32 ハザムの決意 後
ハザムは薄く目を開ける。彼の視界に入ったのは親方のスキンヘッドではなく、天井に下げられたシャンデリアだった。その輝きの中に、青い空が見えた。砂漠のどぎつい青空ではない。柔らかな雲を浮かべた、午後の泉のような眠たげな空。そこにふと、フレイアからの旅人の優しい笑みがおぼろげに見えた気がした。
「俺は……ハザム。人間だ」
「あ? なに、言ってんだ」
額に青筋を浮かべたダストが、ハザムの頭に拳を振り下ろす。
しかしその拳は空を斬る。寝たまま身をひねって間一髪、ダストの一撃をかわしたハザムは、その勢いを借りて立ち上がる。それと同時に鮮血が宙に散る。ハザムのそれではない。立ち上がりざまに抜いたナイフが、ダストの腕を斬ったのだ。
「てめえ……」
深手ではない。薄皮一枚斬った程度の軽い傷だ。しかし腕を抑えるダストは顔を真っ赤にして怒りをあらわにした。
「俺様に逆らうか。良い度胸だな」
しかし、ナイフを構えてそれに対峙するハザムは、もう、恐れることはしなかった。手足も震えない。筋肉も委縮していない。なぜなら……。
「俺は、あんたの所有物じゃない。下僕でもない。俺は、自由な意志と体を持った一個の人間なんだ。俺が誰の言うことをきくか、誰についていくか。それは俺が自分で決める」
相手を見据え、腹の底からこみ上げる声でそう言い放った。
「それで、てめえは誰についていくんだ」
「フレイアからの旅人。ヒエイ」
言い終わるか終わらぬうちに、ダストの蹴りがハザムの腹に襲い掛かる。
ハザムは腕を十字に交差させて防ぐも、その威力はすさまじく、アンジュの後ろの壁まで吹っ飛ばされてしまった。ただいたぶるのが目的だった先ほどのそれとは比較にならない。今度こそ、ハザムを本気で殺しに来ていることがひしひしと、その衝撃からは伝わってくる。
「ああ、そうかい。それじゃあ、お前はおしまいだな、ハザム。もう殺してやるから覚悟しろ。そんなナイフじゃ、俺にはかないっこないぜ」
拳を鳴らしながら、ゆっくりと近づいてくる。そんな「親方」ダストの威圧感たっぷりの姿を前にしても、ハザムの頭は妙に澄んでいた。そのどこまでも透明な空間に、一人の女が立っている。ハザムはなんの気負いもなく、彼女に語り掛けた。
確かに、俺はダストには勝てないだろう。ここで終わるかもしれない。もし、終わらなかったとしても、あんたたちは俺を連れて行ってはくれないかもしれない。けど、これだけはわかる。ここで俺がどうなろうと、あんたたちは旅を続けるということが。そして俺が生き残ったなら、俺はその旅についていこうとするだろう。アンジュ。たとえあんたが、拒否しても。無理やりにでも俺はついていく!
ハザムはナイフを構えなおすと、床を蹴ってアンジュの背後へと身を隠した。標的を見失ってダストは一瞬とまどい、動きを止める。相手の集中が切れたと見るや、ハザムは脱兎のごとくアンジュの影から躍り出て、床を這うように駆けダストの脚にとびかかった。
その太い脚に両腕でしっかりとしがみつき、全身の力を使って押し倒す。さしものダストもバランスを失って床に倒れこんだ。
「くそっ。離しやがれ」
怒鳴りながら彼は体をばたつかせる。蹴りやげんこつが、雨あられのようにハザムの全身に降りかかり、その華奢な肩や背や頭のいたるところに痣と傷をつくっていく。しかしどんなに蹴られても、どんなに殴られても、ハザムは決してダストの脚から離れようとはしなかった。
「へへ……。あんたの片足、道連れにしてやるぜ」
薄笑いすら浮かべるハザムに、さすがのダストも焦りをみせる。
「なんでだ。お前のやっていることは無意味だぞ。ここで俺にしがみついていたところで、ボロボロになって死ぬだけなのに。なぜ離さない。なぜ逃げない。いったい何が、お前にそうさせるというんだ」
「言ったろ。俺は自由な人間だからだ。それに、これは無意味なことじゃない」
「ほざけ!」
ダストは歯を食いしばり、渾身の力をこめてハザムを蹴った。脇腹に食い込んだその一撃に、さすがのハザムも腕の力を緩めてしまう。その隙を逃さずにダストはハザムの襟首をつかんで、力ずくで彼を脚から引きはがした。
荒く息を吐きながら立ち上がったダストは、力尽きたように床に仰向けになっているハザムを、勝ち誇ったように見下ろした。
「けっ。ようやく離れやがったか。悪あがきしやがって。これでお前も、しまいだな」
ハザムもまた激しい呼吸で胸を上下させながらダストを見上げる。しかしその傷だらけの顔に浮かべたのは絶望のそれではなく、会心の笑みだった。
「おしまいなのは、あんたのほうさ。『親方』ダスト」
そう言い放つと同時に、ダストの背後にどす黒い殺気が立ち昇った。
そのただならぬ気配に振り返ろうとしたダストの首筋に、銀色の光がすっと走る。次の瞬間、彼の首から大量の血が一気に噴き出た。
「どう……して」
「ずいぶん、好き勝手やってくれたねえ」
驚きに目を丸くするダストの目の前にいたのは、アンジュだった。その体には縄の一本もかかってはいない。いましめを解かれ、完全に自由な姿だ。いまや座る者のいない椅子の周囲の床には、解かれた縄が散乱していた。
「俺が……アンジュの影にいったん隠れたのは、このためだったのさ」
アンジュの代わりに答えたのはハザムだった。
「最初から、目的はアンジュのいましめを解くことだった。あんたの目をくらますふりをしてアンジュの背後に潜んだ俺は、彼女の手の縄をナイフで切ったうえで、そのナイフを彼女に渡したんだ。そのあとあんたにしがみついたのは時間稼ぎのためだった。アンジュが自由の身になって、あんたに引導を渡すまでのな」
「こ……の……」
首をおさえ、鬼の形相で目をむきながら、ダストはハザムに近寄ろうとする。しかしその前にアンジュが立ちはだかる。手にしたナイフを目の前にかざしながら、
「あんたは負けたんだよ。ハザムの勇気と彼の刃にね」
冷たく言い放つや、その刃を彼の胸に突き入れた。狙いたがわずダストの心臓を刺し貫いたナイフをそのままにして手を離したかと思うと、今度は彼の背後に回り込み、そのスキンヘッドを両手でつかむ。
「地獄に落ちな」
すでに地獄に落ちているに違いない悪党に捨て台詞を残し、アンジュはダストの頭を思いっきりひねった。彼女が手をはなすと、百八十度近く曲がった首は地面に落ち、そしてダストの身体は二度と動くことはなかった。
〇
ダストを成敗したアンジュはハザムの前にしゃがみこんだかと思うと、彼の顔を正面から見つめた。見るものを射すくめるようなその鋭い目を、しかしハザムは顔を背けることなく見つめ返す。初めてまともに見たかもしれない彼女の瞳は、闇夜のような漆黒で、でも雨に濡れたようにツヤツヤしていた。
「な……なんだよ」
ハザムがふくれっ面になって言うと、わずかに……ほんのわずかだけ、そのアンジュの目が細められた。しかしそれは一瞬だった。まだ部屋に残っている親衛隊員の攻撃が降りかかったからだ。
漆黒の瞳がわずかに動く。銃声に身をかがめたアンジュはダストの胸に刺さっていたナイフを引き抜くや、それを部屋の一隅に向けて投げつける。それはぞんざいな投げ方だったが、みごとに親衛隊員のひとりの胸を刺し貫いていた。
「すごいなアンジュ」
ハザムが思わずほめながら視線を戻すと、すでに彼女の姿は目の前にはなく、他の隊員に躍りかかっていくところだった。今度は素手。しかしアンジュの手刀はわずか一撃で相手を沈黙させる。そこにもう一人の隊員からの銃撃が襲うが、彼女は沈黙させた隊員を盾にしてその攻撃を防いだ。奪い取った銃で三人目の隊員の額を打ちぬくと、もう彼女を攻撃してくる者は部屋からいなくなっていた。
「さて……と」
敵の去った室内をしばらく探し回って己の武器を取り戻したアンジュは、九節鞭を腰に巻き付けながら誰に言うでもなくつぶやいた。
「はやく私もヒエイたちのところに行かなくちゃね」
そう言いながらも、部屋から出ていこうとはしない。床に尻もちをついたままハザムがポカンと見上げていると、彼女は振り返ってぶっきらぼうに話しかけてきた。
「あんたも行くんだろ。はやく立ちなよ」




