39 アンジュの覚悟
まったく。ヒエイの奴ったら、あの女のどこがいいというのだろう。
船室から飛び出たアンジュは、その勢いのまま船から降り、作業員たちが立ち働くふ頭を徘徊していた。朝もやにかすむ港の景色もよく見ず、時々労働者にぶつかりそうになって舌打ちをされながら、傍若無人に歩き回る。頭の中はヒエイとメルラのことでぐちゃぐちゃだ。
メルラなんか、ただの魔法が使える女じゃないか。魔法が使えて、若くて、可愛くて……。
あの澄ました顔を思い出すと、悔しさばかりがこみ上げる。実年齢はわからないが、見た目は間違いなく自分より十歳は若い。風雨にさらされたことがないような艶やかな金髪も、なめらかな白い肌も、殺し屋稼業で擦れ切った自分にはないものだ。それなのに、強さでさえ彼女にはかなわなかった。
アタナミのオアシスでの無様な敗北を思い出して、アンジュは奥歯をかみしめた。
わかっている。あの女は天使の付き人。特別な存在なんだ。自分みたいな人間がかなうわけがない。自分があいつに勝ることがあるとすれば、ヒエイと苦楽を共にした時間。彼との絆だけだった。それだけが今の私のよりどころだったのに……。
目頭が熱くなって、アンジュはまた目を乱暴にぬぐう。
わかっている。ヒエイの心は彼のもの。彼が何を考えようと、誰に好意を持とうと彼の勝手だ。私だって勝手にヒエイに好意を抱き、彼のための汚れ役になろうと自分で決めてついてきた。そんな私が彼の心を縛ることはできないんだ。でも、それでも……。
振り向いてほしい。そう、思ってしまった時、アンジュはハッと息をのんで立ち止まった。
そこは人気のない岸壁だった。倉庫と海に挟まれた狭いスペース。いつしか大桟橋から倉庫地区へと足を踏み入れていたのだ。しんと静まり返った岸壁の、建物や扉や木箱の影に、ひりつくような殺気が漂っている。
(チッ。私としたことが。考えに耽りすぎて周囲の警戒を怠るなんて)
みんなあの女のせいだ。そうぼやきながら踵を返し、急いで戻ろうとする。しかし帰り道もすでに怪しい人物たちにふさがれていた。
「もし。お嬢さん」
声をかけられて振り返ると、見知らぬ人物が数人の親衛隊員を従えて立っていた。長身の男だ。若い。アンジュよりも年下かと思われるその青年は、涼し気な目もとに笑みを浮かべて、慇懃に腰を折った。
「もし、よろしければ、僕と一緒にお茶でもいかがですか」
よく見ればかなりの美男子だ。ガサツなアトラスとも優しいが気弱なヒエイとも違うタイプ。端正な顔にたくましさと怜悧さを共存させた、人形のような男だった。
しかし気が立っているアンジュは、相手の容姿など気にも留めずにそっぽを向く。
「暇じゃないんだ。ひとりで飲みな」
ぶっきらぼうに答えてその場を通り過ぎようとした。親衛隊員を従えて、お茶もあったもんじゃない。絶対にかかわらないほうがいい。
しかし美青年は引き下がらない。アンジュの前に立ちはだかって、白い歯を見せて笑いかけた。
「まあ、そうおっしゃらずに。メルラ様が、お話ししたいのだそうです」
メルラ……。その人名にうっかり反応してアンジュは立ち止まり、男の顔を見上げた。
笑みを浮かべたままではあるが、その肌は陶器のように無機質で、笑っていない目は冷たい光を宿して語っていた。お前を逃がさないと。
〇
アンジュが連れていかれたのは、港近くの通り沿いにある、小さなカフェの二階だった。釣鐘型の窓からは港に泊まる貨物船がよく見える。
「まあ、まずは一杯どうぞ。紅茶です」
瀟洒な白い丸テーブルをはさんでアンジュの向かいに座ったメルラは、そう言って優雅にティーカップを口に運んだ。
くつろいだ様子のメルラとは対照的に、アンジュは注がれた紅茶に手を伸ばさず、警戒感もあらわな視線を左右に走らせた。とりあえず殺気はない。貸し切りらしい店内にはメルラとアンジュと、それからここまで彼女を案内したあの青年がいるだけだ。彼に率いられていた親衛隊員達はいつの間にかいなくなっていた。
「それにしてもわからないね。あんたはいつの間に親衛隊と仲良しになったんだい」
「仲良くなったわけではありません。ただ、ちょっと手伝ってくれるようお願いしたのです。普通に頼んでも、あなたは来てくれないだろうと思ったので」
こともなげに答えて、メルラは己の背後に立つ青年を視線で示した。
「この子の能力でね」
「自己紹介がまだでしたね。僕はメルラ様の従僕で、カルーアと申します。お見知りおきを」
一歩前に出たカルーアは港でと同じように優雅に腰を折ったかと思うと、アンジュを上目づかいでちらりと見てウインクをした。
「好きなものは、可愛らしい人形。それから美しい女性です。あなたのような」
「むしずがはしるね」
アンジュは眉をひそませ反射的に答えてしまう。メルラの配下だから、あのフレイア国境の防人のような恐ろしい人物を想像したが、ふざけている。こいつのあだ名はとりあえずキザ男だな。
「カルーア。邪魔ですよ」
メルラがこの歯の浮くようなセリフにも全く動じずに、紅茶のカップを置いて命じると、キザ男は表情を改め、はじかれたように背筋を伸ばして壁際へと引いた。
「こんな子でもいざとなったら頼りになるのです。本当は、アタナミにはこの子と来る予定だったのですが、南の国境の防人の職を引き継ぐのに時間がかかってしまって……。おかげで、あなたたちに迷惑をかけることになってしまいました」
それをきいたアンジュの全身に緊張がはしる。メルラとカルーアを交互に睨みながら彼女は思う。キザ男も国境の防人だったのか。ということは、自分たちが国境を越える時に苦戦したあのメンフィスという防人と同等の力を持っているということだろう。天使の付き人とその配下の防人。その二人がいる部屋に座らされているこの状況は、相当やばいのではないのだろうか。
「そうそう。それで、本題です」
アンジュの緊張など気にも留めずに、メルラは相変わらず無感情に、淡々と話を進める。
「アンジュさん、あなたは殺し屋なのですよね」
「ああ……。そう、だけど」
「あなたに仕事を依頼したいのです」
「……標的は、だれ?」
紅茶をまた一口すすったメルラは、その大きな杏仁型の目でアンジュを見据えた。
「フレイア国教会の僧侶。アトラス」
〇
「聞き間違いかもしれないから、確認するけどさあ……」
長い沈黙のあと、つばを飲み込んでから、アンジュは慎重に口を開いた。
「それは、今、私やヒエイと一緒に旅をしているアトラスのことかい?」
「そうです」
メルラの答えはすぐに返ってきた。即答だ。姿勢も表情も全く変えずにあっさりと。アンジュを見据えたまま、まるで口笛でも吹くような気やすさで、言ってのける。
「黒棒使いのあのアトラス君を、殺してください」
「そんなこと……」
「できませんか」
「あたりまえだろ。一緒にここまで旅してきた、仲間だよ」
「そうですか。あなたは冷酷非情な殺し屋だと、思っていたのですがね」
見損なってもらっては困る。
と、アンジュはここに来てから初めて怒りに震えながら思う。こう見えても、多少の情は持ち合わせている。確かに平気で人を殺すし、同じ組織の刺客を手にかけもしたが、ここまで一緒に旅して苦楽を共にしてきた仲間を簡単に裏切れるほど腐ってもいない。お前と一緒にするな。
「みこみ違いだったね。他をあたりな」
そう言って立ち上がろうとしたときだった。己の体を突然襲った異変に、アンジュの両目が見開かれた。
どうしたわけか、腰が上がらないのだ。足と腹に力をこめるが、どんなに力んでもその意志とは裏腹に、どうしても体は動かなかった。
(どうして、動かないんだ)
焦りにポーカーフェイスが崩れそうになっているアンジュを、メルラの背後にいたキザ男がニヤニヤしながら見つめていた。
「まだ話は終わっていませんよ。失礼な人だなあ。メルラ様がいいとおっしゃるまで、お人形さんのように、そこに座っていなさいよ」
そう言って前に出した右手の指を、ピアノでも弾くみたいに動かす。とたんにアンジュの背中は椅子の背もたれに張り付けられ、両手はお行儀よく膝の上にのせられた。
そうか。こいつの能力は……。
歯ぎしりしながらキザ男の端正な、しかし嫌らしくニヤけた顔を見上げたアンジュは、この時ようやく理解した。
カルーアという、このメルラの配下の能力。それは人の身体を人形のように操る能力だ。港で彼に付き従っていた連中は皆、同じようにしてこの男に操られていたんだ。
「こんな能力があるんなら、わざわざ親衛隊員を動かすなんてことしないで、直接私を操ってここにつれてくればよかったじゃないか。まわりくどい奴だね」
アンジュが憎まれ口を叩くと、カルーアは愉快げに口を歪めた。
「それじゃあ、ちっとも、面白くない。あなたには自分の意思でここに来てもらいたかったんだ。でないと罪悪感を抱かないだろ」
「あの東の国境の防人メンフィスといい、いい趣味してるね。あんたの部下は」
アンジュの悔し紛れの嫌味に、メルラは微風に吹かれたほどにも表情を変えない。
「あなたは、私の言うとおりにすることをお勧めしますよ」
「嫌だと言ったら」
「あなたたち全員、殺すまでです。でも、アトラス君をあなたが殺すなら、他の者は生かしておいてあげます」
「どうして……」
立ち上がることをあきらめたアンジュは、せめてもの抵抗にメルラを睨みつけた。
「私たちをこの街に運んだのはあんただろ。私たちたすけるようなことをしておいて、どうして今更そんなことを言い出すんだ。ヒエイは……」
あの隠れ家で、ムキになってメルラのことをかばっていたヒエイの姿が、脳裏をよぎる。はからずもこみ上げてきたものが零れ落ちてしまわないように我慢しながら、アンジュはつづけた。
「ヒエイは、あんたと仲間になりたいとすら、思いはじめているのに」
そのヒエイから、親友を奪うというのか。
アンジュの言葉はもちろん、この冷酷な魔女の表情を崩すことはない。心の動揺を一切におわせない、億劫そうな表情。しかし彼女が次に口にした言葉は、意外なものだった。
メルラは言った。
「その、ヒエイ君のためです」と。
〇
沈黙が一瞬、閑散としたカフェにおりる。予想外の一言に言葉を失い、固まるアンジュ。そんな彼女の様子は意に介さず、悠然と一口紅茶をすすってから、メルラは話をつづける。
「私もね、少しだけ情が湧いてしまいました。できれば彼らを殺したくはない。でも、私は天使様の守り人。あのお方を脅かそうとする動きは阻止しなければなりません。わかりますね」
「ああ……」
「逆に言えば、その動きを阻止することさえできれば、私はそれでいいのです。ナイアスの聖人をフレイアに連れていくことが失敗しさえすれば。そして私の見たところ、それはひとりの犠牲で成就できる」
一呼吸おいて、メルラは断言する。
「それがアトラス君です」
「どうして……アトラス、なの」
やっとの思いでアンジュは声を絞り出す。かすれた弱々しい声しか出ない。対して答えるメルラの声は、淡々とはしているものの確信に満ちて澱みなかった。
「彼らの計画を推し進めている強力なエネルギーは、彼の熱意です。彼に比べればヒエイ君はあまり積極的ではない様子。つまりアトラス君さえいなくなれば、その計画は推進力を失い、とん挫する」
「そんなこと……」
ない、と言いかけて、アンジュは口をつぐむ。確かに、メルラの言う通りだと思ったから。ヒエイ含め私たちはみんな、あのアトラスの強力な熱意に導かれてここまでやってきた。あの困難な旅を続けてこれたのは、彼がいたからだ。苦しみや不安や、襲い来るネガティブな気持ちを彼がいつも笑い飛ばしてくれたから、みんなここにいる。それはヒエイと私だけではできなかったことだろうし、これからもできないと思う。だって、ヒエイはあまりに繊細で、私は……。
「あなたは、ヒエイ君が無事ならばいいのでしょう?」
メルラの言葉が、アンジュの胸に突き刺さる。顔をあげると、メルラは無表情に、しかし見透かすようにアンジュを見つめていた。
「なら、答えは決まっているはず。これは、私の思いやりですよ」
「あんたって人は本当に……」
アンジュは口をゆがめた。微笑んだつもりだったが、頬がひきつってうまく表情はつくれなかった。
「外道だね。今日は、それが知れただけで大満足だよ」
そしてひとつ、大きく息を吸う。
(ごめんね)
横目で港の貨物船を一瞥し、そう胸の中でつぶやいてから、メルラを睨みつける。
「わかった。その依頼を受けよう」
「そうですか」
メルラはさも当然と言った様子で鷹揚にうなずく。
「では、お願いします。期限は明後日の日没まで。そうそう……」
立ち上がりかけてから、思い出したように付け足した。
「もちろん、裏切りは許しませんよ。期限までに依頼が果たされない場合は、皆さんに死んでもらうことになります。この子を監視につけておきますので、よろしく」
メルラの背後で毒々しい笑みを浮かべたカルーアが、また慇懃に腰を折った。




