返した。しかし、口での反撃はしなかった。たしかにゼノにそう言わさずにはおかないような恰好を、彼女はしていたから。頭に草の冠を乗っけて、片手に花束を、もう片腕に菓子を満載した袋を抱えた姿は、祭りを堪能してきたようにしか見えないだろう。顔だけいつものように無感情にしていたところで、説得力がない。
「おっ。エチゴ屋のクリームパイじゃん。俺にもくれよ」
「嫌です。全部私のです」
「冷たいね。さすが水女」
「なんだか、その呼び方はすごく嫌なんですけど」
眉をひそませながらメルラは袋からパイをひとつ取り出してゼノに差し出した。
「本来なら独り占めするのですが、今日は気分がいいのでひとつあげます」
「ありがとよ。何かあったの?」
「何も」
短く答えて居室に入ろうとするメルラの背に、ゼノの声がかけられた。
「あ、そうだ。部屋に入る前に、草の冠はとったほうがいいよ。摂政閣下が来ているぜ」
扉にかけようとした手が、湖の水を全部吸ったように重たくなった。メルラは大きなため息をついて冠をとり、花束と菓子の袋とまとめてゼノに渡した。絶対食べてはなりませんよと、くぎを刺したのは言うまでもない。
摂政兼元老院議長ダラクは、現国王の伯父である。
まだ若く病弱な国王に代わって政務を執っている、実質のこの国の最高権力者だ。しかし持っているのは富と権力だけで、国を治める能力には乏しかった。このフレイアを見舞っている災害に対して無為無策。そのくせプライドだけは高く、人の言うことには耳を貸さない。暗愚と言っていいこの男のことが、メルラは嫌いだった。
「アタナミに、行ってきたそうだな」
居室の窓際におかれた、メルラのお気に入りのソファにふんぞり返り、ダラクは責めるような口調で声をかけてきた。白い口髭と顎髭は整えられてはいるが、目もとも頬もたるんだ顔は威厳がない。しかし態度だけは大きい。部屋の主のメルラに挨拶もせず、あたかも家来か使用人に対するように、小さな目で睨みつけてくる。
その無礼な態度に眉をひそませたメルラは、それでも落ち着いた態度で答える。
「我が国との交易を、お願いしに行ったのです」
「我らに無断で、か」
「そうです」
「勝手なことをしないでいただきたい」
「しかし、交易をすれば国は豊かになる。そうすれば堤防や水路や道や、いろんな設備を整えて、もっと人々が暮らしやすくなります。この雨の国でも……」
あなたが何もしないからだ、と言ってやりたいのをおさえて彼女は言い返した。弁舌は苦手な彼女であるが、言わずにはおれなかった。本来政治はメルラの領分ではない。それなのに無断で外国に使節として行ったのは、たしかに越権行為だ。それはメルラもよくわかっていた。それも承知で行ったのだ。それをさせたのはいったい誰だと、彼女は言ってやりたかった。
とつとつと話すメルラの言葉を遮って、ダラクは鼻を鳴らした。
「人々の、暮らしぃ?」
歯をむき出して嘲るように笑い、
「そんなもん、どうでもいいわ」
吐き捨てるように言ってから、身を乗り出してメルラを睨みつけた。
「浅はかな女だ。国民を豊かにしてどうする。外の情報を手に入れて、富も手に入れたら、国民は我らに反感を持ち、反抗するようになってしまうではないか」
「国が豊かになれば税収も伸び、あなたたちもより豊かになりますよ。民も王室に感謝するはずです。民の気持ちを考えれば……」
「虫けらの気持ちなど、知ったことか」
虫を払いのけるように手を振って、ダラクは再びソファにふんぞり返った。
「わしはな、わしだけが豊かで安全でいたいのだ。民は豊かになってはならない。あいつらなんか、飢えているくらいで丁度いいのだ」
衝動的にメルラは、ダラクに向けて片手を伸ばす。
摂政の目や口や鼻から、とめどなく水があふれ出る。以前秘密警察長官を葬ったのと同じ魔法。しかし、いくら水で彼の体内を溢れさせても、ダラクは白目をむきもしなければ倒れもしなかった。
「気が、すんだか」
身体からの水の流出がとまると、何事もなかったかのようにダラクは言った。
メルラはひとつ吐息をついて手を下ろす。これが無駄な行為であることを、彼女が一番よく知っていた。天気の天使との契約で、王室の人間は攻撃されても死なず、ダメージを受けることもない。
「哀れだのう、天使の下僕よ」
摂政は長いあご髭をなぜながら、勝ち誇ったように笑った。
「お前たちが守る天使の加護で、お前はわしに手出しができない」
言い返せずに口をつぐんだメルラの背後で、扉がノックされた。
開いた扉の前で優雅に腰をかがめたメイドが、感情のない声で摂政に報告した。
「行方不明になっていたデロス元司教の居場所がわかりました」
「よし、討伐隊を向かわせろ」
迷わず命を下した摂政は、メルラのほうを向いて口をゆがめた。
「貴女にも行っていただこう。天使の付き人殿」
メルラが答える前に、メイドが次の報告を口にする。
「それと、貯水池が警戒水位を越えました」
「放出せよ。いつものように一気にな」
そしてソファから立ち上がった摂政は、大声で笑いながら部屋から出ていった。
摂政が去った後、しばらく何をする気も起きずに、メルラは同じ場所に突っ立って窓の外を眺めていた。さっきまでとは打って変わって空はどす黒い雲で覆われ、激しい雨が街を灰色に染めている。その街に向けてメルラは右手を伸ばし、目を閉じる。
雨は好きだ。雨が作り出す風景も。雨が奏でる音も。水の香りも。だけど……例えばあの市場の人たちは、もし、今晴れたら、どんな顔をするだろうか。
頭の片隅に青空と光を思い浮かべそうになったとき、部屋の近くで雷鳴が轟いた。メルラは弾かれたように目を開け、あわてて手を振り下ろす。反射的に街に背を向けると、逃げるように居室をあとにした。
廊下にはまだ、ゼノが立っていた。さっき預けた袋を抱え、大きく頬を膨らませて口をもぐもぐ動かしている。
「あっ」
メルラと目を合わせた彼は、すぐに目をそらして口の動きを速めた。大急ぎで口の中のものを飲み込んでから、気まずそうにメルラに笑いかける。
「悪い。全部食っちまった」
能天気な口調で言ってのけるゼノをひと睨みし、メルラは盛大にため息をついた。




