41 親友
夕暮れ時の海は、ガラス細工のようにもの悲しげで、しかし美しかった。
鐙色の光を散らしながら夜色に浸食されていく海と、まだ白さを残す雲を浮かべた水色の空を、ヒエイは船橋付近の甲板に膝を抱えて座りながら眺めていた。
だが、その風景も目に入る色彩も、一切彼の心を動かしはしない。
ヒエイの心にあるのはただひとつ、先ほど見てしまったアンジュのキスシーンだったから。そして、とめどなくあふれる疑問が、彼からそれ以外の思考を奪っていた。
なぜだ。
ヒエイは自問を繰り返す。
あの男は何だ。なぜ、アンジュは僕を拒むばかりではなく、あんな軽薄そうな男に懸想するのだ。
考えても答えは見つからない。わかるわけはないとわかっているのに、考えずにはいられない。
わかるのは、自分がただただ不快に思うということだ。そして、その増幅するばかりで抑えようのない不快感のやり場がわからずに、ヒエイはぎゅっと膝を抱えた腕に力をこめる。
自分は心の広いほうだと思っていた。アンジュとだって、すぐに仲直りできると思っていた。なんだかんだいっても、一緒に長い旅をして共に苦労を乗り越えてきた仲。固いきずなで結ばれていると信じていたんだ。それなのに、なぜ、アンジュは……。
「クソっ」
ヒエイは歯ぎしりをして右の拳で甲板をたたいた。
たたいたところで何も起こらない。ただ握った拳に痛みが走り、そのしびれとともに情けなさが彼の胸にこみ上げる。
「なに、やってるんだ。僕は……」
「お。こんなところにいたか」
ヒエイの出口のない思考を途切れさせたのは、アトラスの声だった。
「ちょいと、俺もここに座るぜ」
ヒエイの返事も待たずに彼の隣に腰をおろして胡坐をかいたアトラスは、一つ息を吐いてから話しかけてきた。
「ショックだったなあ。アンジュに男ができてたなんてよ」
いきなり心をえぐってくるようなその発言に、ヒエイは眉をひそめた。軽くアトラスを睨むが、暮色に染まりゆく空を見上げて微笑む彼の、そのすがすがしい表情に何も言えなくなる。
「ああ、ショックだったよ」
ヒエイは素直に答えた。そう、ショックだった。いろいろな考えで頭が混乱しているが、もっとも核となるものを取り出せば、結局のところその一言に尽きた。ショックだった。アンジュがほかの男と仲睦まじくしていて、ショックだった。
「でもな、ヒエイ。その気持ちを先にアンジュに味わわせたのは、おまえさんだぜ。きっとアンジュも、ショックだったと思うんだ。おまえさんが、メルラを仲間であるかのように言い始めたとき」
そうかもしれない、と、ヒエイは唐突に悟る。
あの港町ムールの隠れ家で言い争った時の、アンジュの表情が、抱えた膝に顔を埋めた寂しそうな姿が、ヒエイの脳裏に鮮やかによみがえった。あの時、アンジュもまた、同じ悲しみと不快感にさいなまれたんだ。先にアンジュを傷つけたのは、僕だった。
ヒエイは抱えた膝と膝の間に顔をうずめる。
ああ、僕はおろかだ。心が広いとうぬぼれて、その実仲間の気持ちもわからず、自分ばかりが傷ついた気になって、しかも傷つけた仲間に不快感さえ抱こうとした。どうしようもない人間だ。力も気持ちも弱くて、優しさだけが取り柄だと思っていたのに。それさえこんなにも脆くてお粗末だなんて。
ヒエイの目から涙が零れ落ちる。
「アトラス。僕は、本当に、ダメな人間だな」
返ってきたのは、笑い声だった。普段と変わらぬアトラスの、湿った空気を吹き飛ばすような陽気な笑い声だった。
「そんなこたあ、ないぜ」
ヒエイが顔をあげて振り向くと、アトラスのほほ笑みとぶつかった。暮色の空を映す彼の目は、どこかヒエイをいたわるような表情をしていた。
「お前さんがもし本当にダメな人間なら、俺は今、ここにいねえよ。ハザムも、アンジュもだ」
「でも、アンジュは去ってしまった」
「アンジュは、去ってなんかいねえよ。あいつは今も、変わらずお前さんのことが好きだ」
「なんで、それがわかるんだよ」
「俺の、勘だ」
アトラスがあまりにも自信たっぷりに言うので、ヒエイは思わず吹き出してしまった。
「なんだよ、そりゃ」
「俺の勘は、当たるんだぜ」
そしてまた、豪快に笑う。つられてヒエイも弱く笑った。屈託のないアトラスの笑い顔を見ていると、なぜだか本当に彼の言うとおりであるような気がしてくる。理屈なんか抜きで、世界も人も美しくて、進む未来にはきっと良いことがあるように思える。アンジュもまた、以前と変わらずに自分の隣に座ってくれるように。
口もとに笑みを残したアトラスは、ヒエイの表情をみてひとつうなずいた。
「ちょっと顔もほころんできたか。そっちのほうがやっぱりいい。ヒエイよ。お前さんは、いい男だぜ。自信持ちなよ」
「完璧には程遠い。欠点だらけの、弱い人間だよ」
「それはつまり、弱い者の気持ちがわかるってことだ。欠点があると自覚しているということは、欠点のある人間を認められるということだ。いい男じゃないか」
「そう……かな」
「そうさ」
完璧な人間はいない。だけど、欠点は少ないほうがいいし、弱いよりは強いほうがいいとヒエイは思っていた。しかし、アトラスに言われると、欠点があって弱いことも、あながち悪くはないように思える。
「ありがとう」
思わずヒエイの口から漏れ出た言葉に、アトラスは照れたように頭をかいた。
「こりゃ、どうも」
そう言ったかと思うと壁に背を預け、頭の後ろに両手をおいて、先ほどよりは色の薄くなった空を見上げる。
「ところでヒエイよ。天気の天使をやっつけたら、お前さんは何をしたい」
「どうしたんだい、いきなり」
「疲れた時や、苦しい時、俺はいつも考えるんだ。この旅を終えた先にある、楽しい未来をな」
「今が精一杯で、あんまり考えられないな、僕は。君は、その未来で何をしているんだい」
ふと、ヒエイの脳裏には、新しい国の指導者として民を導くアトラスの姿が浮かんだ。彼にはそんな姿が似合っていると思ったし、実際にそうなるのではと思えた。
しかし、彼からの返答は違っていた。
「俺は、ぽかぽかと日の当たる庭で、昼寝がしたいな」
目をやさしく細め、アトラスは言う。
「まずは家族をつくる。そして嫁さんと子供と一緒に、休みの日にはピクニックに行くんだ。もちろんよく晴れているんだぜ。花を摘んだり、小鳥を観察したり、ふわふわの雲を見上げて寝ころんだりして。それから昼は木漏れ日の舞う木陰で、みんなで弁当を食べる」
はるか遠くを見晴るかすアトラスの横顔を、ヒエイはまぶしい思いで眺めていた。意外だった。だが、そんなアトラスの未来も見てみたいと思った。彼の築く家庭は、きっと笑いに満ちた、幸福なそれになるだろうと思えたから。
「いいね」
そう、答えてヒエイもまた空を見上げる。茜色に染まる雲の向こうに、小さな星がきらめいていた。
「僕も考えたよ、アトラス。君が家族と暮らすその家に、僕は時々遊びに行こう」
ふと、イメージが広がる。窓から差し込む光。その光の中で笑いさざめく人々……。それは我ながらとてもいいアイデアだと、ヒエイは確信しながら言う。
「君の好きな酒を持って。……アンジュと一緒に」
カチャリ……。
と、近くで物音がした。振り返って、ヒエイは息をのむ。
アンジュがそこに立っていたから。
〇
盆を捧げ持ったアンジュは、ヒエイと目が合うと、気まずそうに視線を下げた。
「アトラスはここだろうって、ハザムからきいたから」
そして盆にのせていたグラスを掴んで、アトラスに差し出す。
「酔い止めの薬。作ってきたから、飲んで」
「お……おお。ありがとな」
立ち上がったアトラスはグラスを受け取ると、ヒエイを一瞥して彼にうなずきかけた。
「そうだアンジュ。ヒエイがお前に話があるんだとよ」
そう言いながら、自分は少し離れた手すりのほうへと歩いていく。ヒエイとアンジュをふたりきりにしようという気遣いのようだ。
「あの……、アンジュ」
アトラスに感謝しながらヒエイはアンジュの前に立つ。まっすぐに彼女を見つめながら。またそっぽを向いて逃げられたとしても、すぐに追いかけて、何度でも彼女と向き合うつもりで。
幸いにしてアンジュは逃げ出さなかった。ただ、視線を斜め下に流したまま口をつぐんでいる。そんな彼女に、ヒエイは深々と頭を下げた。
「アンジュ。謝らせてほしい。君の気持ちを考えずに、自分勝手なことばかり言って、君を傷つけてしまって……。本当に申し訳ないと思う。……ごめん。本当に、すまなかった。僕は、ひどい奴だ。もう君は許してくれないかもしれないけど、もし許してくれるのだとしたら、僕はそのために何でもするよ」
「頭を、あげなよ」
ヒエイの頭上に降ってきたアンジュの声は、思いのほか、穏やかだった。
顔をあげてみると、腕組みしたアンジュはじっと海を眺めていた。いつもどおり感情の読めないポーカーフェイスで。しかしその表情は、何かをこらえているようにも見えた。
「私のほうこそ、今のうちに謝っておくよ。……ほんとうに……ごめんなさい」
なんのことを?
ヒエイが問いかけようとしたその時だった。
ヒエイの背後で何かが落ちる音がした。
振り返ったヒエイは、驚愕に声を出すこともできなかった。
アトラスが、倒れていたから。




