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43 反撃

 自分は死んだのだろうか。白く曇る意識の中でそう思った次の瞬間、首を絞めつける感覚がなくなり、酸素不足と圧迫感からヒエイは解放された。


 何事かと、目を凝らす。霧がかかったように不明瞭だった視界がクリアになった時、ヒエイの目の前にあったのは、必死に両腕を広げているアンジュの姿だった。


「そんな……ばかな……」


 驚愕に顔を青ざめさせているのは、彼女の背後にいるカルーアである。


「僕の意に反して動くなんて。そんなことできるはずが……」


 カルーアは眉を逆立て歯ぎしりし、前に突き出した両手に力をこめて指を動かす。しかし、アンジュはびくともしない。


「無駄だね。私は今、絶好調なんだ。なんだってできる気がするよ」

「ふん。強がりを。息も絶え絶えじゃないか。お前なんか……」

「おい、キザ男。一言言っておくよ」


 荒く息を吐きながら、しかしアンジュはなおもカルーアの術を跳ねのけて言う。


「なんでもかんでも、自分の思い通りにできると思わないことだ。人様がそれぞれ持っている想いは、お前なんかが思うより、ずっと崇高なんだから」


 そして雄たけびを上げると右の腕を払い、つづいて左の腕をはらって立ち上がった。プツンと何かが切れる音がしたかと思うと、アンジュはだらりと首を垂れ、脱力したようにその場に崩れ落ちそうになる。しかしすんでのところで踏みとどまった彼女は、振り返りざま地面を蹴って、カルーアへと飛びかかっていった。


 アンジュの拳がつきだされ、カルーアの頬に食い込む。端正な顔を醜くゆがめたカルーアの身体が吹き飛んで、背後の壁に激突した。


 追い打ちをかけようとさらに踏み込むアンジュ。しかし、二撃目を発しようとした矢先、彼女は足を踏み外し、崩れるように膝をついたかと思うと、そのまま力なく甲板に倒れこんでしまった。


     ○


 倒れたアンジュを壁にもたれて啞然と眺めていたカルーアは、やがて口の端を釣り上げて笑い出した。


「キ……キへへ……。やっぱりそうだよな。この僕の術に逆らって、無事で済むはずはないんだ」


 そしてフラフラとアンジュに近づき、その傍らに立つ。


「身体のあちこちの骨が折れてるんだろ。筋肉だって断裂しているはずだ。もう、まともに動くことはできまい。それ」


 言いながら、彼女の腹を蹴り上げる。


 甲板を転がって仰向けになったアンジュは、眉間にシワを寄せてカルーアを睨みあげるが、指一本動かすことはなかった。どうやら奴の言ったことは本当のようだ。アンジュはこの悪魔の術を破るのに、すべての力を使い果たしてしまったのに違いなかった。


「アンジュ!」


 呼びかけながらヒエイは、力を振り絞って立ち上がろうとする。しかし彼もまた、先程アンジュから食らった一撃により、思うように動くことはできなかった。それでもなんとか仲間を守ろうと、必死に這いずり、手を伸ばす。しかしその手はアンジュに届く前に、無情にもカルーアにつかまれてしまった。


「そうだ。いいこと考えたよ」


 そう言うと奴は、つかんだヒエイの手に一振りの短剣を握らせた。


「これで、君にこのお嬢さんを殺してもらおう」


 弾かれたように顔を上げるヒエイ。彼の視界に入ったのは、口もとに白い牙を光らせるカルーアの、残忍な笑みだった。


「や……やめろ」

「そう言われて、やめると思うかい?」


 カルーアが手をかかげる。ヒエイはすかさず避けようとするが、逃れることはできなかった。ダメージが残っている体は、カルーアの術がなくても思うように動かすことはできなかった。


 短剣を握った右手が勝手にあがり、その切先がアンジュへと向けられる。ヒエイは懸命に腕に力を込めて抵抗するが、手の動きを全く抑えることができなかった。まるで自分のものではないように、ヒエイの意思を全く無視して、彼の右手はアンジュの喉へとのばされる。


(そうだ。風の刃を飛ばせば……)


 風の魔法を放ってカルーアを攻撃すれば、あるいは奴の術を解けるかもしれない。そう思い立つものの、魔法を放つ余裕はなかった。短剣の先は今にもアンジュの首にとどきそうだ。魔法を放つために集中しているヒマがない。そもそもこんな状況では集中などできない。


(だめだ。ごめん、アンジュ)


 せめてもの抵抗に、ヒエイは全身に力を込める。アンジュがさっきそうしたように。体中の骨を折るつもりで。しかしそんな彼の意思は全くとどかない。情けなさに歯を食いしばり、ヒエイは空を見上げた。


 ヒエイとカルーアの視線が一瞬合う。カルーアの目が獲物を捉えた爬虫類のように細くなる。


 その次の瞬間だった。突然、眼の前からカルーアの姿がかき消えた。


「ずいぶん、好き勝手してくれてるじゃねえか」


 敵の消え失せた空間に降ってきた声に、ヒエイは己の耳を疑った。その声を聞くのは、とても久しぶりのような気がした。そしてそれは、二度と聞くことができないと思っていた声だった。


 ヒエイはその人の名を呼びたかったが、懐かしさと驚きで喉が詰まって、何も言えなかった。

 信じられなかった。彼が生きているなんて。でも確かに、アトラスは目の前に立っていた。


「……遅いよ」


 アンジュが息も絶え絶えに責める。すると、アトラスはこっちを向いてニヤリと笑った。彼らしい、屈託のない笑顔だった。


「待たせたな。今、あいつをぶっ飛ばしてやるぜ」


     ○


 アトラスに吹き飛ばされ甲板に倒れていたカルーアは、よろよろ立ち上がると、頬を抑えながら後ずさった。


「どうして……。なんであいつが生きているんだ。死んだんじゃなかったのか」


 それに答えたのはアンジュである。


「死んでなんかいないよ。私がこいつに盛ったのは、一定時間仮死状態にする薬だったのさ」


 そして嘲るように鼻で笑った。


「日没時だけ仮死状態にして、騙されたあんたが御主人様にご報告に帰ったあと、何事もなくみんなで旅を続ける心づもりだった。あんたが御主人様の言いつけを守ってたら、うまくいってたんだがね」


 それを聞いたカルーアの顔が、夜目にもみるみる赤くなる。


「よくもだましたな」

「それは、お互い様だろ」

「この、あばずれめ……」


 悔しそうに歯ぎしりをしたカルーアだが、すぐにその表情を弛緩させ、ニチャアと糸を引きそうな笑みを浮かべた。


「でも、だからどうだって言うんだい。アトラス君が生きてたからといって、僕の優位は変わらない。それ……」


 カルーアは両手を前に突き出す。楽器を奏でるように闇の中に十指を這わせ、歌うように言う。


「君にはアンジュ君たちの二の舞を演じてもらうよ」

「だめだ、アトラス。逃げろ!」


 ヒエイは甲板を這いずりながら叫んだ。今までの少ない情報から、彼がなんとなく察したことの一つは、このカルーアの術には射程距離があるということだ。そしてそれはけして長くはないと彼は予想した。奴がもしその術に長い射程を持っていたなら、もっと簡単にアンジュや自分を操って葬ることができたはずだ。標的の苦しむ顔が見たかった……のかもしれないし、己の術に絶対の自信を持っているのだろうが、わざわざ顔を見せるのはリスクも伴う。ひょっとしたら、奴の射程は会話のできるほどの距離なのではないか。


 もしそうだとしたら、それこそがカルーアの弱点だ。それがどれほどの距離かはわからぬが、奴の射程の外まで全速で逃げて、そこから遠距離攻撃をかける。そうすれば……。


「アトラス逃げるんだ。奴の射程の外まで」


 ヒエイはもう一度叫ぶ。カルーアが手を前に突き出してから、まだほんの一瞬。今なら間に合うかもしれない。奴の術がかかってからでは手遅れだ。そうなる前に早く!


 しかし、アトラスは眼の前に突っ立ったまま、逃げようとはしなかった。それどころか、足をカルーアに向けて、ゆっくりと奴の方へと歩いていく。


 それを見てヒエイは絶望し、唇を噛む。ああ、間に合わなかった。これでアトラスもアンジュや僕のように……。


「さあ、殺し屋のお嬢さんやヒエイ君のように踊ってくれよ、アトラス君」


 カルーアが大きな口を開けて笑いながら、アトラスに向けた手を高々とかかげた。


 アトラスの腕があがる。筋肉が盛り上がり、血管の浮き出た、太くて力強い腕。そして岩のような拳。その腕を眺めるカルーアの表情が愉悦にとろける。


「さあ、殺れ。僕の人形!」


 そうわめいたとたん、カルーアの顔が醜くひしゃげた。


「へっ?」


 カルーアの口から間抜けな声が漏れる。それとほぼ同時に、アトラスがカルーアの頬にめり込ませた拳を振り切り、奴は頭から甲板に叩きつけられて、ボールみたいに弾んだ後に床に転げたのだった。


「え? どうして……えっ?」


 驚愕に顔を青ざめさせながら、それでもなんとか立ち上がったカルーアは、再び両手を前につきだす。


「なんの間違いだ。僕の術が通じないはずは……」


 言いきらないうちに、その両手の間を通過したアトラスの拳が、奴の顔面にヒットする。


「ぶっ。……どうして……」


 折れた鼻から血を流し、猛獣を前にしたウサギのように怯えるカルーア。そんな奴にアトラスは咆哮にも似た笑い声をあげてみせた。


「知らねえな。でも、効かねえぜ。おめえの下らん術なんか」

「なにを。この……」


 恐怖に打ち震えながら、それでも懲りずにカルーアは、わななく両手をアトラスに向ける。

 その両腕を、アトラスはすかさず掴み取る。


「え。ちょっと待っ……!」


 動揺したカルーアの顔が歪み、その口から悲鳴が漏れる。見ればアトラスに掴まれた奴の両腕は、妙な位置からありえぬ方向にまがっていた。


「腕が……腕が、折れ……」


 カルーアが情けない声で喚いたときには、アトラスは腰を落とし、次なるパンチを奴の腹にみまっていた。

 今度はカルーアの口から悲鳴も漏れなかった。ただ体をくの字に曲げ白目をむく奴に、アトラスは独り言のように語りかける。


「これは、ヒエイの分だ」


 そして体を起こすと今度は、右手を高々とかかげ、その手の指を揃えてピンと伸ばした。


「そしてこれは……」


 まるで一本の剣のように、それはカルーアの脳天へと振り下ろされる。


「アンジュの分だ。クソ野郎!」


 アトラスの手刀が、まるで果実のようにカルーアの頭を割る。夜に染まりつつある船上に盛大に血を撒き散らしながら、カルーアは甲板に倒れたのだった。

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