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4 魔女

 ストレイ地区は王都の東部に位置しており、宿屋や各種商店が軒を連ねる商業地区である。メイン通りは幅も広く教会通りと同じように石畳で舗装されている。隙間なく立ち並ぶ五層の建物たちに挟まれたその街路には、雨でも大勢の市民が行き交い、それらの人々が醸し出す喧騒が絶えることはない。


「おかしいな」

「うん……」


 憲兵隊の検問を突破してストレイ地区に入ったヒエイとアトラスは、そのメイン通りの光景に眉をひそめた。

 にぎやかなはずの街路に、人っ子ひとりいないのだ。

 石畳の敷かれた整然とした通りにはただ雨音だけが陰鬱に響き、霧が漂うばかりである。


「何かの罠かもしれない」

「だが、進むしかない。行こう」


 警戒しながら馬車をゆっくりと進ませる。人がいないついでに、憲兵の姿もない。霧や物陰に隠れているのかもしれないと注意して視線をめぐらせるが、怪しい者の影も見出すことはできなかった。


 このまま突っ切れるのか。


 そう期待するものの、馬車の速度を早くすることはできない。通りを進むにつれて霧がどんどん濃くなってくるからだった。通りの両脇に立ち並ぶ五層の建物たちの屋根が見えなくなり、その窓ガラスや壁が見えなくなっていく。街路樹の枝々が霧に飲み込まれ、しまいには数歩先の石畳さえ見えなくなってしまった。


「これは……おかしいぞ」


 ついに馬を止めたヒエイは目をすがめながら周囲を見回す。前後左右、白一色に塗りつぶされてどこに何があるかわからない。これは尋常なことではない。


「無駄な抵抗はやめなさい」


 突然白い幕の向こうから声がきこえてヒエイとアトラスは同時に身構えた。


「だれだ」

「お城からの使いです。あなた方をナイアスに行かせるわけにはいきません」


 ヒエイの身体に緊張がはしる。


 なぜ、自分たちの目的地が知られているんだ。しかもこの声……。


 ヒエイは先日の天使との謁見を思い出していた。玉座の後方の段の上。天使の間の前にたたずんで一座を睥睨していた、金髪の若い女。少女のような容姿に似つかわしくない物憂げな表情。引きずり込まれそうな深い水色の瞳。落ち着いているが有無を言わせぬ冷たい声音……。


「お前、メルラだな。天使の付き人の」

「呼び捨てとは失礼ですね。もっと敬意を払っていただきたいものです」

「なぜ、僕たちの邪魔をしようとする」

「私は天使様の付き人ですよ。あのお方を脅かそうとする動きを阻止するのは当然の役目です」


 意外だった。あの傲慢な天使は人間のことなど歯牙にもかけていないと思っていたのだ。もっとも、天使がその気なら、今頃自分たちは雷でも落とされて黒焦げになっているかもしれない。天使は歯牙にもかけていないが、その配下たるメルラは気を利かせて彼を守る行動に出ている……とみるべきか。


「さ。今ならまだ、ちょっとお仕置きするだけで許してあげます。はやく教会におかえりなさい」


 メルラの言葉と同時に突然息が苦しくなった。空気が重い。霧の密度がさらに濃くなったみたいだ。


「馬鹿を言うな」

 そう言い放ったのは、アトラスだ。彼は黒棒で荷台を突いて立ち上がり、傲然と言ってのける。

「天使が行動を改めるのなら教会に帰ってやろう。しかしそれができないから、俺たちは勝手に自分たちを救う手立てを考えて行動してるんだ。あんたは役目だというけれど、あいつを諫めることこそ役目なんじゃないのか」


 メルラから返事はかえってこなかった。

 そのかわり前方の霧の中に人の影が浮かぶ。前方だけ霧が後退しているのだと気づくうちに、人影を覆う白色がしだいに薄れていって、やがてヒエイたちの前にメルラがその姿を現した。


 碧い道衣を身にまとったメルラは青白い顔をヒエイとアトラスに向け、杏仁型の目をわずかに伏せて、億劫そうに言った。


「残念です」


     〇


 周囲を覆う霧がさらに濃くなった。体にまとわりつく湿気が粘り気を含んでいるようだ。空気がさらに重くなる。首筋を滴り落ちるのは雨滴なのか汗なのかわからない。


 対峙するだけで消耗していくようだった。

 それほど目の前に立つメルラから発せられる圧力は強かった。構えるでもなくそこに静かに立っているだけなのに、彼女の発する殺気だけで押しつぶされそうだ。少女みたいな見た目のこの女のどこに、これほどのエネルギーが隠されているのか。


 しかしただ指をくわえているわけにはいかない。このままではやられるだけだ。


 意を決したヒエイは両手を前にかざす。

 半目になり息を吐こうと努める。動悸が激しい。上手く呼吸ができない。しかしやるしかない。今、自分が出せる一番強力な技で、あいつを吹き飛ばす。


「風よ、我が掌より発せよ。渦となりていく手を薙ぎ払え」

 四方八方から風が流れ込んでくる。それはかざしたヒエイの両掌の前に集まり、緑の光を発する小さな塊となった。

「疾風砲!」


 ヒエイは目を見開くと気合を込めて、その塊を両手で力いっぱい押した。

 ヒエイの手から離れた光は、たちまち激しく渦を巻きはじめた。それはまるで横倒しになった竜巻のように、空気を裂きながら相手に襲いかかった。

 大砲の如き勢いで、風の渦はメルラに迫る。彼女は避ける素振りを見せない。いけるかもしれないと、ヒエイは一瞬思う。


 しかしそれが彼女に届くことはなかった。


 今にも緑の光が彼女を飲み込むかと思われたその時、突然彼女の前方に水が吹き上がったのだ。まるで滝を逆さにしたようなそれは、壁のようにヒエイの攻撃を弾き飛ばした。


「水流壁」

 水の壁が消えて再びその姿を見せたメルラは、相変わらず物憂げに虚空を見つめていた。

「やはり、ちょっと苦しい思いをしないといけないようですね」

 そして彼女は、持っていた杖で地面をひとつ突いた。


 霧がさらに湧き、視界がたちまち白で塗りつぶされる。メルラの姿も見えなくなり、静寂が訪れると同時に冷気が水滴と共に肌に絡みついた。

 馬がいななき足踏みをする。その足もとでバシャバシャと水の跳ねる音が響いた。


「おい、ヒエイ。まずいぞ。道がいつの間にか水浸しだ」


 足もとに目をやると、確かに水面が見える。しかもそれは次第に上がってきているように見えた。


「このままだと馬車ごと水没するぞ。お前の風の魔法でどうにかできないか」


 アトラスが背後でわめく。バシャバシャ音がしているのは彼が棒で水をかいているのだろう。その姿ももうよく見ることはできない。


 ヒエイにはこの状況を打開するいかなる考えも浮かばなかった。相手の魔力が強すぎる。己の力ではこの霧をはらうことも、嵩をあげる水を押しやることもできそうにない。


「すまん、アトラス。どうしようもない」


 ヒエイはうなだれて、だらりと両腕をおろした。まるで降参の意思を示すかのように。


 その時だった。


(手綱をとれ。ヒエイよ)


 彼の耳の奥で突然声が響いた。

 ヒエイは驚いて顔をあげる。それがデロス司教の声だったから。


     〇


 声に反応して反射的に手綱を握った瞬間、激しい地鳴りと共に体が浮いた。いや、身体だけではない。ヒエイの身体をあずける馬車ごと宙に浮いていた。

 水面はすでに見えない。

 霧が下へと流れていくような感覚がしばらく続いたのち、急に視界が開けた。


 周囲には繁華街の石畳の道も、街路樹も、壁も窓ガラスもない。ただどす黒い雨雲が意外な近さに垂れこめ、足元のはるか下に広がる雲海のところどころから、建物たちや尖塔の屋根が頭を突き出していた。


「こりゃあ、一体、どういうことだ」

 荷台にしがみついて下を見ながら目を丸くしているアトラスに、ヒエイは答える。

「司教様だよ」と。


 間違いない。こんなことができる人は他にはいない。デロス司教が遠隔で風の魔法を使い、我々を荷馬車ごと上空に飛ばして逃してくれたのだ。


 それを話すとアトラスは愉快そうに大笑いした。


「すげえな、司教様は」

「ああ。僕も、そう思う」


 アトラスにつられてヒエイも笑みを浮かべる。司教の存在を感じると、笑いと一緒に不思議な感覚が胸から湧き上がってくる。


(ゆけ。ヒエイよ。東へ)


 ヒエイはうなずいて手綱を取った。馬首を東へ向けて念じる。


「西風よ吹け。我らを東へと誘うのだ」


 たちまち馬車は東へと滑り出す。立ちはだかるものは何もない。このまま真っ直ぐ飛んで、すぐに都を出ることができると、期待が膨らむ。


 しかしそれは早計だった。


「おい。何だあれは」


 アトラスの呼びかけに目を凝らすと、前方の空中に黒い物体が浮いているのが見えた。

 いや、浮いているのではない。飛んでいる。翼をはためかせながら、みるみるうちにこちらに近づいてくる。


「おいおい。ありゃあ、ひょっとして……」


 アトラスが言葉を飲み込む。

 ヒエイもあ然とその生物を眺める。大きく裂けた口からのぞく鋭い牙。長い首。身体を覆う鱗。コウモリのそれを思わせる巨大な翼……。間違いない。翼竜だ。あんなものが存在するなんて。


「すげえ。初めて見るな。これもあの霧女の仕業かな」


 何故かハイテンションのアトラスの言葉に、うなずいている余裕もない。ヒエイは手綱を握り直して集中する。


「方向転換する。あいつから逃げるぞ」

「いや。その必要はない」


 アトラスの声は、妙に落ち着いていた。


「このまま真っ直ぐ突っ切ってくれ。全速力でな」

「おいおい。どういうつもりだ」


 思わず振り返ると、荷台に立って前方を見据えていたアトラスはヒエイを一瞥して、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「これから一緒に長い旅をするんだ。俺の力を披露しておこうと思う」


 そして両足を開いて荷台を踏みしめ、黒棒を上段に構える。彼の腕の筋肉が盛りあがり、棒を握るその手の甲や腕の表面に、網目のように血管が浮き出た。


 ヒエイは前方を向き、前傾姿勢になって念じる。西風よもっと吹け。アトラスに言われたとおり、翼竜に向けて一直線に。


 見るも恐ろし気な飛行生物の姿が、たちまちのうちに大きくなる。あたりが薄暗くなったかと思うと視界いっぱいにその巨大な翼がひろがり、足の先で鈍く光る刀剣のような爪が目前に迫った。


「どりゃあっ!」


 背後でアトラスの掛け声がした。

 轟音が鋭い風とともに頭上を駆け抜けていったかと思うと、次の瞬間、急に視界が開けた。

 気がつくと目の前に怪物の姿はなかった。右にも、左にも、後方にも。

 下を向くと、真っ二つに裂かれた翼竜の翼が順番に雲海に飲み込まれていくところであった。


(棒で翼竜を両断したか。これは愉快)


 司教の笑い声が、風に乗ってまたきこえてきた。


(さて、このまま一直線に城壁の外まで向かうがよい。しかし王都から出ればわしの力も及ばなくなる。その前に伝えておきたい。ヒエイよ。そなた教会でたずねたな。なぜ、自分たちなのかと)


 ヒエイは空を見上げてうなずく。


(わしは答えた。お前はわしの弟子で風を操る能力に長けている。アトラスは救民の高い志を持ち、不屈の精神を備えている。ふたりともこの国の現状を憂うわしの考えに賛同している)

「はい。そしてもうひとつ、言おうとなさいました」

(そうじゃ。わしはこう言いたかった。そして何より、そなたらは誰よりも勇敢だと)

「お師匠様。私は……」


 言いかけてヒエイはうつむき、口をつぐんだ。アトラスは確かに勇敢です。しかし私は自分がそうだとは思えません……。そう思ったのだが、その言葉を吐く前に彼の背中を風が押した。それはヒエイの操る風ではなかった。


(わしの見込んだとおりだ。行くがよい)


 優しい声と共に、風に乗った馬車の速度が上がる。再び顔をあげたヒエイの前方に、王都の東の城壁がせまっていた。

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