38 嫉妬
親衛隊員の姿を認めた四人は、即座に顔を伏せ、第三ふ頭をあとにした。
「気を付けて。あそこにいる奴らだけじゃない。怪しい動きをしているやつが何人もいる。きっとそれなりの人数が配置されてるよ」
アンジュが早口で注意すると、ハザムが忌々しそうに舌打ちをした。
「それにしてもしつこいな。大地の乙女は改心したんじゃないのか」
「あいつのせいじゃ、ねぇかもしれないぞ。国を支配していたほどの組織が、一日二日で消えてなくなるわけでもない。ここは王都からも離れているし。まだ旧体制が維持されているとみたほうがいいだろう」
珍しく冷静に分析しながらも、アトラスは首を傾げる。
「でも、そうだとしたら、あいつらの狙いはなんだろうな」
「治安維持じゃないかい」
アンジュが低い声で言う。
「反乱の話は伝わっていて、ここにも飛び火することを予想して、それにそなえているとか」
「いずれにせよ、俺達は親衛隊と派手にやり合ってるからな。関わればろくなことにはならんだろ」
「じゃあ、どうするのさ。このまま潜伏をつづけるのかい。いつ情勢が安定して奴らがいなくなるかわからないのに」
「メルラなら!」
ヒエイがアンジュの言葉を遮るように声を上げた。アトラス、アンジュ、ハザムの三人の視線が一斉に彼に集まる。己の発した声の思わぬ大きさにヒエイ自身が動揺して、彼はあわてて口に手をあてた。咳ばらいをし、声を抑えてつづける。
「メルラなら、なんとかしてくれるんじゃないか。ここは海辺で水も豊富だし、王宮のときみたいに親衛隊の奴らを一掃して……」
「駄目に決まってるだろ。あいつは敵だぞ」
「敵じゃない!」
ヒエイの剣幕にアトラスは押し黙った。
アンジュも何か言いたそうにヒエイを見たが、結局何も言わずに目を伏せた。
気まずい空気を払ったのはハザムだ。港から出たところで立ち止まった彼は、北の方角を指さした。
「客船で優雅に旅するのは俺達には似合わねえ。他を当ってみようと思うぜ」
ハザムの示す先には、大きな荷物を積んだ無骨な船が停泊していた。
「貨物船に乗せてもらえるか、交渉してくる」
「そうか。じゃあ、俺も手伝うよ」
ハザムに応じてアトラスも北へと足を向けた。
かくして四人は港を出たところで二手に分かれ、ハザムとアトラスは貨物船との交渉に向かい、ヒエイとアンジュは最初の隠れ家に戻って結果を待つことになった。
〇
目覚めた時にいた坂の途中の隠れ家は、薄汚くはあったが、窓から港の様子がよく見えた。さわやかな風が擦り切れた白いカーテンを揺らしている。そのカーテンの隙間から港をうかがうヒエイは、ずっと不機嫌な顔をしていた。
薄暗い部屋にいるのはヒエイとアンジュのふたりだけ。しかし会話はない。部屋の隅に膝を抱えてすわるアンジュは、時々窓辺のヒエイを見上げては、ため息をついて目を伏せる。
しばらくの沈黙の時間を過ごしたのち、ヒエイは窓辺から離れ戸口へと向かった。
「どこへ、行くの?」
アンジュに声をかけられて、ヒエイはびくりと立ち止まる。
「いや……。ふたりとも遅いから、様子を見に」
「嘘」
アンジュの鋭い言葉にヒエイは思わず振り返る。部屋の隅で膝を抱えるアンジュは、まるで敵と相まみえた猫のようにヒエイのことを睨んでいた。
「本当は、あの公園に行こうとしたんじゃないの」
ヒエイの胸が激しく鼓を打つ。図星だったから。あの公園にまだメルラがいるような気がして、なんとなく会いたかったから。
「ほ、ほら、だって……。危険が迫ってると知らせなければと思ったから……」
ヒエイがしどろもどろに答えても、アンジュは納得する様子を見せなかった。
「あいつにとって危険なことなんかないんじゃない。もう、フレイアに戻っているかもよ」
「まだ、ここにいるかもしれない。それにもしかしたら……」
「一緒にナイアスに行ける、とか思ってる。いや、一緒に行きたいって」
ヒエイは口をつぐんでうつむいた。アンジュの指摘の通りだった。この国での彼女のとふれあいの中で、いつしか彼は期待するようになっていたのだ。仲間になれるんじゃないかと。だって、同じ憂国の情をもっているのだから。
「どうして?」
答えないヒエイに、アンジュは苛立たし気に問いかける。
「あんたたちはナイアスに行ってヴォルヴァ様の力を借り、天気の天使をやっつけるのが目的なんでしょ。メルラは天使の付き人で、天使を守るのが役目。仲間になれるわけないじゃない。それともあんたは、天使の側につくってわけ?」
「違う!」
ヒエイは大きな声で否定する。
「天使の側につくわけなんかない。僕はあの国が嫌いだ。雨を降らすことしかしない天使も、それにこびへつらうことしか考えない支配者たちも、大嫌いだ。だからあの国を出て旅をしている。あのクソみたいな国を何とかする唯一の方法を求めて。でも、メルラは……」
海を眺めながら国のことを語っていた彼女の横顔が、ヒエイの脳裏によみがえる。
「彼女もまた同じ志を持っていた。あの国を何とかしたいと思って行動している者のひとりなんだ。彼女は仲間になるべき人だ」
言い切ってヒエイは口を閉じる。再び沈黙のおりた室内は、耳が痛くなるほどに静かだった。
その静かな部屋の底に膝を抱えたまま、アンジュは瞬きもせずにヒエイを見つめている。もう、敵を前にした猫の殺気は発していない。ただ静かに……透明な泉の底をのぞくような静かさで、ヒエイの顔を見上げていた。
「ねえ。ヒエイは……。ヒエイはさ」
やがて口を開いたアンジュはいったん言葉を切り、唇を噛んでから、ためらいがちに言った。
「メルラのことが……好きなの?」
その言葉を耳にしたとたん、ヒエイの全身がしびれ、頬が熱くなった。まったく自覚していなかったことだ。自覚していなかったが、それを否定することができなかった。
ヒエイの沈黙に対して、アンジュももう、何も言わなかった。ただその鋭い目を閉じて小さなため息をついたかと思うと、抱えた膝に額をつけるようにして、顔を伏せてしまった。
〇
翌日、無事交渉成立したナイアス行きの貨物船に乗船したものの、四人の間には気まずい空気が漂っていた。その空気の発信源は、アンジュだ。いつも不愛想で冷たい態度を隠そうともしない彼女だが、今日は特別ひどい。ヒエイがちょっと視線を向けると、すぐにそっぽを向く。意地でも彼とは目を合わせようとしない。もちろん、口もきかない。まるでヒエイと接したら死ぬと思っているみたいだ。前の日から続くその態度に、さすがのヒエイも腹が立った。故に今は彼もまた、アンジュに対しこれ見よがしに不貞腐れてみせている。
「いったい何があったか知らねえがよ」
仏頂面でそっぽを向くヒエイとアンジュを交互に見やりながら、アトラスが困惑顔で話しかけてきた。
「そろそろ夫婦喧嘩はやめにしてくれないか」
冗談めかして言ったつもりのようだが、アンジュからの反応は冷たい。
「私は悪くないし」
彼女が子供みたいにふてくされて言い返したので、
「僕は独身だ」
と、ヒエイも負けじと言ってやった。
アトラスは吐息をついて狭い船室の天井を見上げる。さしもの彼も昨日から繰り返されるこの不毛なやりとりにうんざりしたといった様子だ。
「ああ、もういい加減にしてくれ」
元来細かいことは苦手で気も長くない彼は、投げやりに言って頭をかきむしった。
「これまでいろんな苦労を共にしてきた仲じゃないか。もうすぐナイアスにつくっていうのに。それがどうしてこんな仲間割れみたいなことになってるんだよ。なあ、おかしいじゃないか」
「仲間……」
アンジュがアトラスの言葉をとらえて自嘲的に笑った。
「そう、ヒエイは誰とでも仲間になれるもんね。殺し屋だった私だって受け入れたんだ。でも、私は同じようにはなれない」
「え? 何を言ってるんだアンジュ」
アトラスの問いは無視して、アンジュは乗船して初めてヒエイを見据えた。彼を指さし口をゆがめる。
「あの女と私は仲間になれない。あの女は敵だよ。山では私らの行く手を阻み、アタナミでは私らを利用して窮地に追い込んだ。どう考えても性悪女よ」
「違う。彼女は敵じゃないし性悪でもない」
「あの女は見た目は可愛いもんね。でも、あんたは騙されてる」
「騙されてなんかない。君こそ目が曇っているよ。話せばわかる。彼女がどんなに……」
「そうやって……」
アンジュがほとんど叫ぶようにヒエイの言葉を遮った。
「そうやって、メルラのことでムキになるあんたを見たくないんだ!」
室内がシンと静まり返る。アトラスとハザムが唖然とアンジュのことを見つめている。その視線から逃れるように彼女はそっぽを向く。
「ちょっと、その辺歩いてくる。出航までには戻るから」
目を乱暴に拭ってから、アンジュは皆に背を向けて部屋から出ていった。




