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42 人形使い

 ヒエイはその光景に、全身の血が凍り付いたかのような心地になった。


「どうした、アトラス」


 そう、声を絞りだすのにゆうに一分はかかった。しかもその声はかすれてうまく発せられず、急いで彼のもとに駆け寄りたいのに、足が震えてうまく前に進めなかった。


 ほとんど転げるようにして、甲板に倒れこむアトラスの傍らにうずくまったヒエイは、恐る恐る彼の顔を覗き込み、その頬をはたく。


「おい、アトラス。大丈夫か。おきろ。アトラス」


 ほとんど泣き出しそうな声で呼びかけるが、アトラスからの反応はない。体をゆすっても起き上がろうとはしない。恐る恐る胸に耳を当て、そして息を確かめる。


「……そんな」


 アトラスは息をしていなかった。鼓動も、停止していた。

 ヒエイは脱力してその場にへたり込み、放心したように虚空を見上げた。


 信じられなかった。アトラスが死んだなんて。さっきまで元気に話をしていたのに。未来のことに思いをはせて笑っていたのに。こんな未来は予想もできなかった。だって、彼はあんなにも頑丈な体を持っていて、心も意思も強くて、頼もしくて……。そんな彼が、こうもあっさりと……。


 力なく視線を下げた、その先に、甲板に転がるグラスがあった。グラスからは紫色の液体が少しだけこぼれていた。それを見た瞬間、はじかれたようにヒエイは背後を振り返った。


「君が……やったのか」


 アンジュはさっきと同じ場所で同じように腕を組み、無表情にヒエイのことを見下ろしていた。ヒエイの問いにうなずくでも首を振るでもなく、ただぽつりと、言葉を吐く。


「依頼されたんだ」

「誰から」


 少し言いよどんでから、彼女は答える。


「……メルラ」


 その名をきいても、ヒエイは動揺しなかった。自分でも意外なほどに静かに、それを受け入れることができた。思えば、彼女の立場ならアトラスの死を望むのは当然のことだ。彼女は、天使の付き人なのだから。


 メルラがアトラスを殺そうとすることは不思議ではなかった。しかし、それをアンジュが実行することは、ヒエイには不思議でならなかった。


「どうして、君が」

「アトラスだけ殺せば、他のみんなの命は助けてやると、言われた。拒むなら、皆殺しだと」

「なんで、断らなかったんだ」


 アンジュは答えに窮したように口をつぐむ。だが表情は変わらない。いつも通りのポーカーフェイスで、不貞腐れたようにそっぽを向く。


「そうするしか、なかったんだ」


 彼女が言うと同時に、ヒエイはアンジュにとびかかった。普段の彼の動きからは信じられないくらい俊敏に、そして乱暴に、アンジュにつかみかかる。


「どうして!」


 アンジュの胸倉をつかんで、背後の壁に押し付けながら、ヒエイは声を荒げた。


「どうして、君はアトラスを殺せるんだ。一緒に旅してきた仲間だろ。アトラスだけを死なせて自分たちだけが助かって、それでうれしいのか。心は痛まないのか」


 どれだけ責めても、激しく体ををゆさぶっても、アンジュは抵抗をしなかった。何も言わず、憎たらしいほどの無表情で、ヒエイから顔を背け、暮れゆく海を凝視している。


 ヒエイにもわかっていた。悪いのはメルラで、アンジュには選ぶことなどできなかったであろうことを。彼女の言う通り、彼女はそうするしかなかったことを。しかし、それがわかっていても、納得できなかった。アトラスの死も、それをアンジュがなさなければならなかったことも、受け入れられなかった。そしてその利不審な現実に対する怒りをぶつける相手は、目の前のアンジュしかいなかった。


「何とか言えよ!」


 怒鳴り声とともに、乾いた音が暮色に染まる甲板に響いた。


 そっぽを向いたアンジュの鼻から、血が一筋流れ落ちる。渾身の力ではたいたはずなのに、それでも彼女は眉一つ動かさなかった。はたいたヒエイのほうが苦痛に顔をゆがめ、しびれる手を抑えて息を荒げていた。


「ひどいよ、アンジュ」


 声を震わせながら、ヒエイは再びアンジュのしわくちゃなシャツをつかんだ。今度は弱々しく。ほとんどすがりつくようにして。


 彼女から返事はない。ただ、ヒエイからそむけたままの目の端に、一粒の金色の光が瞬いた。その輝きをヒエイが見たのは一瞬。同時に、それまで甲板上に這っていたあらゆる光が消え失せた。


 陽が沈んだのだ。

 そう、ヒエイが理解したとき、背後で手を叩く音がした。振り返ると、そこにいたのは見覚えのある男。あの、さっきアンジュといっしょにいた美青年だった。


     〇


 青年はヒエイのわきを素通りしてアンジュの傍らに身を寄せたかと思うと、馴れ馴れしく彼女の肩に手を置いた。


「何とか間に合ったね。君があんまりもたもたしてるもんだから、僕は冷や冷やしたよ。まさか、約束を破るつもりなのかと思っちゃった」

「言われたとおり、日没までにやったよ。これで約束は守ってくれるね」


 アンジュがそっぽを向いたまま青年に語りかける。顔を背けてはいるが、肩にかかった青年の手を振りほどこうとはしない。


 ふたりの姿を間近に見たヒエイは、思わず視線を下げた。先ほどのふたりの口づけのシーンを思い出してしまったからだ。自分よりよっぽどアンジュとお似合いに思える美青年を前に、自然と足が後ろに下がる。


「あ、そうだ。ヒエイ君……だよね」


 そんなヒエイに青年の声が飛ぶ。名を呼ばれて反射的に視線をあげたその先で、青年は甘いマスクに満面の笑みを浮かべた。


「自己紹介がまだだったね。僕はメルラ様にお仕えしている者で、カルーアといいます」

「気をつけな」


 ようやくアンジュがこちらを向く。カルーアとは対照的に、厳しい表情で彼女はヒエイに呼びかけた。


「こいつも国境の防人だよ。人を、操ることができるんだ」

「どうしてネタバレしちゃうの。困った人だな」


 アンジュに顔を寄せたカルーアは、今度は彼女にほほ笑みかける。しかしその横顔は先ほどまでとは全く違っていた。美しき好青年の面影もない。細めた目もあげられた口の端もえくぼの浮かぶ頬も、残忍な影をにじませていた。アンジュの頬に触れそうなほどに口を近づけて、今にも舌なめずりでもしだしそうなねっとりとした口調で彼は言う。


「もっと仲良くしようよ。口づけをかわした仲じゃないか」

「反吐が出そうだったよ」


 アンジュは不快感もあらわに眉をしかめ、再び顔を背けて言い返す。


 カルーアのほうはというと、愉快そうに顔をゆがめ、のどを鳴らして笑いだした。アンジュから離れたかと思うと、その手を高々とあげる。


「強がっちゃって。でも、僕の力の前では君たちは無力だ。その反吐がでそうな行為を拒めないほどにね」


 男の言葉と同時に、アンジュの顔色がサッと変わった。


「ヒエイ、逃げて。はやく!」


 その声が彼女らしくなく鬼気迫るものだったため、ヒエイはためらわずに後ずさる。その瞬間、彼の鼻先をアンジュの手刀がかすった。


 鋭い爪の先がヒエイの頬の薄皮一枚を裂き、傷口から血が滴り落ちる。あたっていたら大怪我だけじゃ済まない、本気の一撃だ。一体何のつもりだ、と問いかける暇もなく、アンジュの顔がグンっとヒエイの眼前に迫り、二人の視線が交錯した。


 アンジュの目は、殺気を帯びてはいなかった。その行動とは裏腹の、哀しそうな目の色に、ヒエイの足が一瞬止まる。


 それが、命取りだった。腹に重い衝撃を受けたかと思うと、全身にしびれが走って動かなくなった。アンジュの拳の一撃が己の腹にめり込んだのだ、と気づいたときには、ヒエイは甲板に突っ伏していた。


「話が、違うじゃあ、ないか」


 アンジュが息を切らしながら言う。それがヒエイに向けたものではないのは、彼女の背後にいるカルーアの態度でわかった。


「気が、かわったのさ」


 カルーアは手をかかげたまま、にやにや笑いながらアンジュに答える。


「君たちを見ていたら、なんだかこう、ぶっ殺したくなっちゃったんだ」

「いいのかい、ご主人様のいいつけにさからって。あとでお仕置きされるよ」

「大丈夫。バレやしないさ。あの方は、実のところ君たちになんか、たいして関心がないんだから。だからさ……」


 カルーアのかかげた手の指が、ピアノを奏でるように動く。すると、アンジュの足が前へと踏み出され、その手がうずくまるヒエイへと伸ばされた。


「クッ。やめろ……」


 アンジュは歯を食いしばって、抵抗の様子を見せる。しかし、その表情や言葉とは裏腹に、彼女の手はヒエイの身体へとかけられる。


「抵抗しても無駄だって、わかってるだろ。君はお人形みたいに、僕の思う通りに踊るしかないんだ。こんなふうにね」


 カルーアは楽しそうに口をゆがめて、両手を突き出し指を躍らせる。するとアンジュがヒエイの身体を掴み上げ、乱暴に押し倒した。そして仰向けに転がってうめくヒエイに、起き上がる隙も与えず馬乗りになる。


 どうして……とは、ヒエイは問わなかった。アンジュの身体があのカルーアに操られていることは明白だったからだ。


 アンジュの手がのびてきて、ヒエイの首にかけられる。首を締め付けてくるその手は、真冬の風にさらしたみたいに冷たく震えていた。


 ヒエイは観念したように目を閉じた。こんなときだというのに、心は妙に平静だった。ふと、脳裏に懐かしい風景が広がる。フレイアのコロネルの街並み。あの賑やかな街を見下ろす人気のない墓地で、同じようにアンジュに首を絞められたことを、ふと思い出した。フレイアの街にはあの日も、うんざりするほど雨が降っていた。


 頬に雨滴が落ちたような気がして、ヒエイは目を開けた。見ると、アンジュが目に涙をためて彼を見下ろしていた。


「ごめんね」


 ポロポロと涙をこぼしながら彼女は言った。


「こんなことになるかもしれないって、なんとなくわかってたんだ。だけど、私はバカだからさ。他にどうしたらいいかわからなくて……」


 彼女の涙のしずくが、雨漏りのように二滴三滴と落ちてヒエイの頬を濡らす。そういえば、アンジュの涙など見るのは初めてだと、ヒエイはぼんやり思う。首を絞められていることによる苦しさよりも、彼にはそのことのほうがこたえた。彼女の泣き顔を見ているのは、首を絞められるよりも苦しいことだった。そしてそんな事態を招いたのは、思い返せば自分がメルラに懸想したからで、いまさらながらそんな自分がヒエイは情けなかった。


「君が謝らなくていいよ。これは、僕のせいだ。ほんとうに、ごめん。それから……」


 ヒエイは息も絶え絶えに何とか声を絞り出す。意識が遠のいていく。今までの、アンジュと過ごした日々のいろんな場面が、走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。その大部分は彼女らしく不貞腐れているか不愛想にしているかだったが、ときどき見せる笑みや安らかそうな表情は、魅力的だった。コロネルでの街歩きで初めて目にした、あのときに感じたのと同じく、それはやはりとても貴重なものに思えた。そして、そんな貴重なものを持っているアンジュに対する気持ちを、今になってヒエイは認めないわけにはいかなかった。


 ヒエイは、最後の力を振り絞るようにして言った。


「いまさら言うよ。僕は……君のことが好きだった」


 そして彼の頭の中は、幕を下ろしたように白くなった。


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