40 海
初めて見る海は、本当にどこまでも平らで、果てがないかのように広かった。
ヒエイは出航翌日の昼になっても貨物船の甲板の手すりにもたれて、飽かずに水平線を眺めていた。あの、空と水の境目の向こうを想像することは、そびえたつ山の稜線を見上げることに似て、彼の心を興奮させる。しかもそれが、この船の行く先だけでなく360度どこまでも広がっているのだ。
「すごいなあ。世界って、広いんだなあ」
ほとんど恋する乙女のようにうっとりと、感嘆する。
「またかよヒエイ。そのセリフ吐くの何度目だ。いい加減飽きないかよ」
ヒエイの隣で手すりにもたれかかるアトラスの声がうんざりしているように聞こえるのは、ヒエイの様子に呆れたからというばかりではない。
「うぷっ。吐く、とか言ったら、また吐き気が……」
手すりから身を乗り出して、胃の中のものを海に吐き出す。甲板に座り込むとアトラスは、息を切らしながら額の汗をぬぐった。
「まったく、参ったぜ。これが船酔いってやつか」
「大丈夫かい、アトラス」
「ああ……まあな。それより……」
アトラスは甲板の一隅を視線で示す。彼らから少し離れた場所に、アンジュがひとりでたたずんでいた。彼女もまた、手すりにもたれて海を眺めている。
「いい加減、仲直りしてやれよ」
「イヤだね」
ヒエイは反射的に答えた。
「さっき声をかけたら無視された。二度と話してやるもんか」
ヤレヤレと、アトラスは肩をすくめた。
「しかし、これはめえさんが悪いぜ」
ヨロヨロと立ち上がってまた手すりにもたれかかり、わざと陽気な調子で言った。
「あんまりお前がメルラメルラというもんだから、アンジュがすねちまったんだ」
「なんで、アンジュがすねるんだよ」
ヒエイが吐き捨てるようにつぶやく。そのセリフにアトラスの目が丸くなる。
「お前、わかってないのかよ」
「なにが?」
アトラスはため息交じりの苦笑を漏らし、大げさに首を振った。
「それを、俺に言わせるなよ」
はるか水平線を見やり、頬を緩める。
その、どことなく夢を見ているような表情を眺めていたヒエイは、やがてあることに思い当たって、ハッと息を飲んだ。
「まさか……」
「アンジュも、一人の乙女だってことだよ」
いや、そんなはずはない。
と、ヒエイは心の中で即座にそれを否定する。あのアンジュに限って、人に恋愛感情を持つなんて。しかもそれがこの僕に対してとは。だって、絶対僕は彼女のタイプじゃないだろう。
「なにかの、間違いでは。だいたいなんで、君にそれがわかるんだ」
「わかるさ。っていうか、傍から見ていれば筒抜けだよ。恥ずかしいくらいに。知らぬのは本人だけだ」
「そ……そうなの」
ヒエイがなおも疑わし気な視線を向けると、まだ夢見心地に目を細めながらアトラスは、アンジュのほうを顎でしゃくった。
「確かめてみれば、いいじゃないか」
ヒエイは無言でうなずいて手すりから離れ、アンジュのほうへと足を向けた。
絶対あり得ないと否定しながらも、わずかな期待に動かされて。
一歩一歩、アンジュに近づいていきながら、ヒエイは自分に言い聞かせる。
わかっている。きっとアトラスは僕をからかっているんだ。彼女が僕なんかを好きなわけがない。好きだなどと期待してはいけない。うぬぼれるなヒエイよ。だってそうじゃないか。僕はひ弱で頼りにならなくて……。我ながら女の人から好かれるとは思えない。それに好きだと思って話しかけて、もし勘違いだったら死ぬほどダサいじゃないか。でも……。
ヒエイの足が止まる。いつの間にかアンジュのすぐ傍らまで到達してしまっていた。アンジュは彼の存在に気づかぬ様子で、一心に海の向こうを眺めている。
ヒエイの胸の鼓動が高まる。
(でも、もし、彼女が僕のことを男として好きだというのなら、僕はそれを受け入れるのにやぶさかではない)
はからずも、彼女とひとつ屋根の下で過ごす日常を想像してしまう。ダイニングのソファでくつろぐ自分。それに寄り添うアンジュ……。それもまた、いいかもしれない。
ヒエイは大きく息を吸い、意を決して声を発する。
「ねえ、アン……」
声が彼の口から出た瞬間、まるではじかれたように、アンジュの身体はヒエイから離れた。もちろん返事などしない。全くの無視。いや、無視以上だ。ヒエイの姿を視界に入れることすら許せないといった様子でそっぽを向くと、彼女は足早にその場から去っていった。それは、彼女のヒエイに対する拒否を、全身で表しているようだった。
その、怒気のこもった後ろ姿を見送りながら、ヒエイは確信する。自分は今、死ぬほど無様だと。そして心に誓う。もう、二度とアンジュに話しかけてやるものか。
○
アンジュに男がいるらしい。
昼食後にそう、ヒエイに教えてくれたのはハザムだった。彼女の部屋に昼食を運んであげた際、見てしまったのだという。男がアンジュと話しているのを。
「アンジュだって、男と話すくらいするだろう」
そっけなく言ったつもりだったが、声が少し震えた。動揺するな。アンジュのことなんか、もう知らないんだから。ヒエイはそう己に言い聞かせて、言葉を続ける。
「船員さんじゃないのか」
「そうじゃ、ないんだ」
ヒエイの淡い期待を込めた言葉を、ハザムはスパッと切り捨てた。
「小綺麗な格好をした、紳士だったよ。あれは、外国人だね。よくわからないけど、すごい美男子だった。背も高くて物腰も上品で、まるでどこかの貴族みたいな人だよ」
「どうせ、チャラい男が一方的に絡んでただけだろ。物好きな奴だ。そんなの、アンジュが相手するわけがない」
「いや、アンジュも、まんざらでもない様子だったよ。ずいぶん親しげに相手と話し込んでいた。俺も意外だったよ。アンジュなら、ナンパなんか寄せ付けないと思っていたのに。あれじゃあまるで……」
「だったら!」
ハザムの言葉を遮るようにヒエイは声をあげた。その鋭さに自分自身で驚きつつ、しかしその勢いのまま口走る。
「だったら、確かめてみよう。本当にアンジュが、その男とよろしい仲なのか」
「確かめて、どうするんだ」
そう、問いかけてきたのは、それまで黙っていたアトラスだ。
勢いよく立ち上がって船室から飛び出そうとしていたヒエイは、扉の前で立ち止まった。
「わからない。でも、じっとしていられないんだ」
そう答えて弱々しく首をふるヒエイの肩に、アトラスの手がのせられる。
「俺も、いくよ」
そして彼は振り返ったヒエイに笑いかけた。いつもの彼らしい、苦しみや不安を吹き飛ばしてしまうような豪快な笑みだった。
〇
ヒエイとアトラス、ハザムの三人は、その件の男を探して船内を歩き回った。だが、男を見つけるだけでは解決しない。男とアンジュの仲を確認するというからには、二人が一緒にいる場面に遭遇しなければならなかった。そしてその機会はなかなか訪れず、午後の数時間をいたずらに過ごす羽目になったのである。
ようやくそのシーンに巡り合うことができたのは夕方。船の煙突にあたる陽の色が鐙色がかり、甲板の上を這う影が長くなってきたころだった。
アンジュとその男は、船尾甲板の、積まれた荷と荷の間にいた。普段人が立ち入らぬ、そこは場所だった。
救命ボートの影に身をひそめ、ヒエイはハザムに確認する。
「あの男で間違いないかい。ハザム」
「ああ。あいつだ。間違いない」
「なるほど、いい男だな」
ボートの影から顔をのぞかせたアトラスがつぶやくと、ヒエイも応じて頷いた。
確かにその男は美男子だった。涼し気な目もと、鼻筋の通った端正な顔立ち。スタイルもいい。背は高くがっしりしているが物腰は上品だ。まるで人形のように完全無欠な、その姿かたちだった。アタナミでは見慣れないタキシードに身を包んだ彼は、高く積み上げられた荷に手をついて、正対するアンジュをその荷に押し付けるような格好で、何か話しかけている。
「でも、そんなに親し気な様子でもないようだが……」
ヒエイは目をすがめながら、指摘する。荷に背をあずけて男と向かい合うアンジュの表情は不機嫌そうだ。腕を組んで、頭上から話しかけてくる男からそっぽを向いている。男はにこやかに話し続けているが彼女の反応は薄い。
「ほら、アンジュはあんなに怒ったような顔をしているよ」
「それはいつものことじゃないか」
アトラスとハザムが同時に言い、ヒエイは肩をすくめた。
そんなにきっぱり言ってやることないじゃないか。この場にアンジュがいたら怒られるぞ。と思いつつ、しかし一方で、確かに表情だけではアンジュの気持ちは測れないということは、認めないわけにはいかなかった。
(それでは、あのアンジュはどっちのアンジュだ。喜んでいるのか。怒っているのか)
ヒエイがあれこれ悩んでいるうちに、荷の間のふたりに動きがあった。
アンジュが男の手を振り払ってその場から去ろうとしたのだ。
(ああ。やはり怒っているほうだったか)
ヒエイがホッと安堵の息を吐く。
その時だった。荷の間から立ち去ろうとしかけたアンジュの足が止まったかと思うと、彼女はくるりと回れ右をし、再び男と向き合った。と思う間もなくその腕が男の肩にまわされる。そしてアンジュの顔が男の顔に近づいていって……。
その場の誰も、一言も声を発しなかった。アトラスもハザムも、そしてヒエイも。ただただ驚きに目を丸くして、凍り付いたように目の前で繰り広げられる信じがたい光景を凝視する。
静かだった。波の音も聞こえなかった。その静寂の底でヒエイは、息をするのも忘れてただただそのシーンを眺めていた。
「行こう」
アンジュと男の顔が離れると、静かにそうとだけ言って、彼はボートの影から離れた。




