30 脱出
バルバロスと名乗ったその老人は、痩せて頬もげっそりとこけていたが、まとう雰囲気にどことなく気品のようなものがあった。長い牢獄生活のせいであろう、その表情には疲労がこびりついており顔色も病人のように青白かったが、大きな瞳は生気を失っていない。
「もう、十五年になる」
そう言ってヒエイの前に胡坐をかく。ハザムがそれを通訳してヒエイに伝えると、彼は物珍しそうに大きな目をさらに大きくしてヒエイを見た。
「旅人か。懐かしい。それはフレイアの言葉じゃな」
今度は流ちょうなフレイア語で言う。戸口から戻ってきたアトラスが彼の隣に座って感嘆の声をあげた。
「爺さん。俺たちの言葉がわかるのか」
「ああ。昔、フレイアの人とはよく交流していたからな」
そして彼は話し始めた。口元にかすかな笑みを浮かべ、遠くを見るように目を細くして。
※ ※ ※
フレイアから来たのなら、お国との違いに驚かれたことであろう。見ての通りアタナミは砂漠の国だ。雨はめったに降らない。土地は貧しく農作物が育つのはオアシスの周辺だけ。あとは放牧と交易で人々は生計を立てていた。貧しい国だった。だが、貧しくともあの頃のアタナミの民は皆活き活きとして幸せそうに見えた。
今はそうじゃないのかって? どうも、そのようだのう。
十五年牢屋にいるわしがわかったような口をきくのはおかしいかね。わかるんだよ。ここには様々な者が送られてきて、いろんな話を聞かせてくれるからね。
少なくとも、二十年前には奴隷なんかいなかった。みんなあの女……大地の乙女がこの地に来てから変わってしまったんだ。
大地の乙女にはもう会ったかね。わしが外の世界にいたころにはまだ少女だったが、あれから二十年もたったから、今はいいおばさんじゃろう。なに、そうでもない? 不思議な力を持つ者は、若さを保つことができるのかのう。
大地の乙女は不思議な力を持った女だった。地面の土や岩を自在に操ることができたのだ。その力で城壁を造り、外国の侵略から王都を守った。あの頃の彼女はまさに救世主だった。護国の英雄、神から遣わされた聖女とあがめられ、たちまち国民の人気者になった。
外敵を退けた後も彼女の活躍は続いた。その大地を操る力は鉱山の発見にも役立ったのだ。彼女はいくつものダイヤの鉱山を発見し、この国に莫大な富をもたらした。
ここまではいい話ばかりだろう。大地の乙女のおかげで戦に勝利し国が豊かになったのだから。人々の生活水準はあがり、国の経済力も成長した。アタナミの全ての民が彼女のおかげで幸せになった……はずだった。
だが、そうはならなかった。幸せになったのは一握りの人間だけだ。
一度に発見された多くの鉱山を開発するには、莫大な労働力が必要とされた。しかしアタナミにはそれをまかなうほどの労働者がいなかった。深刻な労働者不足を解消するために考えられたのが、奴隷制度だったのだ。それは支配者や企業には都合の良い制度だった。正式な従業員ならそれなりの給料を払わなければならないし、労働時間も順守しなければならない。しかし奴隷ならばただで使いたい放題だ。国は鉱山開発のために重い税を国民に課し、払えないものは奴隷として徴用した。
豊かになったのはみかけだけ。潤ったのは国と企業だけだ。多くの国民は重い税に苦しみ、奴隷に徴用される恐怖におびえて暮らさなければならない。それが今のアタナミ国だ。そして、その奴隷制度を考え実行しているのが、大地の乙女と彼女を支える親衛隊という組織なのだ。
国を守った大地の乙女が、どうして国民を苦しめているのかって?
わからない。人の心のうちの変化など。何十年生きていても、わからないよ。ほんとうに、どうしてしまったのかのう。護国の英雄。神から遣わされた聖女……。この国にやってきたばかりの彼女はまさに、それにふさわしい神々しい少女だった。この国を守りたい、この国を豊かにしたい。その気持ちに偽りはなかったのだろう。それがどうして。時が、富が、彼女を変えたのだろうか。それとも時がたち、様々な問題に突き当たるたび、その心が少しずつゆがんでいったのだろうか。
※ ※ ※
話をきった老人は、うつむいて黙り込んだ。
「わしが……いけなかったのだ。もっと彼女を見ていたら。その微妙な変化に、気づいてあげていたら」
やがてため息と一緒に彼の口から告白が漏れる。
「王であるわしが、もっとちゃんと、彼女と向き合うべきだった」
再び牢内に沈黙が下りる。一呼吸おいて、
「えっ。王様なの?」
素っ頓狂な声をあげたのはハザムだった。
「どうして王様がここに? じゃあ、さっき俺たちがあった王様はなんだったんだ」
「ああ、あれか。あれはメドが仕立て上げた傀儡じゃよ。王家とつながりがあるらしいがわしはよくわからん。なんでもわしの母のいとこの息子の嫁の弟……だったかな」
「なんだそりゃ。ほとんど他人じゃないか」
「そのとおり。だから操り人形にはうってつけだった」
「大地の乙女本人も第三夫人だなどと名乗っていたが、それも仮の地位ってわけか」
王がうつむく。それを合図としたかのように、アトラスは颯爽と立ち上がった。
「つまり、あんたが俺たちについていこうというのは、偽りの支配者から王座を奪還するためなんだな」
「いや……」
王は首を振って自嘲的に笑った。
「いまさら、王様面をするつもりはないさ。ただ、もう一度あの娘に……メドと会って話をしたい。問いただしたいんだ。お前は本当にこれでいいのか。お前の目指したものはこれなのかと」
「そして、できればやり直したい」
そう言って今度はヒエイが立ち上がる。老いた王に手を差し伸べながら。
「それでは行きましょうか。微力ですが、お供しますよ」
「いいのかヒエイ。あとでアンジュに怒られるぞ」
振り返って茶化すアトラスに、ヒエイも笑いながら言い返す。
「君だっておとなしく出ていく気なんかないくせに」
「へっ。確かにそうだ」
鼻の下を指でひとこすりして、アトラスは今度こそ牢の出口に歩み寄り、その鉄格子に手をかけた。
「ハザムよ。いいこと思いついたぜ」
背中でハザムに話しかける。
「この王宮に閉じ込められてる奴隷という奴隷を、みんなこの機に逃がしてやろう」
そう言いながら彼は、枯れ枝でも折るみたいに鉄格子をへし折った。
〇
騒ぎを聞きつけて獄舎にやってきた衛兵は、ヒエイたちの姿を見るなり恐怖に顔を引きつらせたかと思うと、次の瞬間には壁や地面に倒れこんで動かなくなった。
「手ごたえのない奴らだぜ」
拳にフッと息を吹きかけながらアトラスが笑う。
「力加減を間違えて殺してしまうなよ。この兵隊に罪はない」
ヒエイはそんな相棒に苦笑で応じながら振り返る。
彼に続くのはハザムにメルラ、そしてアタナミ王バルバロス。それだけではなかった。せまい獄舎の廊下には、同じ牢に収監されていた人々が何十人もひしめいていた。大地の乙女に意見した大臣。親衛隊に従わなかった元軍人や役人たち。奴隷制に反抗した活動家たち……。みんな長い年月あの薄暗い牢に閉じ込められていたのだろう。その姿は幽鬼のように汚れ痩せこけていたが、それぞれの瞳にはバルバロス王のそれと同じ灯が爛々と輝いていた。
しかもその人数は増えつつある。アトラスとヒエイが、同じ獄舎の奴隷部屋を片っ端から解放していったからだ。
「扉は開いた。そこから出るかどうかは彼ら次第だ」
ヒエイもアトラスも立ち止まらない。扉をたたき壊しては、廊下の先へ先へと進んでいく。その二人に追いすがりながらハザムは弾んだ声をだす。
「このことを知ったら、きっと、アンジュは怒るね」
「もう、俺たち捕まっちまったんだ。こうなっちまったからにはやりたいことをやらせてもらう。なあ、ヒエイ」
「ああ、そうだね。きっとアンジュもこの場にいたら喜び勇んで奴隷部屋を開いたと思うよ。それにしても……」
ヒエイはハザムに手を引かれている少女に視線を向ける。メルラはぶぜんとした表情で彼らのあとについてきていた。
「あなたがおとなしく僕たちと一緒に来るとは」
「別に、好き好んで行動を共にしているわけではありません」
うんざりとした様子で彼女はため息をつく。
「ここは狭くて人がひしめいているので、致し方なくあなたがたと一緒にいるだけです。外に出たら勝手に帰ります」
そう言いながらもハザムの手を振り払おうとしないのはなぜだろう、とヒエイは思うのだが、あまりからかうとメルラがどんな挙動に出るかわからないのでやめておいた。
そのメルラの顔色が急に明るくなったように見えたかと思うと、彼女はまぶしそうに眼をすがめた。ヒエイもまた前を向いて顔をしかめる。そこは巨大な獄舎のエントランスだった。無人のエントランスの出口の扉は、大きく開け放たれていた。
〇
外に出ると昼下りの光が一斉に降り注ぎ、一瞬目がくらんだ。
「十五年ぶりの空だ」
ヒエイのとなりでバルバロス王が空を見上げながらしみじみと言った。その目には涙が滲んでいるように見えた。
「ああ、やはりいいな。青空は」
彼の後からは続々と囚人たちがつづき、獄舎前の広場は瞬く間に人であふれた。解放された囚人や奴隷だけではない。駆け付けた衛兵たちの一部も元王の前に膝を屈し、仲間に加わっていく。その規模は数百人に及ぼうかというもので、しかも刻一刻と膨れていくように見えた。
人々は歓声をあげ、バルバロス王を中心にして宮殿へと歩みを進める。ヒエイとアトラスも意気揚々と王の後についていく。ただひとり、メルラだけはその熱に浮かされることなく、冷ややかな視線で一行を見渡していた。
「まったく。つきあってられませんね」
「あなたも一緒に行かないのですか」
「まさか。私は帰ります」
そして流れに逆らって城門へと足をむける。しかし彼女がその目的を遂げることはできなかった。あとからあとから続いてくる人々が、彼女の行く手を阻むのだ。
「ああ。あなたですね。我々を解放してくださったのは」
「いえ、私は……」
「ありがとう。感謝の言葉もない」
「いや、だから……」
「我々とともに戦ってくださるのか。ああ、あなたは女神だ」
「そんなわけでは……」
「さあ、ともに行きましょう」
「うう……」
口々に声をかけられ手を取られ、メルラは反論の隙も与えられずに勝手に同志にさせられてしまう。神輿でも引き出されるみたいにして腕を引っ張られ背を押され、ついにはバルバロス王のとなりに押し戻されてしまった。
盛り上がる人々に囲まれて居心地悪そうにしているメルラを見ながら、アトラスは忍び笑いを漏らした。
「こいつはいい。どうせならこのままアタナミに居ついてもらいたいもんだ」
そんな彼の手には愛用の黒棒が握られている。王宮に入るときに預けていたのだが、仲間になった城門の衛兵が届けてくれたのだ。その黒棒をひと振りして彼は言う。
「さあて、フレイアの世直しの、予行演習といくか」
「俺も、手伝うよ!」
アトラスの隣でハザムが声を上げる。
その時だった。広場の前方で轟音が鳴り響き、集団が静まり返った。皆一斉に前方を注視する。そこでは白い制服の隊列が集団の行く手を塞ぎ、銃を空に向けて構えていた。
「親衛隊か。おいでなすったな」
アトラスはハザムを背にかばって黒棒を構えた。
「俺も戦う」
背後で主張するハザムの言葉を彼は首を振って退けた。
「いや。お前には頼みたいことがある」
そしてヒエイと視線を交わす。うなずいたヒエイは彼の言葉を引き継いだ。
「僕たちの代わりに、アンジュを救い出してきてほしいんだ」




