29 メルラの弱点
石造りの広い部屋には小さな窓が天井近くに空いているだけで、ほとんど光はささなかった。しかし流れ込む空気はひんやりとしていて、外の炎天下よりも過ごしやすいくらいだ。ただし、出入り口が格子戸でふさがれていなければ。
「なぜ、こんなことになっちまった」
その格子戸を石畳の床に胡坐をかいて忌々し気に見やりながら、アトラスがぼやいた。
「これだけの面子がそろっていながら、あっさり捕まるなんて」
「しょうがないよ」
ヒエイが苦笑しながらアトラスをなだめる。
「逃げ切れたと油断していたところを、奇襲されてしまったからね。しかも君は素手だったし、僕は奇妙な術に動揺していた。あそこで抵抗していたら、どんな怪我をおったかわからない。ハザムを守ることもできなかったろう」
「なんか、ごめん。足手まといで……」
ヒエイの横でハザムがしゅんと肩を落とす。その頭を乱暴に撫でてやったのはアトラスだ。
「気にすんな。お前さんは悪くないよ。それを言うなら一番の元凶は……」そしてハザムとは反対側のヒエイのとなりに座っているメルラを睨んだ。「あんたのせいだな。メルラさんよ」
並みの山賊ならそれだけで逃げ出してしまいそうなアトラスの眼光にさらされても、メルラは全く動じずに、何食わぬ顔で虚空をみつめている。まるでそこに誰も存在しないかのように、言葉一つ発しない。
「こんなことに俺たちを巻き込んでおいて、その態度はねえんじゃねえか」
相手の反応がなくても、腹の虫の収まらないらしいアトラスは、なおもメルラに食って掛かる。
「だいいち、なんであんたはあそこで何もしなかった。大地の乙女だかなんだか知らねえが、あんたほどの力があったなら、あんな奴ら瞬殺だったんじゃねえのか。そもそも、霧で覆う範囲を宮殿だけじゃなく、もっと広くしておけば追いつかれることもなく逃げおおせた。ルシフェルじゃ、それをやったろ。なんでそれをしなかったんだよ」
唾を飛ばす勢いでまくしたてるアトラス。そんな彼を落ち着かせようとして、しかしヒエイは出しかけた言葉を飲み込む。
たしかに、アトラスの指摘の通りだ、と思ったから。
フレイアの王都ルシフェルでヒエイたちの前に立ちはだかった時、メルラの発動した術はもっとすごかった。ルシフェルの一地区が全て呼吸が困難なほどの濃密な霧で満たされていたのだ。その範囲と密度は先ほど王宮で見せたものの比ではなかった。それに彼女は対人戦闘にも優れていた。ヒエイの術を難なく跳ね除け、アトラスが手も足も出なかった。いくら相手が銃を持っていて、見慣れぬ術を使うとしても、彼女なら難なく倒せたであろう。それが無抵抗で捕まるなんてあるだろうか。
「まさか……」
顎に手を当てて考え込んでいたヒエイは、唐突にあることに気づいてメルラを見た。
水を自在に操るメルラの能力。そしてからからに乾いた砂漠の国……。それを考えあわせた時に、一つの答えが導き出されたのだ。そんなわかりやすい弱点を彼女がさらすとも思えないのだが、でも、まさか……。
アトラスもまた同じことに思い当たったらしく、目を大きく見開いて彼女に顔を向ける。
そして二人同時にメルラに言い放った。
「あんた、まさか、水がないと力を発揮できないのか」
しん……と薄暗い牢獄内が静まり返った。言葉を発したままの姿勢で固まったヒエイとアトラスに挟まれて、メルラはやはり沈黙している。頑なまでに言葉を発しようとしない。口を真一文字に引き結び眉間にしわを寄せている。その表情はいつもの物憂げな飄々としたものではなくどこか不機嫌そうで、それがかえって答えを雄弁に語っているように思えた。
これは間違いない。とヒエイは確信する。たぶん図星だ。
「なんてことだ……」
メルラの能力を当てにして、こんな危険なことに付き合ったのに、とんだ誤算だった。ここからどうやって脱出したものだろうか。
失望を露わにしたヒエイの態度が気に障ったのか、メルラがむっとしたように言った。
「全く力が使えないわけではないです。ただ、弱くなるだけです」
「そうですか。はぁ……」
かまわずヒエイは大きなため息をつく。その口から思わず弱音がこぼれ出た。
「ナイアスの風景を見てみたかったなあ。いや、せめて海だけでも見たかった……」
しょげかえってうなだれるヒエイを、メルラは不審げに見る。
「あなたの目的は、ナイアスの聖人を連れ帰ることではないのですか?」
「え……。いや、なんというか……。僕は……」
メルラの指摘にヒエイは動揺し口ごもる。確かにこの旅の目的はナイアスに行ってヴォルヴァ様をフレイアに連れ帰り、天気の天使を追い落とすことだ。だが、ヒエイはそれをはっきりとメルラに言うことができなかった。メルラを恐れたからではない。彼自身がそこまでできるとは思っていなかったから。ヒエイが旅をつづける原動力はそのような遠大な使命感ではなく、ただ雨ばかりのフレイアから出て、ナイアスを見てみたいという興味と好奇心だった。それを人に言うのはなんだか恥ずかしかった。
頬をわずかに赤くしてヒエイはうつむく。その肩に手を置いて声をあげたのはアトラスだ。彼は何の迷いもなく、自信に満ちた声で言いきった。
「ああ、そうだぜ。俺は……俺たちはナイアスに行って、ヴォルヴァ様を必ず連れ帰る。天気の天使がふんぞり返っていられるのも今のうちだ」
その威勢のよさに、メルラはきょとんとアトラスを見つめて目をしばたたいた。
「まあ……。寝言にしては、ずいぶんはっきりとおっしゃいますね」
「おう。寝てようが起きてようが、俺ははっきりと言うぜ。やると決めたことは、必ずやるんだ。ところで、弱くなったメルラ様よ」
アトラスの眼光が鋭くなる。もっともその口元は少し緩んでいる。メルラが弱体化していると知ってうれしいようだ。
「何はともあれ、あんたの頼みはきいてやったんだ。仲間を返してもらおうか」
「仲間?」
「しらばっくれちゃいけない」
アトラスが気色ばむ。
「あんたが拉致したアンジュのことさ。コロネルからずっと一緒に旅してきた大事な仲間だ。ちゃんと無事なんだよな」
「こんなことになって、私がおとなしく返すとでも?」
「約束は約束だろ。結果はどうあれ、あんたの願い通り随身の役をしたし、謁見だってできたんだから。それがうまくいかなかったのは、あんた自身の問題だろ」
「勘違いしないでくださいね」
メルラはアトラスを睨み返した。
「喧嘩を売ったのは、私ではなく、あの王妃です」
ヒエイはしげしげとそんなメルラを見つめる。その表情はいつもの通り、うんざりしたとでも言いたげな物憂げなそれだ。だが、着慣れないフリフリの桃色ドレスはところどころ汚れてしおれ、そんなものを身に着けてそんな顔をしていると、彼女がいかにも疲れ切って消沈しているように見えてしまうのだった。先ほどの謁見の時に見えなかった彼女の表情が、今のその姿と重なる。
「ああ、そうだったね。あなたが怒るのも無理はなかった」
ヒエイは慰めるつもりでメルラの肩をポンとたたいた。そんなことをしたら怒られるかもしれないと思ったが、手は自然と動いた。この謁見の失敗で、きっと彼女も気落ちしているだろうと思ったから。
この得体のしれない天使の付き人に人間の感情を重ね合わせるのは間違っているかもしれない。本当のところ彼女は何も考えていないかもしれない。だけどヒエイは信じたかった。この魔女にも、傷つく心があるということを。
メルラは眉をひそめ、怪訝そうにヒエイを見る。やがてその口から小さく吐息がもれた。
「タリスマンホテルに。スイートルームの一室に、彼女はいます」
「そうか」メルラの返答と同時に勢いよく立ち上がったのはアトラスだ。「じゃあ、さっそくホテルに戻ろうぜ。こんなところにいつまでもいるわけにいかねえ。俺たちには大事な使命があるんだからな」
「ちょっと待ってよ」
格子戸へ向かおうとするアトラスをハザムが呼び止める。
「どうやって、ここから出るの?」
振り返ったアトラスはニヤリと口の端をあげ、手錠をはめられた両手を目の前にかざした。力を込めたらしく彼の両腕の筋肉が盛り上がり血管が浮き出る。そうかと思うと両の手頸にはめられた手錠がばらばらに砕け散った。
口を丸く開けて呆然とするハザムに笑いかけて、アトラスはへたくそなウインクをした。
「力ずくだよ」
そして格子戸に歩み寄り、鉄格子に手をかける。
その時だった。
「ちょっと、待ってくれ」
さっきのハザムと同じセリフ。しかし今度は牢の奥から声がした。
アトラスとヒエイとハザム、そしてメルラも振り返る。
どこまで続いているかわからない牢の奥の暗がりから、人がひとり、這い出してきた。白い口髭を蓄えた老人だった。
彼はフクロウのような大きな丸い目でヒエイ一行をぎょろりと見渡し、そして言った。
「出るなら、わしらも一緒に出してくれないか」




