31 ハザムの決意 前
ひょっとして俺は、体よく追い出されたのではないだろうか。
タリスマンホテルへと向かう通りの、街路樹のヤシの枝の下を走りながら、ハザムはふとそんな疑念にかられた。
ヒエイとアトラスの頼みをきき入れて、勇んで城門を抜けて王宮から街へと出たものの、ひとりになって冷静に考えるとそんな気がする。街は今日も平和だ。城壁の向こうで今起きている騒乱とは関わりなく、人々は繁華街の狭い道をにぎやかに行き来し、食べ物や衣服をひさぐ店々のテントの下で談笑をしている。いつもと変わらぬ日常の風景。そこに俺を、返そうとしたのではないか、と。
もちろん、アンジュを救い出すという役目を託してくれたのは、たぶんヒエイとアトラスが信頼してくれたからだ。それは、ハザムにもわかる。だからこそ彼も全力疾走でここまで駆けてきた。信頼にこたえなければと思うから。彼らの大事な仲間であるアンジュを、彼らのもとに帰したいと思ったから。
だけど、その先は……?
ハザムは自分の足が重くなるのを感じる。鈍くなった彼の走る速度は今やジョギング程度だ。
その先、俺は、彼らと行動させてもらえないかもしれない。
そう、思ってしまったから。
ヒエイとアトラスはともかく、アンジュは俺のことを仲間とは認めていない。俺にアンジュを救い出させようということは、そういう意味も含んでいるのではないだろうか。自由の身になったアンジュが、そのまま俺を連れてヒエイたちのもとに戻るとは思えない。必ず追い返されることだろう。
でも、しょうがないか。ともハザムは思う。
俺は、足手まといだから。
口惜しさがこみあげて、ハザムは走りながら乱暴に目をこすった。
俺のせいで、アンジュは危険な目にあった。俺をかばって、ヒエイとアトラスはなすすべなく捕まった。俺がいなければ、三人とももっとスムーズに旅を続けていたかもしれないのに。
今や彼の足取りは歩くのとさほど変わらぬほどに落ちている。早く行かなければならないのに、鉄の鎖でもつけられたように足は前に進まない。しかし幸か不幸か、目的地は王宮からさほど離れてはいなかった。気づけばそこはもうタリスマンホテル前の公園だ。噴水の向こうに、タリスマンホテルの三層の建物が見えていた。
青すぎる空のもと、昼下りの陽光を浴びてまぶしく輝く白亜の建物のたたずまいも、残酷なほどに日常だった。
○
日常とは違うことにハザムが気づいたのは、ホテルの館内に入ってすぐのことだった。
人がいない。
ヒエイたちとメルラに会いに訪れたときは、もっとにぎやかだった。けっして騒がしくはないが、フロントやホールや廊下、階段などに何人もの宿泊客や制服を着たスタッフの姿が見られたものだ。
それが全くいない。ロビーに憩う宿泊客の姿も、廊下を行き交う人の姿も、フロントに待機するスタッフの姿さえない。
いったい何があったんだ。
もぬけの殻のフロントを覗きこむハザムの首筋を冷や汗が伝う。明らかに異常だった。嫌な予感がする。
「おーい。誰か、いないのか」
廊下の奥に声をかけてみるも返事はない。
引き返すか。
一瞬そんな考えが浮かびかけて、ハザムはあわててそれを振り払う。
ここまで来てそんなことできるものか。大丈夫、きっとたいしたことではない。たぶん何かのイベントがあって、みんなどこかに出かけているんだ。
そう、己に言い聞かせて、ハザムは廊下へと足を進めた。
恐る恐る階段を登り、二階のホールを覗いてみれば、やはりそこにも誰もいない。怪しさはますます募るが、しかしそれ以上のことは起こらなかった。怪物がいるわけでも、何かが襲ってくるわけでもない。
ハザムはホッと息をついて三階へと向かう。目的の部屋は三階の一番奥。とにかくそこまでいけばなんとかなる。と思って。そこまで行って、アンジュを解放しさえすれば。
ようやく人の姿を見ることができたのは、三階の廊下。目的のメルラのスイートルームの前だった。
その人は広い廊下の壁にもたれるようにして倒れていた。あきらかに正常な状態ではない。近づいてみると、顔色は蒼白で息も絶え絶えだった。脇腹を押さえている、その手の下からは血が染み出していた。
「おい、どうした」
ハザムがそばに寄って話しかけると、倒れていた男は虚ろな目を彼に向けた。
「はやく、ここから逃げろ……」
ハッとしてハザムは顔を上げる。それと同時にスイートルームの扉が開いた。
誰もいないはずの部屋から人が顔をのぞかせる。
その人物の顔を見た瞬間、ハザムは呼吸を忘れた。息がうまくできないのに心臓の鼓動は急激に早くなる。背から汗が吹き出し、全身の筋肉が萎縮した。
「よお、久しぶりだな。ハザム」
男は腹の底に響くような銅鑼声でハザムの名を呼び、髭面をゆがめて笑う。口を開けると欠けた前歯の隙間から、口内の闇がのぞいていた。
「お……親方。どうして……」
生きていたんだ。というハザムの問いはしかし、しまいまで発せられることはなかった。乾ききった喉に唾を流し込む間も与えられず首根っこを掴まれた彼は、そのままスイートルームに連れ込まれてしまった。
〇
部屋に入るなり乱暴に放り投げられたハザムは、床にいったん倒れこんでから顔をあげ、そしてまた息をのんだ。
そこにアンジュがいたからだ。
ただ、いたわけではない。アンジュは椅子に座らされていて、その椅子に縛りつけられていた。両手は後ろ手に縛りあげられ、体は背もたれに、両足は椅子の足に、縄で念入りに巻き付けられている。ハザムを見るなり彼女は眉を逆立てて何事かうめいたが、口には猿轡をはめられているので何を言っているのかわからない。
「いやあ、俺も驚いたぜ」
そう言いながらアンジュの傍らに立った「親方」ダストは、彼女の肩に手を置いてニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。
「たまたま仕事でこのホテルのこの部屋を訪ねてみれば、こいつに再開しちまったんだからな。しかも不思議なことに全く武器を持たずに、縛り上げられてこんな格好をしている。こんな愉快なことはねえ」
「仕事って……。どうしてここに……。あんたは砂漠の盗賊じゃねえのか」
「あ? それは俺の持ついろんな顔のひとつさ。今は親衛隊の密偵だ」
言われてハザムは左右を見渡す。その時になってようやく彼は、部屋に親衛隊の白い軍服姿が何人も待機していることに気づいた。
(そうか。王宮での出来事があって、大地の乙女は親衛隊をタリスマンホテルに派遣したんだ。ここにメルラが宿泊していることは当然把握していたのだろう。そしてその派遣隊の一員としてその手先であるダストも同行していた。メルラの部屋を捜索するうちに、武装解除されて縛り上げられたアンジュを発見してしまったというわけか)
ハザムは歯ぎしりをして床を睨みつける。こうなっているとわかっていれば、銃を持ってきたし、もっと慎重に行動したのに。今持っているのはナイフが一本だけ。これでは「親方」ダストに太刀打ちすることはできない。
それでも気力を振り絞って相手を見上げ、立ち上がろうとするも、さっそくダストに蹴り上げられて、再び彼は床に這いつくばった。
「しっかし、女を縛り上げて放置ったあ、なかなかいい趣味してるじゃねえか。あいつら、変態なのか?」
ダストはアンジュの顎を乱暴に掴んで、その髭面を彼女の頬に触れそうなほどに寄せる。
「こいつには痛い目にあわされているからな。さて、どうしてくれようか」
そして舌なめずりをし、唾をすする。餌を前にした獣のようだ。その気持ちの悪さにさしものアンジュも眉を寄せ、顔を背ける。猿轡をはめた口から呻きが漏れる。
「やめ……ろ」
思わず止めようとしたハザムの腹を、またもダストの蹴りが襲う。体をくの字に曲げて床を転げるハザム。その体に、続けざまに何発もの追い打ちがかかる。
「なに、俺様に命令してんだ。お前は俺の下僕だってことを忘れたか。役立たずのカスが。今ここでそれを思い出させてやるぜ」
重たい衝撃が罵声とともに、肩に背に脇腹に降りかかる。そのたびに過去のみじめな記憶が、心の傷が、痛みを伴って脳裏に浮かび上がった。それは一枚また一枚と、玉ねぎの皮をむくようにハザムの心から勇気や抵抗する気持ちをはぎ取っていく。
うすのろ。まぬけ。役立たずのクズ……。
それらの嘲りを、ハザムはあきらめとともに受け入れる。その通り。俺は何の力もない、虫けらのような男だ。だから親方たちの庇護の下から出ていこうとはしなかった。親方の手下であれば、とりあえずは生きていけたから。虫けらのような俺は、そうでなければこの砂漠で野垂れ死んでしまうから。
これが俺の日常だ。だけど……これでいいのかもしれない。
ダストの蹴りに耐えながらハザムは思う。
けられたり殴られたりするのは痛い。だけど、抵抗しなければそれは命を奪うことはない。そうやって今まで生きながらえてきた。王様とか大地の乙女とか、王宮の壁の向こうで起こっていることは、所詮は俺の手の届かぬ雲の上の出来事なんだ。そしてそんな雲の上で何が変わっても、結局俺みたいな下賤の者の境遇は変わらない。こうやっていたぶられながら生きていく俺の日常は。
「さあ、答えろ、ハザム。お前は何だ」
脇腹を蹴られたハザムは床を転げて仰向けになった。
「俺は……」
親方、あなたの下僕です。苦痛にきつく目を閉じてそう答えようとしたハザムの頬を、穏やかな風が撫でていった。




